第3話:命を繋ぐ呼吸
水面が、騒然としている。
俺の耳には、遠くから聞こえるコーチの叫び声、部員たちの焦燥、ライバルである双璧ペアの息をのむ音が、まるで水中で聞いたかのようにくぐもって響いていた。意識が朦朧としている中で、音の粒が水に溶けていく。頭を打った衝撃で、視界は二重に歪み、何もかもがぼやけて見えた。
俺の体は、ただ沈んでいく。いや、誰かに引き上げられている? 全身から力が抜け、ただ流されていく感覚。
(ああ、俺、失敗したんだな。…また、だ。また俺は、この青い水の中で、独りぼっちになるんだ)
そんな、他人事のような思考が、ぼんやりと頭をよぎった。事故の瞬間、俺の目の前で扉が閉まるように暗転した世界は、もう二度と開かないのではないかという絶望が、冷たい水のように全身に染み渡っていく。
水中で見る光は、まるで遠い星のようだった。泡の一粒一粒が光を反射し、まるで夜空に散らばる星座のように輝いていた。泡の流れに耳を澄ますと、その一粒が光を砕き、破裂する瞬間の音が、耳の奥で微かに聞こえる気がした。まるで宇宙の誕生のように、静かで、神聖な音。その光の筋は、ひどく遠く感じられた。まるで、意識の扉がゆっくりと閉じていくようだった。その扉の向こう側には、きっと何もかもから解放された、静かで、安らかな無の世界が待っている。俺の耳の奥では、自分の心臓がドクン、ドクンと、不規則な音を立てていた。その音は、まるで俺の命が、今にも壊れそうなドラムを叩いているようだった。
(このまま、全部終わってしまうのかな)
そう思った瞬間、脳裏に古い記憶がフラッシュバックした。それは、初めて地元の市民プールに連れて行かれた、暑い夏の日のこと。まだ、水に顔をつけることさえ怖くて、プールの縁にしがみついていた。向こうのコースでは、小学生の高学年の子たちが、楽しそうにクロールをしていた。俺は、その滑らかなフォームを、ひどく羨ましく見ていた。水の中には、別の世界があるのだと、幼い俺はそう信じていた。その時、俺はコーチに、水面に顔をつける練習をさせられていた。「いいか、怖がらなくていい。プールの水は、お前を拒まない」そう言って、コーチは俺の背中をそっと押した。その瞬間の、プールの水のぬるま湯と、顔にかかる水しぶきの冷たさ。俺は意を決して、水に顔をつけた。その時の、鼻の奥にツンとくる塩素の匂い、耳を覆う水の音、そして目の前で光が揺らぐ光景。すべてが、今、この水中で感じている感覚と重なった。
あの時、俺は水の向こうに、新しい世界を見つけたんだ。
でも、今はどうだ。その世界に、俺は独りぼっちだ。
記憶はさらに過去へと遡る。初めて、飛び込み台の上に立った時のこと。あの高さから見るプールは、底が見えないほど深く、まるで宇宙のブラックホールのようだった。足が震えて、体がすくむ。俺の心を、恐怖が支配していた。その時、遠くから聞こえた誰かの声。「大丈夫、水は君の全部を受け止めてくれる」誰の声だったかは覚えていない。だが、その言葉に、俺は背中を押された。意を決して飛び込んだ。あの瞬間、体は空を舞い、一瞬の無重力感の後に、水が全身を包み込んだ。それは、冷たくて、暖かくて、そして、心地よい感触だった。俺は、あの瞬間から、水が大好きになった。
そして、その記憶は、氷室先輩に出会った日の記憶へと繋がった。
彼は、水面に立つ氷の彫刻のようだった。完璧なフォーム、無駄のない動き、そして、その表情からは一切の感情が読み取れない。俺は、あの完璧さに、憧れと同時に、遠い隔たりを感じた。彼は、水の中で、自分の世界を完成させているように見えた。俺とは違う、特別な存在。彼の泳ぎは、まるで水面を滑る宝石のようで、その輝きに、俺はただ目を奪われていた。あの時、俺は、いつか彼のような存在になりたいと、心から願った。だが、その願いは、今日、こうして、儚くも水の中に沈んでいく。
俺は、また、独りぼっちになるんだ。
その時だった。
「おい、誰か、あいつを!」
遠くから、コーチの叫び声が聞こえた。いつもの冷静さを失い、喉が枯れるほどの大声。
「もうダメだ! あいつ、動いてないぞ!」
「頭を打ったみたいだ、意識がない!」
部員たちの悲鳴にも似た声が、プールサイドに響き渡る。その中には、恐怖と焦燥が入り混じっていた。
「くそっ、見ろよ。やっぱりあいつ、ダメだったんだ」
「無茶しやがって…」
一部の心ない声が、俺の耳に届く。その声は、俺の孤独をさらに深くする。彼らにとって、俺はただの失敗者。ただの「ダメなやつ」でしかない。
そんな混沌とした状況の中、ライバルである双璧ペアは、ただ静かにその光景を見守っていた。
「…水面で動かないな。脳震盪か?」
「ああ。だが、水中にいる時間が長すぎる。このままでは…」
彼らの声は、まるで医者の診断のようだった。感情を一切含まない、ただの事実の羅列。彼らにとって、俺の失敗は、ただの「データ」でしかないのだろうか。俺の命の危機は、彼らの競争心にさえ、火をつけることはない。
そんな、冷たい視線が、俺の体を突き刺す。
その時、何かが、冷たい水の中から引き上げていく。
それは、氷室先輩だった。
呼吸が、できない。肺に、水が入ったままだった。
苦しい。
体中を締め付けられるような、激しい苦痛。俺の喉から、ひゅっと空気が漏れる。
その瞬間、何かが、俺の口を塞いだ。
生温かい感触と、わずかに混ざった塩素の匂いが鼻腔をくすぐる。それは、水中で感じた冷たさとは違う、肌に吸いつくような温かさで、俺の全身を包み込む。
「大丈夫、大丈夫だ」
氷室の声が、耳元で掠れる。その唇から押し出された温かい空気が、俺の肺へと送り込まれてくる。
一度。
肺が、酸素を求めてひくつく。
「生きろ!」
その切羽詰まった声が、空気を押し出す。その空気が、俺の肺を押し広げ、硬直した体に、無理やり命を吹き込んでいく。
そのたびに、俺の心臓が、ドクン、ドクン、ドクンと、まるで新しいリズムを刻み始めたかのようだった。
「聞こえるか、おい!」
氷室先輩の手が、俺の胸骨を強く圧迫する。その手は、まるで壊れそうなガラス細工を扱うかのように、慎重で、そして、力強かった。その力強さが、俺の肺に溜まった水を、強制的に吐き出させる。
(…この、息は……)
塩素の匂いではない。
どこか、冷たいプールの空気とは違う、懐かしい、清潔な、かすかな水の匂い。
それは、俺の心を落ち着かせる、不思議な安堵感をもたらした。
俺の、肺を。
俺の、心臓を。
俺の、命を。
その息は、繋いでいた。
その温かさが、俺の全身に広がり、冷え切った体と、独りぼっちだった心に、熱を取り戻していく。
呼吸が、できる。
俺は、激しく咳き込み、肺に入った水を吐き出した。喉の奥から、ゴボゴボと音を立てながら、水が溢れ出す。その感覚は、まるで溺れていた俺の魂が、ようやく肉体に戻ってきたかのようだった。
(…これは、救命なのか? いや、それだけじゃない。この唇の感触は、なんだ? 命を繋ぐための行為のはずなのに、なぜか、妙に温かい。まるで、俺という存在を、根っこから温めてくれるような…)
俺の思考は、まるで暴走列車のように、勝手に加速していく。
(もし、このまま俺が死んでいたら、先輩は泣いただろうか? いや、あの完璧な氷室先輩が、人前で涙なんて見せるはずがない。でも、ほんの少しでも、俺という存在が、彼の心に影を落としただろうか? 俺の死を、ただの「部員の一人の事故」として、片付けられただろうか? そんなこと、俺は、いやだ…)
思考の暴走は止まらない。
(…そもそも、生きる意味ってなんだ? ただ、泳ぐために生きているのか? それとも、誰かに必要とされるために? もし、俺が今、こうして、誰かの助けを借りて生きているとしたら、俺という命は、俺だけのものじゃないのかもしれない。俺は、誰かとの「繋がり」の中で、初めて生かされている…)
その思考が、ストンと胸に落ちた。
視界が、一気にクリアになる。
俺の目に飛び込んできたのは、焦燥と安堵が入り混じった、氷室先輩の顔だった。濡れた髪から滴る水が、彼の眉間を伝っていく。その瞳は、さっきまで見ていた冷たい光を宿しておらず、ただ、俺という人間を心配している、剥き出しの感情を映していた。
「……よかった、よかった……」
先輩は、小さくそう呟き、俺の頭を、乱暴なほど優しく撫でた。その手は、震えていた。その時、俺は初めて、氷室先輩という男の完璧さの裏にある、人間の弱さを見た気がした。俺は、ただ呼吸ができるようになっただけなのに、心臓が、まるで新しいリズムを刻み始めたかのようだった。
「……先輩……」
俺は、弱々しく彼の名前を呼んだ。その声に、先輩はハッとしたように顔を上げ、俺から視線を外した。「馬鹿な真似をするな。…もう、二度と」その声は震えていて、俺の心を強く揺さぶった。俺は、あの瞬間、俺を救ってくれたのは、彼の完璧な技術でも、冷静な判断でもない、剥き出しの感情だったのだと理解した。そして、それは、俺たちの間の「ズレ」を埋める、最初の一歩だった。
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