第9話 静かな訪問
石造りの部屋は小さく、窓もなかった。
灯りは蝋燭が一本だけ。粗末な藁の寝台が二つ並び、湿った空気が肌にまとわりつく。
審問を終え、そこに押し込まれたノエミは、ようやく緊張の糸が切れた。
膝を抱えて座り込むと、震えが体の芯からせり上がってきた。
声を出さずに泣こうとするたび、喉の奥が歌を欲するように震える。
向かいの寝台に腰を下ろしたリオは、頬の腫れを気にも留めず、薄く笑っていた。
「……君のほうが、よほど勇敢だった」
「勇敢……?」
「歌ったじゃないか。あの場で」
ノエミは言葉を失い、唇を噛む。
——歌えたことの安堵。
——けれど、次にまた問われる恐怖。
「なぜ誰も死ななかったのか」と突きつけられれば、答えられる自信などなかった。
母の言葉は胸にある。けれど、「本当に与えるだけなのか」という疑念が、薄い霧のように忍び寄る。
しばらくして、鉄扉が静かに開いた。
重い蝶番の軋みが、夜気のように部屋を撫でる。
現れたのは、バーリントだった。
従者も兵も伴っていない。
黒衣に白の縁取りだけをまとい、蝋燭の光にその影を落とす。
彼は静かに椅子を引き、二人の前に腰を下ろした。
「眠れぬだろう」
穏やかな声だった。叱責も、威圧もない。
ノエミは息を詰める。何を言えばよいかわからず、ただ瞳を逸らせない。
バーリントの視線には、冷たさよりもむしろ深い静けさがあった。
「私は……かつて君の母に会ったことがある」
ノエミは目を見開いた。
「……お母さんに?」
バーリントはゆっくりと頷いた。
「若いころ、学びの地で。ほんの短い会話にすぎなかったが、忘れられぬ言葉を聞いた。
彼女はこう言った——“歌は与えるものだ”と」
ノエミの胸に、熱いものが溢れた。
母が残した言葉。それを、別の誰かが、今同じように口にしている。
涙が滲み、指先が震える。
バーリントは続けた。
「だが、君が広場で歌って誰も死ななかったことは、教会にとって“理”を揺るがす。
私ができるのは、規律を盾に君を守ることだけだ。……どうか理解してほしい」
その声は穏やかだが、内に葛藤を孕んでいた。
彼自身もまた、掟に縛られている。
立ち上がりかけたバーリントは、扉に手を掛け、ふと振り返った。
蝋燭の灯が彼の横顔を照らす。
「君の母は……決して、ただの禁律者ではなかった」
それだけを残し、扉は閉じられた。
残された静寂の中、ノエミは寝台に腰を下ろし、両手を胸に当てた。
母の声が、ここにも生きている。
その確信が、震える指先に、かすかな温もりを与えていた。
星と喜びの歌 — 死を呼ぶ歌姫の娘 せんみつ @mochi1109
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