第2話:恐怖の臨界

不穏な静けさだった。

それは、プール全体の空気そのものが重く、淀んでいるかのようだった。水面を叩く練習音、コーチのホイッスルの反響、遠くの観客席から漏れ聞こえる子供たちの笑い声まで混じって響いてくる。そんな賑やかさの中で、氷室先輩の沈黙だけが、やけに不自然で耳に刺さった。塩素の匂いがいつもより強く鼻をつき、湿った空気が肌にまとわりつく。プールサイドを歩くたびに、靴底がざらついたタイルの感触を拾った。その日の朝から、氷室先輩は口を開かなくなった。更衣室のロッカーを閉める音、シャワーから滴る水滴の音、それらすべてが、俺を無視するかのように響いていた。食堂で、俺がカレーの皿をカチャリと置いた時も、彼は顔色一つ変えずに黙々とスプーンを動かしていた。その静寂は、声よりも、怒鳴り声よりも、ずっと重く俺にのしかかっていた。


(なんで、あんな風に言うんだ。…合わない、それだけだ? そんなはず、ないだろ。だって俺たちは、昨日まで一緒に飛んでたんだぞ。毎日、同じ時間、同じ場所で、同じ目標を見てたんだ。……なんだよ、その態度は。まるで、お前は最初から完璧で、俺がお荷物だったって言いたいのか? ああ、そうなのかもしれない。だって、お前は氷室さんだ。氷室さんってのは、きっと、そうなんだ。完璧で、冷たくて、無慈悲なロボットみたいな…いや、でも、俺は見たぞ。あの時、一瞬だけ見えた、焦った目を。ロボットに、焦りなんて…いや、まて、ロボットだって、バッテリーが切れそうになったら焦るのかもしれない。俺は、氷室さんのバッテリーを、無駄に消費しただけの、ダメな電池だったってことか? ああ、そうか。俺が氷室さんの身体を動かすネジ一本だとしたら、俺は欠陥品だったってことだ。俺のせいで、大事な歯車が噛み合わなかった。シンクロなんて、歯車合わせみたいなものだ。…いや、違う! 俺は、俺は…!)


氷室先輩の言葉が、頭の中で何度もリフレインする。まるで呪いのようだった。今日の練習は、個人競技の飛び込み。シンクロの練習で崩れた感覚を、一人で取り戻すためのものだ。しかし、俺の心は一向に晴れなかった。プールに差し込む午後の光が、水面に不自然なほどきらめいている。その光が、俺の心を苛立たせた。


「次は俺だ」


背後から聞こえたのは、ライバルペア、通称『双璧ペア』の一人、黒瀬の声だった。

俺は思わず振り返る。

彼らの番だった。二人は、何の迷いもなく飛び込み台に立つと、完璧にシンクロした演技を見せる。

まず飛び板飛び込み。二つの体が同時に空を切り裂き、同じ角度で水面に突き刺さる。黒瀬は常に冷徹で、その鋭い眼光は獲物を狙う鷹のようだった。対する相棒の白石は、表情を変えることなく無機質に演技をこなす。まるで魂を抜かれた人形だ。彼らの着水はほとんど無音に近かった。わずかに弾けた水しぶきの粒一つ一つまでが、まるで計算されたかのように、同じ軌道を描いて消えていく。その時、コーチの眼鏡に反射した光が、一瞬だけ鋭く輝いた。

観客席からも、コーチからも、大きな拍手と歓声がその静寂をかき消した。周囲の部員からは「やっぱりすごいな」「人間じゃないみたいだ」というざわめきが聞こえてくる。


彼らの完璧さが、俺の心をさらに追い詰めた。


「おい、いつまで立ってるんだ。次、行かせろよ」


黒瀬が苛立たしげに声をかけた。

その声に背中を押されるように、俺は意を決して飛び込み台に立った。

十メートル。

足の裏に、べっとりと汗が滲んでいるのがわかる。膝が小刻みに震え、口の中がカラカラに乾いていた。喉がひゅっと狭まり、うまく声が出ない。風が、プールサイドの喧騒を遠ざけていく。遠くで、コーチの声が聞こえた気がした。

飛び込み台の先端に立った瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。光が強調され、水面の青さが不気味に輝いて見える。


(大丈夫、俺は飛べる。飛べるはずだ……!)


しかし、高所への恐怖が、一歩踏み出すたびに俺の足を重くした。

足先が台の先端から、一瞬はみ出した。

その瞬間、バランスを崩し、俺の体は制御を失った。

風が、耳元を切り裂くような音を立てる。

瞼の裏に、赤黒い残像が広がる。

青い水面が、ゆっくりと、そしてひどい速さで近づいてくる。

体が、ひどい勢いで回転している。

そして、その恐怖の中で、背後から「おい!」と、氷室先輩が何かを叫んだような気がした。


(ああ、駄目だ。このままだと、頭から……!)


俺の脳裏に、事故の記憶がフラッシュバックした。

そして、鈍い衝撃。

視界が揺れ、扉が閉まるように、世界が暗転した。

水の冷たさが全身を襲い、息ができない。

耳の中で、自分の鼓動だけがやけに大きく聞こえた。

プールサイドのざわめき、誰かがプールに飛び込む音が、遠い世界のことのように響いた。

水中での無音状態。泡の粒が視界を埋め尽くし、遠くに見える光の筋も、ひどく遠く感じられた。まるで、意識の扉がゆっくりと閉じていくようだった。

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