第2話 探しもの

子どもたちの足音が遠ざかり、路地に静けさが戻った。

市場のざわめきは近いのに、彼女の周囲だけは空洞のように音が薄い。籠を抱えた腕がわずかに震えているのを、彼女自身がいちばんよく知っていた。


「……大丈夫か」


少年が言った。声は低く、刃物のようには尖っていない。

彼は一歩だけ近づき、落ちた小さなニンジンを拾い上げると、籠に戻した。指先が彼女の手に触れないよう、注意深く。


ありがとう、と言えばいい。

ただの5文字。それすら喉の奥で固まって、出てこない。

声は、音だ。音は連なれば旋律になる。旋律はときに力になる。

「七音を越えてはならぬ」——門前の掲示板に、いつも書かれている文句が頭をよぎる。公の場での歌や長い口笛が禁じられていることを、村の誰もが知っている。彼女はそれを、誰よりもよく守って生きてきた。


「無理に喋らなくていい」

少年はそう言って、ほんの少しだけ笑った。嘲りではない笑いを、彼女は久しく見ていなかった。


広場の方から鐘の低い唸りが流れてくる。

「歌消しの鐘」——祭事のとき以外も、昼のあいだはゆっくりと鳴らしている。鐘の響きは空気の底を撫で、声の勢いを和らげるためだと年寄りは言う。

屋台の端には、耳飾りがたくさん吊るされていた。薄い銀線を耳たぶに絡めて身につける「音除け糸」。隣の籠には“蜂の耳”と呼ばれる蜜蝋の耳栓。子守歌の夜、赤子にだけ許される小さな歌のために、母親たちはそれらを選ぶ。


世界では、歌は祝福であり、災厄でもある。

この村でも同じだ。ただし祝福の方は小声で、災厄の方は大声で語られる。

見てほしい。——このとき彼女の目に映っていたものを。

肉屋の軒先に貼られた札。「本日、祝謡許可:日没まで/子守歌は家内のみ/葬送歌、当村規定により聖堂立会いの下に限る」。

通りの角には、細長い二股の金具を持った役人が立っている。歌守(うたもり)と呼ばれる人々。旋律が長くなれば、彼らが咳払い一つで制した。——彼女はそれを、幾度も見ている。


「……」


やはり言葉は出なかった。

代わりに、彼女は首を縦に小さく振った。大丈夫だと、そう伝えたつもりだった。

少年はそれ以上踏み込まない。籠を持とうともしないで、半歩だけ離れて歩調を合わせる。


「井戸まで送る。……いや、嫌ならここで別れる」


彼は選択肢を渡す言い方をした。命令ではない言葉。

彼女は逡巡して、井戸の方角へ視線をやった。人が集まり、囁きが渦を巻く場所。視線は刃物より痛い。

首を横に振る。今日はやめておきたい、という合図。


「わかった。じゃあ、ここまでだ」


少年は短くそう言って、手の中の小さな包みを握り直した。布越しに硬い角があたる。旅の道具だろうか。

彼は去り際、無意識の癖なのか、口の中で二つほど音を転がした。

「……♪」

すぐに掲示板の“七音を越えてはならぬ”が目に入り、彼は気まずそうに口を閉じる。

笑って、肩をすくめ、無言で片手を上げた。挨拶。——彼女はそれに、ほんのわずかに会釈を返す。


市場へ戻る人々の間を縫い、少年の背中が遠ざかっていく。

彼女はその背中を見送った。背筋は真っ直ぐで、肩は軽い。どこから来て、どこへ行くのか。知らない。

ただ、胸の中に残っている言葉がある。

彼女はただの人間だ。母親じゃない。

——さっきの声が、じんわりと体の芯を温めている。火ではない。熱すぎない。凍りついた指先が、ゆっくり解けるみたいに。


籠の中で、野菜がかすかに転がる。

彼女は深く息を吸い、吐いた。

「……あ」

それは音とも言えないほど微かな、声の破片だった。

ありがとう、と続けたかった。続かなかった。

喉の奥で、七音どころではない短い呼気が砕ける。


家路につく。

曲がり角の石壁には、昔の歌詞が削られて残っている。剥がれた漆喰の下から覗く文字は、祝福の歌だという。誰かが爪で削って、要の句だけを消している。

「危ないからだ」と、誰かが言っていた。完全な旋律にしないために。

歌は欠けたまま、壁の中で眠っている。


小屋に入ると、空気はひんやりしていた。

机の上の櫛に触れる。母の形見。

彼女は耳たぶに指を当て、音除け糸がない自分の生身の感触を確かめた。

世界の多くは、歌から身を守る方法でできている。鐘、耳飾り、札、咳払い、規則——そして沈黙。

沈黙は、彼女のいちばん古い友達だった。


ろうそくに火を入れる。小さな炎が、壁の染みを揺らして踊らせる。

外から、遠くの合唱がかすかに聞こえる。たぶん収穫の歌。

誰かが、許された短い節回しで、幸福を数えている。

彼女は耳を塞がない。ただ目を閉じる。

音は恐ろしく、同時に懐かしい。矛盾した感情が胸を擦って、痛みとも安堵ともつかない熱を残す。


「……なぜ、歌わなかったの」

昔の夜の問いが、また唇に乗る。

母は火刑のとき、何も歌わなかった。——それが彼女の唯一確かな記憶だ。

世界は言う。母の歌は人を死なせる、と。

けれど彼女は聞いていない。あの人の歌を、一度も。

真実は、いつも他人の口の中にあった。


見てほしい。——この沈黙の縁(ふち)に、今、かすかな変化があることを。

彼女の胸の奥で、言葉にならない音が小さく転がっている。

それはまだ旋律ではない。七音にも満たない、砕けた息の粒。

けれど、もしそれがいつか形になったなら——。


外で、誰かが扉を叩いた。

一度、二度。

彼女の肩がびくりと跳ねる。ろうそくの炎が揺れ、影が長く伸びた。


「……誰?」


声にはならず、唇だけが動いた。

扉の向こうで、少年の低い声がした。


「さっきの。落とし物を返しに来た。——開けてもいいか」


「これ、君のだろ」

差し出された手を、彼女は戸惑いながら受け取った。

礼の言葉がどうしても喉を越えない。


少年は気まずさを払うように肩をすくめ、軽く笑った。

「名乗っておくよ。俺は〈リオ〉。流れ者だ。……歌を記録する旅をしてる。誰もが災厄と呼ぶけど、それだけじゃない気がしてな」

一瞬、彼の瞳に影がよぎった。

「……俺も、歌で大切な人を失った。だから確かめたいんだ」


それ以上は語らず、リオは背を向けた。

扉の隙間から見送る少女の胸に、先ほどの言葉が残響のように響き続けていた。


——彼女はただの人間だ。母親じゃない。

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