私たちは何を美しいと思うのか

伽墨

有限と無限の対立の中で

美は有限の中から生まれる──そう考えてきた。

音楽の平均律は無限に連続する音をたった十二に区切る。絵画はキャンバスという有限の矩形に縛られる。俳句は五七五というわずか十七音しか許されない。

その制約の中でこそ、音楽は形を持ち、絵は絵となり、言葉は研ぎ澄まされる。


けれど、あるとき思った。

美を輝かせるのは、有限の制約そのものだけではない。そこからの逸脱こそが、美をいっそう深く照らし出すのではないか。


私はギターを練習していて、それを体感した。

「チョーキング」という技術で弦を押し上げると、音は定まらず、わずかにふらつく。そこには確かに微分音が存在する。ピアノは十二の音に縛られ、ギターのフレットもまた有限だが、チョーキングは秩序からの逸脱であり、有限の中に無限を覗かせる。

だが、もし音が無限に連続して漂うだけなら、美は形にならない。美しいのは「有限という秩序の中での逸脱」なのだ。

もっとも、私自身はギターが下手くそだ。リズムを外すし、左手の押さえ方が甘いから音程もいかれている。つまり私のギターは、有限という制約を超越して、無限の中でふらふら漂っているだけだから下手に聞こえるのだ。およそ二十万円したギターも、きっと泣いていることだろう。


風呂場で歌を歌っていても、同じことを思う。

音階とは無限の音を刻み、そこに基調となる秩序を生み出す仕組みだ。だが歌うとき、人はそこから逸脱する。メリスマやビブラートは、まさにその逸脱である。

平均律から外れ続ければ、それは単なる音痴にすぎない。無限に漂う音には美はない。

しかし平均律というルールの中で意図的に揺らぐメリスマやビブラートは、有限と無限の対立を歌に刻み込み、歌唱という行為をより豊かにする。私の歌はその基盤を欠いている。ただ外れているだけだから、美にはならないのだ。風呂場で私があげる「奇声」は、おそらく同居人のストレスになっているに違いない。


千葉哲也氏の『センスの哲学』には、ざっくり要約するとこう書いてあった。

「基調となるビートがまず存在する。その上で基調からの逸脱が“センス”として光る。」

基調とは有限の制約であり、そこからはみ出すものが、センスや美となる。音楽なら微分音、絵画なら余白、俳句なら字余り。逸脱は無秩序ではなく、有限に根ざすからこそ輝くのだ。


有限だけでは硬直し、無限だけでは散漫だ。

両者のあいだに張り詰める緊張こそが、私たちを惹きつける。

もし人生が無限に続くなら、美しさは生まれないのかもしれない。

有限の時間があり、その中で思いが逸脱するからこそ、一瞬は美となるのだ。

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