【短編】赫き爪痕に降りし雪、焔に宿るひとひらの恋

旭 朔/Asahi Saku

赫き爪痕に降りし雪、焔に宿るひとひらの恋

 窓の外では、雪が降っている。

 

 ぱらぱらと、風に靡かれながら、地面と触れ、やがて溶けてゆく。ここは病院の一室。そのなかでも、政治家などが使うVIPルーム。


 その部屋のベッドには、琥珀色の長髪の下ろし、その瞳は焔を思わすほどの赤色。彼女はその体に幾重もの包帯を巻いていた。


 どのような怪我をしたかは分からない。しかし、その広範囲に及ぶ包帯からは、痛々しさが滲んでいた。

 

 彼女は体を起こして本を読みながら、自身の心に宿るある想いに頬を染め、彼が今から来ることに、体が、心がはやってしまっていた。


「ううぅ……相馬さんに何と言えばいいのでしょうか。いつもいつも助けられてばっかり。迷惑しか掛けていない私が、この想いを、この——恋心を、相馬さんに伝えても、良いのでしょうか……」


 いつも彼女を助けてくれるという相馬という、彼女の思い人。しかし、そのいつも助けてくれるという関係性からか、彼女は想いを伝えるための一歩が、出ないでいたのだ。


「はぁ……笹木先輩にもいろいろと迷惑を掛けてしまって、本当に自分が情けない。もっと、もっとこの力を上手く使えていれば……私も、先輩たちの助けになれるのかも、しれません」


 そう言って、彼女は掌から焔を呼び出す。その焔は、光輝き、だんだんと己を闇へと堕としていった。


(この力が、いつも原因となっている。そう相馬さんから聞かされたときは、自分でも、どこか信じられなかった。でも、毎回攫われるたびに、彼らは私に、力を使うように迫ってくる。

 

 ——『癒せ』と。


 ——『壊せ』と。

 

 そう迫ってくる彼ら。癒しを齎す『聖の焔』と、破壊を齎す『邪の焔』。癒しと破壊。両方を有するからこそ、その力を求める彼らのような人間に、私はいつだって狙われている。私に平穏はない。平穏があったとしても、それはただの——嵐の前の、静けさだから。だから、今だって——)


「…………ッ!」


 窓に影が差した。慌てて窓を覗くと、雪は止み、世界は不思議と白銀に染まっていた。


 そして病院の上空には、降り積もるはずだった雪が集まり、段々と集束していく。それはやがて人の形をとり、そしてそこに現れたのは、


 ——氷の精霊。


「ナジャール……!」


 氷の精霊——ナジャールは、『冷気』を司る。それ故に、今のこの冬の季節においては——無敵。周囲の冷気を操り、攻撃や防御、回復まで熟す。だからこそナジャールは、北半球の極寒の国々で、その猛威を振るっていた。


 その地域よりは温かいとはいえ、冷気がある限り、ナジャールは死なない。そのとき、ナジャールの周囲に氷の槍が出現した。そしてその手をこちらに向けて——下ろす。


 すると、氷の槍がこちらに飛んできて、病室の壁を破壊する。彼女はそれを咄嗟に焔で防ぎ、なんとか他に影響を与えることを阻止できた。


「もうッ……先日襲われたばかりなのに……!」

 

 そんな彼女の耳に、この病院にいる人たちの悲鳴が届く。いくら異能都市にある病院とはいえ、襲撃が想定されているわけではない。


(避難には時間がかかる。しかも此処は都市郊外の病院。応援が来るのにも時間がかかる。とはいえ、ナジャールをこれ以上暴れさせるわけにもいかない。どうすれば……)


「狙いが私なら、私がこの病院から離れればいい。そうすればナジャールもついてくるはず!」


 そう考えた彼女は、ナジャールの攻撃で壊れた壁から飛び降り、焔をつかって、落下の勢いを緩める。


 そして急いで病院から離れるためにも、足の裏から勢いよく焔を噴き出して、その病室を離れた。ナジャールも、病院を離れた彼女を追っていった。



「なんでッ、なんでなのッ、ナジャール……!」

 彼女の心の内を、凍えさせながら。





 ナジャールが病院に出現した頃。ロシア官邸に、ひとりの男が訪れていた。


 その男の名は、——桐生きりゅう相馬そうま


 彼女——天護あまもり琥珀こはくの思い人であり、世界最強と目される人物である。そんな彼がいったいどのような用で、官邸を訪れたかというと——。


「彼女から手を引け」


 彼は今、自身の爪を刃として、現職のロシア大統領である——ヴィクトルを脅していたのだ。


「何を言っているんだね、君は。突然官邸を襲撃したと思えば、彼女から手を引け? 私にはさっぱり、何がなんだか分からないよ」


「御託はいい。調べは既についている。ヴィクトル・ニコラエヴィチ・クロパトキン。貴様が彼女——天護琥珀を狙う計画を主導したとな」


 彼はヴィクトルの言葉に耳を貸さず、淡々と話を進めていく。すると突然、ヴィクトルが笑い出した。


「ならば仕方がない。だが——一足遅かったな、爪赫よ。もうすでにナジャールが日本に着いている頃合いだ。貴様が如何に最強だろうと、日本とロシアとの距離を、そうすぐには移動できまい」


 そう言って再び笑い出すヴィクトル。そんなヴィクトルの言葉に、彼はまったくと言っていいほど表情を変えていなかった。


「遺言はそれだけか?」


 そう淡々と聞き返す彼に、ヴィクトルも冷や汗を流すしかなく、ヴィクトルの見る彼は、とても冷たい顔をしていた。


「いいのか貴様ッ⁉ いくら彼女が炎系の異能力でも、相手はナジャールだぞ! 彼女に奴を倒す力はない! お前にもわかるだろう⁉ なぁ、桐生相馬!」


 ヴィクトルはそう彼に向かって論を飛ばし、彼が彼女の救援に向かうように企む。自身が主導したこととはいえ、命あっての物種だ。ナジャールが倒されようと、今のヴィクトルにとってはとても些細なことだった。


「……ああ、そうだな。ならばお言葉に甘えるとしよう」


 彼はそうヴィクトルに向けていた爪を収めると、背を向けて歩き出した。その姿にヴィクトルは息を漏らすと、胸に一筋の痛みが襲い掛かってきた。


 目を見開く彼は、ゆっくりと目線を自身の胸へと向け、その胸を突き破って出てきた爪を見た。


 その爪はヴィクトルの血によって赫く染まり、その爪がすっと抜けると、その振動で再開した呼吸に血が混ざる。


 ヴィクトルは驚きを宿した瞳で彼を見つめ、ゆっくりと、血に呑まれるままに、息を引き取っていった。



 彼が官邸の大統領室を出ていくと、静寂に包まれたその部屋に、ひとつの印刷音が響いた。ゆっくりと、ゆっくりと印刷されていく。


 そうして印刷音が止み、一枚の紙が、血の広がった床に落ちた。


 タイトルは、——異能調査報告書。





 病院を離れて、開けた雪原へとやってきた彼女。そしてナジャールも、彼女を追ってこの雪原へと降り立った。


「来るなら……来なさいッ!」


 覚悟を持ってそう宣言する彼女。それを聞いたナジャールは、周囲に複数の氷槍を浮かべた。


 今にも戦いの火ぶたが切って落とされそうなそのとき——突如として二人の間に、空間の裂け目のようなものが現れた。


 そしてその裂け目から現れたのは、——桐生相馬その人だった。彼がその裂け目を潜ると、裂け目は閉じていく。


 そうして彼は腕を振り、その爪についた血を払う。雪原に落ちた血は、その鮮やかさが失われることはなく、その生々しさを魅せていた。


「相馬さんッ⁉ どこから来たんですかッ⁉」

 

 そして彼の姿に彼女は驚愕し、ナジャールも想定外と言わんばかりに動揺が動きに出ていた。


「ロシア官邸に行って来た帰りだ。あの阿呆が、ナジャールをこちらに差し向けてきたからな。つい先程殺してきたところだ」


 ふぅ、と溜息を吐きながら、その目線は鋭く、刃のような瞳でナジャールを睨んでいる。


「……相変わらずですね、相馬さんは」


 そんな彼の言葉を聞いて彼女は、彼らしい態度に安心を覚えていた。場違いな感情ではあるだろう。


 人を殺したという彼に対し、安心を覚える彼女。それは傍から見れば狂気の沙汰。


 しかしこれが、異能の世界において、彼と彼女において、当たり前なのである。


「ナジャール。依頼主は死んだが、君はどうする? 依頼から手を引くか、それとも——私に殺されるか。どっちでも選べばいい」


 ——手を引かなければ、君が死ぬだけだ、とナジャールを脅す彼。その言葉に、ナジャールはすぐに飛んで帰って行った。その姿を眺める彼だが、ナジャールが去っても、その瞳は鋭さを保持したままだった。


「相馬さん、ありがとうございます!」


 小走りで彼に近づき、彼女は彼にそうお礼をする。すぐに頭をあげると、その頬は朱に染まっており、口元も微笑んでいた。


「気にするな。私は、私にとって邪魔な者を排除しただけだ。お前のためではない。……しばらくはロシアも荒れる。その間は、アイツらのことも気にしなくていいだろう」


「それでも、です。私を助けてくれたことに、変わりはないんですから。素直に受け取ってください、ね?」

 

 彼のその発言にも、彼女は押し通すように感謝を伝える。彼は、彼女が自分に恋していることは、表情と発言からわかっているだろう。


 だが、彼は彼女の思いを、断ったり、自ら伝えることもしない。待っているわけではない。


 ただ、彼にとって『恋』とは、興味の対象外だからだ。そのことは、彼女もわかっている。だから、だからこそ——。


「相馬さん」


「……なんだ?」


「相馬さん私——」


 そのとき、彼女を素早く抱えて、彼は空高く跳び上がった。すると、彼らのいたところに、いくつもの氷槍が突き刺さる。雪が舞い上がり、地上は雪煙に包まれた。


「なんや避けてまうんか~。そんままらぶらぶちゅっちゅっ、しとけばええのに……。ほんまに残念やわ」


 地上に降りると同時に、若い男の声が聞こえる。関西弁で話しているためか、とても嫌味に聞こえてくる。だが、彼女はその男の声に、聞き覚えがあった。


 その男の名は——榎本えのもと聖人まさと


 異能都市-虹芒星こうぼうせい、白峰区画にある白峰学園の生徒会長。


 異能力者のための学園であり、生半可な考えでは、その座を維持するのは難しい。異能力、統治力、指揮力。いろいろな能力が、生徒会長として、学園とこの区画を治めるために、必要なのだ。


「榎本会長ッ⁉ 何をしているんですか貴方はッ⁉」


 彼女の声は、驚きと疑問に満ち、その声音は揺れに揺れていた。それも仕方がないだろう。彼女は、彼に何度もその命を助けられている。それなのに彼は今、私たちを殺そうとしたのだ。


「何をって? そんなん見たらわかるやないか。君たち二人を殺そうとした。ただそれだけや」


「……なんで、ですか」


 彼はそれが当たり前のように話す。その姿に彼女は、少しの吐き気を催した。信じていた人に、信頼していた人に、裏切られた。そのことが彼女の心を締め付け、圧迫し、苦しくさせる。


「なんでって言われても、そない指令やし、しゃあないことやで。……まぁひとつ言うとすれば、相馬はんが危険すぎる。この一言につきやろなぁ」


 彼はそう言いながら、その糸目の眼差しを相馬に向ける。彼の胡散臭いその糸目と微笑みは、今は恐怖を際立たせる材料のひとつだった。


 そんな彼を、相馬はその鋭さ衰えぬ瞳で、ただただ見つめている。その裏切りによって凍え切った空気を、相馬——爪赫が切り裂いた。


「榎本聖人、いや——ロシア大統領直属秘密暗部組織特務第三科所属、コードネーム:ロキ。貴様を——今この場をもって、処刑とする」


 爪赫は驚愕の真実を口にする。その発言に、彼女は眼を見開き、彼——ロキにとっても、想定外だったのだろう。

 その糸目を見開き、宣言をした爪赫を、驚嘆をもって見つめていた。そして彼は笑い声をあげ、続けてこのように話した。


「……知ってたんかい、相馬はん。ならしゃあないなぁ、二人とも——死んでくれ」


 そうロキが言った瞬間、数えきれないほどの氷槍が、二人に迫りくる。それを爪赫は自身の爪で弾き、切断し、その攻撃から彼女を守る。


 そして氷槍が止んだ瞬間、既に背後に回り込んでいたロキが、手に持った氷剣で切りかかるも、爪赫の爪によって防がれてしまう。


 そんな攻防を何度か繰り返すが、両者共に一撃も加えられていなかった。


「ほんまに強いなぁ、相馬はんは。琥珀くんを守りながらやのに、僕の攻撃がひとつも入りやしない。どないしようか、ね?」

 

 ロキがそう言葉を締めくくると同時に、生々しい肉の音が響く——わけもなくなんなく爪赫が防ぐ。地面からの奇襲だろうと、異能戦闘に慣れている爪赫相手では、生半可なものは通用しない。


「——投下」


 ロキが呟く。その呟きと共に、空から無数の爆弾が落ちてくる。それらは着弾と同時に大きく土煙をあげ、あたり一帯の視界を潰す。


 爪赫は、自分たちに当たりそうな爆弾を弾き飛ばすだけで、特段何をするわけでもなく、「そろそろか」と呟くと、力強く腕を振り、土煙を吹き飛ばす。


 視界が晴れると、あたり一帯の雪は解け、所々あるクレーターでは、黒煙が立ち上っていた。そして肝心のロキは、——居なかった。


 先程までとは違う人物がそこには立っており、足元には、その姿と瓜二つな人物が、心臓を抉られた状態で、その足元に倒れていた。


「——ふふっ、事前に用意しておいて助かりましたわ」


 そんな微笑みと共に、彼女は足元に倒れる自分と同じ姿の人物に向かって、こう感謝を述べた。


「貴方が政府に従順で、今こうして役に立てているのです。誇りなさい。この誉を胸に、来世の天国に行きなさい。貴方の妹のことは私にまかせるのです。立派な子にしてあげますから。ねぇ——ナジャール」


 足元の人物は、ナジャールだと、同じ姿をした彼女は言う。心臓を抉りだされ、その顔は苦悶に満ちている。しかし不思議なことに、その血が流れることはなく、段々とその体には霜が覆っていっている。


 どうやら、生きているほうの彼女がその周囲に冷気を集めているようだ。その密度は、先程までの比ではなかった。


 より深く、より深く、その冷気を身体に纏い、瞳を開き、笑みを深める。白銀を宿した髪を、風に靡くその長髪を、


「——氷墜ミーティア


 頭上に出現した、巨大な氷塊の風圧で巻き上げながら、彼女はこう、宣言する。


「——墜ちろ」


 すると、頭上の氷塊はゆっくりと、ゆっくりと、その巨体を地上へと近づかせていた。


「……はぁ。仕方がない、か」


 爪赫がそう呟く。すると彼女から離れ、氷塊の落下点へとその歩みを進めていく。落下点へと到着すると、爪を伸ばして変形させ、その形をガントレットにする。


 そして体勢を屈め、爪赫は何かを呟く。その瞬間、爪赫から発せられる圧が増し、爪赫は力強く跳躍し、腕を振り被って、——殴る。


 その一撃で氷塊は粉砕され、その欠片があたり一帯に広がる。すると——まさにそれを待っていたかのように、彼女はその笑みを、狂わせた。


 一帯に広がった氷片が、細く鋭く変形する。その時間僅かコンマ一秒。


 その速度に反応できたものは、爪赫ただ一人。そう、彼女——天護琥珀は、反応、できなかった。


 彼女は全身を複数の氷針に貫かれた。


 ——腕。


 ——手背。


 ——脚。


 ——足背。


 ——腹部。


 ——右肺。


 ——左頬。


 ——左耳。


 そして——心臓と、頭。


 それらを貫かれた彼女は、なすすべもなく、その命を——落とした。



 その瞬間——一瞬、世界は朱に包まれた。幾筋もの赫いズレ。迸ったそれは——。





 あたり一帯の、森林、地面、空中、そして——天空。そのすべてに、罅や切り傷、裂傷が刻み込まれている。


 心臓を抉られた彼女の傍には、ロキ——榎本聖人の姿もある。といっても、その身は拳大の大きさにブツ切りにされ、思考する暇もなかったことが、その気色の悪い笑みから解る。


 痛みもなにも感じなかったのだろう。これを成した爪赫は、全身のいたる所を貫かれた彼女——天護琥珀の傍へと近づく。


 そしてその傍にしゃがみ込むと、彼女の手を取り、自身の異能を極限まで活用して、彼女の身体の損傷を修復していく。


 しかし、いくら身体を修復しようと、その器に魂がなければ、彼女の意識は回復しないだろう。爪赫は、損傷の修復と生命活動——心臓の鼓動や呼吸など——を再開させる。


 爪赫は彼女の傍から少し離れ、右腕をあげ、少し頭を下げた構えをとる。深呼吸をして、力を右腕に集中させる。


 そして——一閃。するとその軌跡に裂け目が開き、その裂け目に爪赫は入っていく。そのとき——。


「……すまない。少し、待っていてくれ」


 そう言って爪赫は、その裂け目を潜っていった。





「ん…………えっ」

 

 視界が眩しくなって、目をあける。すると、眩い日の光が差し込む。体を起こし、辺りを見渡すと、周辺には雪が積もっていることがわかった。


 自分の異能が、体温の低下を抑えてくれたのでしょう。少しひんやりとはしますが、寒いと感じるほどではありませんね。


「なんで……私は死んだはずじゃ……」


 ロキ——榎本会長の呟きのあとの、降り注いだ爆弾による煙幕。それが晴れた後、榎本会長の立っていたところには、見知らぬ女性の姿と、同じ姿をした人が倒れていた。


 その人は心臓あたりが血に染まっており、相馬さんの言葉では、心臓を抉られているという。犯人は確実に、ロキと思われる女性。


 彼女の右手は血に染まっていた。そして、彼女の異能による強大な氷塊の墜落。


 それを相馬さんが砕いて、一帯に散った氷片が、私を貫いたところまでは覚えている。それで今に至る。

 

 それが夢ではないことは、貫かれたことによる服の穴や、立ち上がり、あたりを見渡すと、戦闘の傷跡がいたるところにあり、わかる。


 氷の塊や、大地に刻まれた爪痕、榎本会長の遺体もあり、その傍には、氷像と化した女性——ナジャールの遺体もあった。


 私はその氷像へと近づいて、その傍にしゃがみ込んだ。よく見ると、彼女の心臓を抉り取った後は消えており、氷がその隙間を埋めたことがわかった。ナジャールとは、今回とは別に、一度だけ出会ったことがある。


 勿論、人間の姿ではなく、精霊の姿でだ。彼女とは、私が南極調査で遭難したときに出会った。


 洞穴で吹雪が収まるのを待っているときに、現れたのがナジャールだった。


 彼女は、何をいうわけでもなく、空を覆う雪雲をモーセのように裂き、頭を振って、「行け」と言っているようだった。


 私は彼女に感謝を伝え、その示された『道』を歩いて行った。すると、その道の先から相馬さんたちも歩いてきていて、合流することができた。私がその話を伝えると、相馬さんが、それはナジャールだ、と教えてくれた。

 

 だから、今回ナジャールに襲われたときは、とても悲しかった。


 でも、ここは異能の世界。前味方だったとしても、次が味方である保証は——ない。


 同じ国の中でも争い合うこの世界では、信じられるのは同じ組織の仲間だけ。それも、榎本会長がスパイだったことで、揺らぎかけている。


「……ナジャール、ありがとう。そして——元気で」


 私は、ナジャールに感謝を伝え、そして、別れも告げた。彼女はもう、この世にはいない。だから、彼女が天にいることを願って。


 私は立ち上がり、彼女の傍を後にする。今は、相馬さんを探さなくては。


 そのとき、——何かが開いたような音がした。後方、雪を踏む音。そして、——雪に倒れ込むような音がした。


 振り返ると、そこには相馬さんの姿があった。慌てて近づくと、相馬さんには沢山の傷があり、身に着けている服も、大きく損傷していた。


「大丈夫ですかッ⁉ 相馬さん‼」


「……ああ、問題ない」


「よかった……って、問題ないわけないじゃないですかッ‼ 今怪我を直しますから、じっとしていてください‼」

 

 幸い意識はあるようで、私は相馬さんを大人しくさせてから、相馬さんの怪我を直していく。今回は全身いたるところに傷があるから、全身を癒しの焔で覆う必要がある。


「ねぇ……相馬さん」


 私は、相馬さんの怪我を癒しながら、彼に話しかけた。


「……なんだ」


「榎本会長が襲ってくる前に、私が何かを伝えようとしましたよね?」


「そう……だな」


 相馬さんは、ゆっくりとだが、確かに返事をしてくれる。


「私って、いつも相馬さんや笹木先輩に迷惑を掛けているじゃないですか」


「……そうだな。確かに、迷惑だ」


「もう、否定して下さいよ。相馬さんは女心ってものが分かっていませんね。そんなんじゃ、また笹木先輩におこられちゃいますよ?」


「はは……すまない。笹木に怒られるのは、もうこりごりだ。以後、気を付けよう」


 そう、私は冗談めかして言う。そんな冗談にも、相馬さんは乗ってくれる。


「いえいえ。……その度にお二人に助けられて、私はすごく感謝しているんです。今回だって、ナジャールから、榎本会長から、私を守ってくれた。前に、聞いたじゃないですか。


 なんでそんなに助けてくれるんですか、って。そのとき相馬さん、『気にするな。邪魔者を排除しただけだ』って、言ってくれたじゃないですか。それに私、救われたんです。


 この人は、本当にそう思っているんだなって。本当に、ただ、ただ、——助けてくれるだけなんだなって。でも、私は単純ですからね。簡単におちちゃうんですよ。


 ……ねぇ、相馬さん。聞いてますか?」


「……ああ」


 私のこの長い話にも、相馬さんは短くも返事をくれた。もう、傷の治療は終わっている。今思ったけれど、何気に私今、相馬さんに膝枕しているんだ。このまま頭も撫でちゃおうかな、な~んて。


「……相馬さんに、伝えたいことがあります。よく聞いて下さい。一度しか言いませんからね」


「……わかった」


「……相馬さん。————大好きです。愛しています。私と——————付き合って下さい」

 

 恥ずかしくて、今胸が物凄く高鳴っている。この鼓動、相馬さんに聞こえてないといいな。


「……お前、いや——天護琥珀。私も丁度、君に伝えなければならないことがあるんだ。聞いてくれるか?」


「ッ……ええ。いくらでも聞いてあげますよ、相馬さん」


「私は……すでに——————」


「ッ……ええ、ええ。いつでも、いつまでもお待ちしています」


「……ありがとう。やはり君は、——素晴らしい」


「ありがとうございます、相馬さん。これはそんな貴方へのご褒美です」


 膝に乗っている相馬さんの顔に、自分の顔を近づけていく。


 相馬さんの身体には、赫い罅のようなものが迸り、その範囲をどんどんと広げていく。そして、私の唇と相馬さんの唇が重なるとき、その罅も全身に広がり切った。


「ふふふっ……時間ですね、相馬さん」


「……そうだな」


「もう、もっと驚いて下さいよ。……初めてだったんですよ?」

 私がそう茶化すように言うと、相馬さんも薄く笑ってくれた。それが、私の聞いた初めての相馬さんの笑い声だった。

 

 相馬さんの身体は、その全てが薄氷のような欠片となり、徐々に小さくなっていきながら、天高く昇っていく。


「……さようなら、相馬さん。いつか————また会える日まで」

 

 それでは、私も戻るとしましょう。私は、————泣かない。泣かないったら、泣かないんだから。



 彼女がその場から去る間際、ナジャールの氷像を、一滴の水が衝いた。そのあと、ナジャールを覆っていた氷のほとんどが剥がれ落ち、ナジャールは再び目覚めた。


「……なんとも、泣かせてくれるじゃないですか。また会いましょう。琥珀、相馬」


 彼女がその身を起こすと、その隣に倒れているロキの遺体も目にすることになる。彼女はそれらを、冷気を操って創った、一つの鞄に入れた。


 彼女はご機嫌に鼻歌を歌いながら、空を飛んで、彼女の家族の住まう元へと帰っていった。


「帰ったらこのゴミは燃やさないとね。何がいいかしら? ……あらそういえば、確かこのゴミはよく灯油で燃やしてたわね」


 ——なら、私も灯油で燃やしてあげましょう。きっと、彼ら彼女らも喜ぶはずだわ。


 彼女の笑い声が、眩い空に響く。しかし雰囲気とは裏腹に、その声は、暗い暗い闇へと誘うものだった。



————彼女は生きている。その空白の心臓を、冷たく、鼓動させながら。

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【短編】赫き爪痕に降りし雪、焔に宿るひとひらの恋 旭 朔/Asahi Saku @66dunst6mo4n9d1ir7re13

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