第13話 #謎の女

 気がつくと、部屋が明るくなっていた。

 見慣れた天井が昼の光を受けて、ぼんやりと白くなっている。全身がだるい。でも意識だけははっきりしている。

 壁の方を向いてもそこには誰もいない。

 昨夜の出来事が幻のようだった。腕をゆっくり伸ばして、感触を確かめながらシーツをなぞる。体温も感じなければ、湿り気もない。やはり、昨夜の出来事は夢だったようだ。安堵の息を漏らし、起きあがろうとした刹那、指先に熱い痛みが走った。指を見ると、皮膚の上にぷっくりと血が浮かんでいる。その中には小さなガラスの破片らしきものが刺さっていた。ベッドの上で硝子を割った記憶もなければ、グラスを持ち込んだ覚えもない。ひょっとしたらこれは、という不穏な憶測が脳裏を過ったが、そんなまさか、というほとんど願望のような思いがそれを押さえつけようとした。

 とにかく、この部屋に一人でいるのは耐え難かった。絆創膏を指に貼り、荷物をまとめて家を出る。背後に人の気配のようなものを感じたが、振り返らない。今の自分にはそんな余裕は残されていなかった。誰かに話せば楽になるのかもしれないが、結局、職場に着いてからも、一連の出来事を話すことはできなかった。

 話したら障りがあるような気がしたせいもあるが、自分自身が消化できていないことが主な理由だった。頭が混乱していて、言葉にしようとしても上手く出来る自信がない。

 まだ女の顔が、あの臭いが、脳裏にこびりついて、嫌な疲労感を呼び起こす。かといってまっすぐ帰る気にもなれず、気がつくとバーの前に立っていた。店内に入ると、まるで僕が来ることを知っていたかのように、ロキが笑顔で迎えてくれた。


「なにか、怖いことでもありましたか?」


 席に着いてウイスキーを頼むと、「あの御守り、持って帰ったんですよね」と、嬉しそうな声色で言う。


「……ええ、まあ、はい」

「結果どうでした? やっぱり出ました?」


 そう訊ねるロキの顔は笑っていた。案の定、面白がっているようだ。しかし、それぐらいの姿勢で聞いてくれた方が、こちらとしてもありがたい———いや、でも、あんなに悍ましい経験を話して良いものだろうか。あれこれ考えるうちに、ティアラを被った女の姿と、押し込めていた恐怖心がどんどん膨れ上がっていき、堰き止めていたものを吐き出すように、昨夜見たものを口走っていた。

 話を聞き終えたロキは、へぇ、と、愉快そうに笑うと、心底楽しそうな口調で、「賞レースで勝てる怪談が入手できましたね」と言う。


「でも、まだ明かされていない謎があると思うんですよ。たとえば、御守りの中身とか」


 そうだ。自分はまだ中身を確認していない。恐る恐るカバンからあの御守りを取り出し、カウンターに置く。地獄に身を投げる覚悟で開けるか、障りを恐れて逃げるか。二つの選択を前に躊躇していると、背後に人の立つ気配がした。


「やっぱり、あなたが持っていたんですね」


 そう声を掛けてきたのは、知らない女だった。

綺麗にセットされた髪と、豊満な胸を強調するようなワンピース。化粧は崩れを知らず、ライトの下でアイシャドウがキラキラと光っている。一瞬、女の華やかさに目を奪われたが、ネイルの美しい指が御守りを指していると気づき、僕は視線をカウンターに戻した。


「御守りのことですか?」

「そうそう、私がセナっていうホストに渡したものなの。知ってるでしょ?」


 女は口角を上げ、流れるように隣へ座った。


「それより、私とこうして会うのが二回目だってこと、気づいてます?」


 初めは分からなかったが、不躾にも女の顔をまじまじと眺めているうちにようやく気づいた。雰囲気はだいぶ違うが、セナとの関係を執拗に聞いてきたあの女だった。


「ああ、あの時の」

「思い出していただけました?」


 女が笑った。口を無理やり引き上げたような笑みに少し面くらったが、ここで引くほど柔じゃない。この女は何の目的があってセナに御守りを渡したのだろうかという疑問を頭の隅に追いやって、僕はひとまず違う話題を探した。この女を怒らせたら自分の身が危ないと判断したのだ。


「あの……この店にはよくいらっしゃるんですか?」

「セナのせいで私の妹は自殺したんです」

「はい?」

「だから、私の妹はセナに殺されたんですよ」

 口元は笑っているのに、目は死んでいる。話の脈絡が読めないのもそうだが、表情の異常さに気づいてぞっとしてしまう。この女は生身の人間なのに、なぜこんなにも恐ろしいと思ってしまうのか。


「妹は、都内の大学に通うごく普通の子だったのに、突然ホストにハマってしまいました」


 女はそう言ったあと、頭をバリバリと掻きむしりながら、ことの経緯を語り出した。

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