第4話 星と喜びの名
月が白く照らす夜道を、二人は無我夢中で駆け抜けた。
背後からは怒号と足音。
「魔女の娘を捕らえろ!」
「歌を口にする前に!」
少女の心臓は爆ぜるように脈打ち、喉が焼ける。
恐怖と羞恥と、言葉にできない痛みが、肺の奥でぐちゃぐちゃに混ざっていた。
石が飛んだ。壁に当たり、火花を散らす。
村人たちの影が交差し、炎の記憶と重なった。
——あの夜。母が処刑台に立たされた夜。
人々の怒りと恐怖の眼差しは、まるであの時の再現だった。
「こっちだ!」
リオの声に引かれ、少女は狭い裏道へ飛び込む。
石畳はぬかるみ、足が滑った。
だがリオが強く手を引き、転ぶ寸前に支える。
「まだだ、走れ!」
彼の言葉に、少女はもう考える余裕もなく従った。
背後で、誰かが叫んでいる。
「魔女の歌がまた村を呪うぞ!」
「死を呼ぶ血を絶やさねば!」
少女の耳には、罵声が炎のように焼きついた。
でも同時に、前を走るリオの背中が確かな影となって月明かりに揺れていた。
その背は、あの夜の炎よりも強く彼女の視界を照らしていた。
二人は村の外れへ抜け、古い石壁の陰に身を潜めた。
息を切らせ、肩で呼吸する。
少女は壁に背を預け、胸を押さえた。
喉が焼けつくように熱い。
——私は、何もしていないのに。
どうして、こんな目で見られるの?
涙が止めどなくあふれ、視界を濡らした。
けれどその涙の奥で、胸の奥に封じていた言葉が必死に暴れ始めていた。
そのとき、リオが彼女をまっすぐに見て、静かに問う。
「君は……誰だ?」
少女の視界がぐらりと揺れ、母の最期の日の光景が蘇った——。
まだ処刑の火が灯る前の朝。
母、エステルが髪を梳きながら優しく囁いた。
「ノエミ。いい? 歌は奪うものじゃない。ほんとうは、与えるものなの」
その声は静かで揺るぎなかった。
「そして、忘れないで。
あなたは、私の名ではなく……あなた自身の名で生きなさい」
炎に包まれる母の姿と、その最後の言葉が重なる。
喉の奥で、何かが解けた。
ノエミは拳を握りしめ、一歩前に出る。
「私は……エステルの娘。
でも、私は——ノエミ!」
声が夜に響いた。
月光の下に響いたノエミの声は、確かに彼女自身の旋律だった。
リオはしばらく黙ってその姿を見つめ、やがて小さく頷いた。
「……そうだ。それでいい」
胸を締めつけていた何かが解けていく。
ノエミは涙を拭い、初めて胸を張った。
母の影ではなく、自分の名を持つ存在として。
——けれど。
その静かな余韻を、鋭い声が裂いた。
「ここだ! 見つけたぞ!」
路地の出口から松明が差し込む。
役人と村人たちが雪崩れ込み、二人を取り囲んでいた。
「魔女の娘を捕えろ! そいつをかくまった男もだ!」
リオが反射的に前へ出る。
「待て、彼女は——」
だが言葉は怒声に飲まれ、腕を押さえられる。
ノエミも後ろから羽交い締めにされ、必死に抗った。
けれど声を張り上げたばかりの喉はもう力を失っていた。
せっかく取り戻した「名乗り」の余韻が、縄の感触と共に無残に奪われていく。
それでも彼女は胸の奥で繰り返していた。
——私はノエミ。
たとえ誰に縛られても、その名だけは失わない。
夜空の星々が、まるで母の名〈エステル=星〉を思わせるように瞬いていた。
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