第8話 教会への道

広場を離れてもしばらく、背中に刺さる視線は消えなかった。

罵声、祈り、嗚咽。石を握りしめて追いすがる者もいれば、ただ黙って額に手を当てる者もいた。

ノエミは振り返らない。代わりに胸の内で、さっきの歌の余韻を指で撫でるように確かめた。

——誰も、死ななかった。

それは安堵というには細く、けれど確かに灯る火だった。


脇に歩くリオは縄で手を縛られ、頬には殴打の痕が残っている。

それでも口角はわずかに上がっていた。

目が合うと、彼はほんの一瞬だけ頷く。

「大丈夫だ」と声に出さずに告げるあの微笑みが、ノエミの心臓の鼓動を整えていく。


行列を率いる上位聖職者バーリントは、何も言わない。

従者たちも口を結び、教会の兵は蹄の音と鎖の軋みだけを道に落としていった。

沈黙は冷たいが、無闇な敵意はない。むしろ儀礼の静けさ。

(話すこと自体が禁じられているのかもしれない)とノエミは思う。


村境を過ぎると、草いきれと土の匂いに、遠い鐘の余韻が混じった。

風が頬を撫でる。

歌は奪うものじゃない。与えるもの——

胸の底で、母の声がもう一度、静かに形を取る。


やがて道の先、鈍い光を飲み込む巨大な影が現れた。

村の聖堂とは比べようもない、石の城のような建物。

壁面には浅いレリーフが連なり、剣で譜面を断ち切る手、耳を覆う聖者、鐘を掲げる衣の群像が、灰色の波のように刻まれていた。

(歌を封じた歴史が、ここでは壁の装飾になるのだ)


高い門をくぐると気温が一段下がった。

石の匂い、蝋の匂い、鉄の匂い。

窓は少なく、光は上から落ちるだけで、床の旗石に淡い四角を置いている。

足音がよく響く。ひとつひとつが、何かの審きのように聞こえた。


案内されたのは礼拝堂ではなく、さらに奥の広間だった。

天井は低く、壁には金箔の聖画ではなく、線刻の曲線が連続している。

(波……)

ノエミはそれが装飾ではなく「律(リズム)」を象る意匠だと直感した。

心拍の鼓動、呼吸の往復、血流の脈動——生きているものの「波」。


椅子が二脚、向かい合わせに置かれている。

ノエミとリオはそこに座らされ、背後に兵が立った。

バーリントは横手の席に身を置き、やはり黙って様子を見ている。

代わって前に進み出たのは、痩身で白衣をまとった聖職者だった。

記録官——そう呼ぶのがふさわしい淡々とした目をしている。


「記録のために問う。名と、出身を」

ノエミは喉を鳴らし、短く答える。「……ノエミ。村は……」

言い終える前に、記録官は頷いて、羊皮紙に筆を走らせた。

羽根ペンの先がかすかに鳴る。


「歌とは、ただの音ではない」

記録官は壁の線刻へ顎を動かした。

「人の魂には固有の律動がある。呼吸、鼓動、血流。すべては波として刻まれている」

彼は卓上の木板を立て、そこに描かれた曲線を指でなぞる。

山、谷、山、谷。一定の間隔で続く繰り返し。

「旋律が七音を越えて持続すると、この律動は共鳴を起こす。

 共鳴が臨界に達すれば、魂は肉体に収まりきらず、命は絶える」


ノエミは息を止めた。

(共鳴。臨界。魂が、はみ出す……)

言葉は冷酷で、数学の定理みたいに角が立っているのに、彼女の中ではぴたりと母の最後の夜の光景に重なる。

痙攣、泡、崩れ落ちる影——村人が「歌で死んだ」と言い張ったものすべて。


記録官はさらに淡々と続けた。

「ゆえに禁律がある。歌を測るな、記すな、数えるな。

 鐘を鳴らすのは旋律を断ち切るため、耳飾りを付けるのは余韻を打ち消すため、子守歌を途切れ途切れにするのは長さを避けるため。

 長い歌は祝福ではなく、毒となる。

 ——これが、我らが守る理だ」


理(ことわり)という言葉が、石の間に薄く積もる。

誰も声を挟まない。

バーリントも、何も言わない。

ただ、その横顔のどこかに、言葉とは別の波が一瞬揺れたようにノエミには見えた。


「ところが」

記録官は羊皮紙をめくり、ノエミをまっすぐ見た。

「お前は広場で歌った。七音を越えて。——なのに、誰も死ななかった」

部屋の空気がきしむ。

ノエミの指先が膝の布を摘まみ、冷たい汗が背を伝う。

彼女は目を閉じかけて、また開いた。

(母と歌った朝を、思い出す)


リオがわずかに身を乗り出そうとしたとき、兵の手が肩に置かれた。

彼は肩をすくめ、代わりに口角だけで微笑を作る。

「全部が、そうだとは限らない」

声に出してはいない。だがノエミには、はっきりと届いた。


記録官は筆を置き、別の羊皮紙を取り上げた。

「連行時の報告にはこうある。『娘が歌わぬとき、人が倒れた』。

 我々は事実を丁寧に積む。——それが教会のやり方だ」

彼はそこで初めて、バーリントへ視線を送る。

「上位者の裁可を仰ぐ。審問は段階を踏むべきだ」


バーリントは静かに頷いた。

「規律どおりに」

低く、揺るがない声。

それだけで、部屋に張りついていた緊張が少し形を変える。


ノエミは自分の喉が乾いていることに気づく。

「……私は」

言葉が細く出た。

「歌いました。母が……教えてくれた歌を」


記録官が筆を持ち直す。

バーリントの視線が、そこでわずかに彼女へ移った。

(母の名を、あなたは知っている)——そんな直感が胸に広がる。


「今日はここまでだ」

記録官が告げる。

「休息の後、もう一度、問う」


兵が合図し、扉が開く。

ノエミとリオは立ち上がり、別室へと導かれる。

審問は一度では終わらない。積み重ねていく——それが教会の「現実」だった。

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