第3話 死の歌
数日が過ぎた。
市場のざわめきも、井戸端の囁きも、彼女にとっては変わらぬ日常だった。
ただひとつ違ったのは——扉を叩く音が再びあったこと。
「……また来た」
少女は小声でつぶやき、身を固くした。
だが聞こえてきた声は前と同じだった。
「俺だ。リオ。入っていいか?」
扉を開けると、彼の手には紙束と小さなペンが握られていた。
「喋るのが苦しいなら、これを使えばいい。字にすれば伝わるだろ?」
少女は瞬きをした。
そして机の上を指さす。
そこにはすでに何枚もの紙切れが散らばっていた。
簡単な挨拶、買い物の控え、子どもたちに見せて追い払うための落書き。
彼女は昔から、声の代わりに紙で生きてきたのだ。
リオは目を丸くし、それからふっと笑った。
「……なるほど。俺なんか出る幕なかったな」
少女は慌てて紙を取り上げ、ペンを走らせた。
——ありがとう。
差し出された一枚を受け取ったリオは、しばし黙って見つめた。
その字は震えていたが、確かな意志で書かれていた。
「……そうか」
彼は声に出して読み上げ、静かに頷いた。
「やっぱり君は、ちゃんと伝えられるんだな」
少女は机に紙を広げ、迷うようにペンを握った。
文字を書くのは重く感じた。言葉にすれば、誰かの目に触れたとき「呪いだ」と言われる気がしたからだ。
だから彼女は、丸を一つ描いた。
それは不格好な丸だった。
その横に、短い線を二本。
リオが首を傾げる。
「……太陽?」
少女は首を横に振る。さらにペンを走らせ、短い髪の線と、小さな籠を加える。
「ああ……君、か」
リオが小さく笑った。
少女は少しだけうつむき、頬が赤くなる。
リオは自分も紙を取り、迷いなく線を走らせた。
角張った四角形、長い道、そして風に舞うような矢印。
少女は首をかしげる。
「俺だ」
リオは指で自分の胸を叩いた。
「流れ者。道の上を歩いてきた」
少女の目が丸くなる。
彼女は急いで別の紙を取り、家の絵を描いた。小さな屋根と、窓と、煙突。
その横に、自分の小さな姿を描く。
「……ここにいる、ってことか」
リオは絵を見てうなずいた。
「なるほど。俺は歩き続けて、君はここにいる」
二人は視線を交わした。
紙の上に不器用な線が重なって、初めての会話が成立していた。
リオは少し真面目な顔になり、最後に一枚だけ新しい紙を取った。
線をすっと引き、遠くの山の影を描く。
その上に、かすれた音符のような記号を置いた。
「俺が探してるのは……これだ」
音符を見つめる少女の心臓が、わずかに跳ねた。
歌。
リオが描いた音符は、紙の上でひどく頼りなく揺れて見えた。
少女はその印をじっと見つめ、震える指でペンを握った。
彼女は音符に大きな×印を重ねる。
そして紙を押しやるように突き出した。
リオは眉を上げた。
「……歌は嫌いか?」
少女は首を激しく横に振った。嫌いではない。ただ、怖い。
再びペンを走らせる。
炎。叫ぶ人影。処刑台の輪郭。
そして、その中心に立つ黒い影。
リオは言葉を失った。
少女の母の姿を、彼女は絵で描いたのだ。
紙を握りしめる手が震えていた。
彼女の胸の奥で「歌」という言葉は、今もなお呪いと同義だった。
リオは静かに息をつき、ペンを取った。
炎の絵の横に、同じ音符を小さく描き足す。
ただし、その音符から伸びる線は、炎を貫き、空へと伸びていた。
「俺が探してるのは……人を焼き尽くす歌じゃない」
リオは指で線をなぞり、少女を見た。
「生きるための歌、だ」
少女は目を瞬いた。
そんな歌が本当にあるのだろうか。
彼女の知る歌は、ただ災厄としてしか語られなかった。
リオはさらに一枚紙を取り、下手な線で花を描いた。
その上に小さな音符を置く。
「これを咲かせる歌だって、きっとある」
少女は無意識にペンを握り、花の横に小さな涙を描いた。
それは悲しみか、それとも希望か。
二人の紙の上には、不器用な絵と震える線が重なっていく。
言葉にならない対話。
だがそのやり取りの中で、少女は初めて「歌」という言葉を、恐怖以外の響きで受け止めていた。
そのときだった。
村の広場の方角から、悲鳴が上がった。
「倒れたぞ!」「歌だ、誰かが歌った!」
少女の心臓が凍りつく。
ペンを落とし、息を呑んだ。
「……またか」リオが顔をしかめる。
「行こう」
広場に駆けつけると、地面に男が倒れていた。顔色は青ざめ、口から泡を吹いている。周囲の人々が口々に叫んだ。
「魔女の娘のせいだ!」
「きっとあの子が歌を……!」
少女は頭を振った。喉がひりつく。何もしていないのに。
「やめろ!」
リオが前に立ちはだかり、怒声を放った。
「彼女はここにいた。俺が証人だ!」
しかし村人たちの目は血走っていた。恐怖は理屈を越えて広がっていく。
少女の脳裏に、あの夜の炎が蘇る。
母が処刑台に立たされたときと同じ、憎悪と恐怖の視線。
リオは振り返り、少女の手を取った。
「走れ!」
二人は人垣を抜け、路地へと駆け込んだ。背後からは罵声と石の音が追いかけてくる。
少女は必死に足を動かしながら、心の奥で叫んでいた。
——私は歌っていない。
——でも、世界は信じてくれない。
月の光に照らされ、リオが叫ぶ。
「見てろ、必ず証明してやる。歌は……呪いだけじゃない!」
その言葉だけが、暗闇の中で彼女を支えていた。
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