第3話 曙光屋


「ありがとうございました。」


屋台の奥で、眼鏡の男に礼を告げる女性。

店主はコーヒーをすすり、ただ一度うなずいた。次にカップを置いた時には、彼女の姿はもう男の眼には映っていなかった。


「…今回は救えた。」


「今回もですよ、あけぼのさん!」


元気な声に顔を上げると、茶髪の女性が段ボールを抱えて立っている。

曙は小さく息を吐き、屋台を後にした。木の香りが漂う玄関先、壁掛け時計が静かに時を刻む。


「もう冬か。」


「そうですよ、藍花らんかがいま倉庫で大掃除してるんです!曙さんも手伝ってあげてください!」


茶髪の、先ほど曙に声をかけたであろう元気な女性が、段ボールを突き出している。

「分かったよ」、頬の筋肉を軽く緩ませ答える。

そして、自然漂う玄関へ。


朱花あやかちゃんは行かないの?倉庫?」


「はい!私は床掃除したいので!」


「そっか、お願いね。」


外に出るとたちまち、命の終わりを、始まりを待つ冷たい風が頬を襲う。

「…さむ」、小言を挟みつつ、木造ハウスの横にある倉庫へと足を運ぶ。

中を少しだけ覗くと、冷たいであろうコンクリートの床に全身を落とし、何かを掲げて眺めている女性が目に入る。


「藍花ちゃん、何してるの?」


「あ、曙。見てわかるでしょ、大掃除。」


「寝転んでいることを掃除とは、言わないんじゃないかな?」


「ただの掃除じゃないわ、お・お・そ・う・じ」


「…うん。」


「ふふっ、理解してくれて何より。」


「・・・」


少し青みがかった髪色の女の調子に、曙は口を閉ざす。

藍花はそんなこと気にも留めず、床から起き上がり、手に持った写真を差し出した。


「これ、倉庫で見つけたんだけどさ。なんで“曙光屋”じゃなくて“曙屋”なの?」


写真には屋台と朱花、そして曙。暖簾には「曙屋」とだけ刻まれている。

曙の目が一瞬だけ固まり、次の瞬間には写真を奪い取り、ポケットに押し込んでいた。


「…何でもいいだろう。」


「なんで、変えたの?」


「なんでも。」


「なんで?」


「…だから、なんでも!」


短い沈黙。怒鳴ってしまった自分を意識したのか、曙は苦い息を吐いた。


「……ごめん。大きな声を出した。」


「……藍花も悪いところ出ちゃった、ごめん。」


互いにぎこちない謝罪のあと、再び掃除を始める。

段ボールの隙間から黄ばんだ新聞紙が覗き、埃が舞い上がる。藍花はそれを手で払いながらも、好奇心を隠せずに箱を覗き込む。

そうして時折「これ欲しい、頂戴」と無邪気に言う。


「うん、いいよ。」


曙は優しい笑みで応じた。

時間は流れ、やがて夕暮れ。


「終わったー?」と朱花が顔を覗かせ、三人の時間はふっと温かな日常に戻っていった。


「うん、大体ね。朱花ちゃんは終わった?」


「はい!そりゃもうピカピカに!」


「藍花、ちゃんと掃除した?」


「ちゃんとした。藍花にかかれば朝飯前。」


「そっか、偉いね!」


朱花は藍花の頭を撫でる。ご褒美であろう。

藍花は嫌そうにも、嬉しそうにもどちらにも取れる表情を浮かべている。


「そろそろ、日が落ち切ってしまう。朱花ちゃん、藍花ちゃんを送ってあげて。」


「はい!」


倉庫を出て、木造ハウスを挟んだ反対側に止めてある白のワゴン車に乗り込む。

運転席に朱花。助手席に藍花。


「じゃ、送ってきます!」


「気を付けてね。」


「はい!帰ってきたら夕食にしましょう!」


すぐに車は見えなくなり、曙は寒さに震える体を抑えて、木造ハウスに入っていく。


軽快な音楽が車内を満たしていた。

ワゴン車の窓から、赤く染まった山の稜線が流れていく。舗装の途切れた道を走るたび、古い車体が小さく揺れた。


「藍花、このバイトはどう?できそう?」


「うん、あんまり会話しなくていいし。曙は優しいし。」


そう言って藍花はポケットから剣を取り出す。ドラゴンの装飾が彫られたそれは、倉庫でねだったものだ。彼女は宝物でも手に入れたかのように、目を輝かせていた。


「……“さん”をつけなさい。年上の人なんだから。」


「曙がいいって言ったもん。」


「ならいいけど……」朱花は肩を落とす。


しばし沈黙。車内の軽快なリズムに重なるように、朱花が小さく息をつく。


「まあ、安心した。あんたが高校やめて引きこもったときはさ、お母さんも私もホントに心配だったんだから。」


地獄こうこうの話しないで。」


「…ごめん。」


軽やかな音楽の裏で、わずかな不穏が沈む。

そしてそれを、さらに深く落とすのは藍花の一言だった。


「ねえ、お姉ちゃん。なんで“曙屋”は“曙光屋”になったの?」


その言葉に、空気が凍りついた。

冬の寒さではない。だが、肌が零度に触れたような感覚が走る。

車内に流れていた音楽が、朱花の指先で止まる。

車内の空気が重く沈み、暖房の送風口から出る空気音だけがやけに耳についた。


「……それ、曙さんにも聞いたの?」


声の色が変わっていた。さっきまでの姉の調子ではない。

藍花は思わず肩をすくめる。


「えっ、うん。倉庫に写真があって……どうしても知りたくて、何回も聞いたら怒られて。」


「……」


「だっていいじゃん、それくらい!だって私、掃除しかしてないし。曙光屋が何やってるとか、なんで家に屋台があるのかとか知らないんだもん!」


朱花はため息を落とした。


「はあ……まあ、悪意がなかったのはわかってる。藍花が気になったら止まらないのは、いいところでもあるから。」


そこで言葉を切り、藍花の方を一瞥する。


「でもね。人が話したくないことを無理に聞くのはダメ。わかった?」


「…うん。」


「偉いね、それじゃあ話してあげる。まずは――曙光屋についてね。」


朱花の声が、ほんの少し低くなる。


「…あそこはね、報われなかった魂が集まる場所なの。」


藍花は瞬きを繰り返す。

冗談なのか、それとも本気なのか。

いつもの明るく常識的な姉からは想像できない言葉に、心がざわつく。

けれど同時に、胸の奥が震えていた。


(お姉ちゃんも……!)


同じ“門”をくぐったと思い込み、目を輝かせる。


「お姉ちゃんも…もしかして、冥界への扉が見えるようになったの!?」


朱花はすぐさま眉をひそめた。


「あんたの厨二病と同じにしないで。」


「でも、そうとしか思えないもん。」


藍花は嬉しそうに鼻歌を紡いでいる。

「やっぱり、冥府からハーデスがこの世界へ進行しているのね…」、藍花の独り言にまたもため息をつく朱花。


「それで、曙光屋はその魂で何をしているの!?」


そんなことはいざ知らす、興奮冷めやらぬ勢いで言葉を紡ぐ藍花。

「早く、早く」、そう息を漏らしている。


「救っているのよ。」


「なるほど、ケルベロスから逃げ、地上へ逃げてきた魂を天界に逃がす仕事をしていると…」


「そんなんじゃない。何か一つが違えば救えた魂、こういう風に言うのは悪いけど、どこにでもあるような悩みで亡くなってしまった人間の魂を救っているのよ。」


「苦しみながら命を絶った人々。その魂は、真冬の夜に取り残された街灯のように、冷たい暗闇の中で光を待っているの。あなたの変な妄想と同じにしないで。」


鬼気が迫るような普段とは違う姉の声に、先ほどの喜々とした考えは消え失せる。


「変な妄想じゃないけど…ごめんなさい。お姉ちゃん。」


「謝るのは私じゃないんだけど…まあいいわ、謝れるだけ藍花も大人になったし。」


「“救ってる“ってどういうこと?過去に戻って救ってるってこと?」


「違う。時間を戻すことはできない。死んだ人は戻らないの。」


「じゃあ、どうやって……」


「世界は一つじゃない。もしあの時、違う道を――死を選ばなかったとしたら。そんな可能性を持った魂が、別の世界には存在する。」


藍花は口をぽかんと開ける。


「魂には、亡くなる前夜の世界が残っているの。その世界に“別の自分”を呼び寄せて、救えなかった“自分”と重ね合わせる。それが曙光屋の役目。」


「……重ね合わせたら、救えるの?」


「救えることもあるし、救えないこともある。でも、もし別の世界の“生きている自分”が手を差し伸べたら、苦しんで亡くなった魂はほんの少しだけ、軽くなる。」


「そうしたら……藍花の言ってた“天界”に上がれるのかもね。」


「そう…だね」


車内に軽い沈黙が落ちた。

曙光屋は過去の痛みを抱えたまま亡くなった魂を、ほんの少し軽くして天に浮かべる場所。

ありえないはずの非日常。

しかし藍花は、これが事実だと確信していた。

――なぜなら、普段は誰よりも優しい姉が、鬼のように怒り、感情を剥き出しにしていたからだ。


「じゃあ、名前を変える必要なんてないじゃん。なんで“曙屋”から“曙光屋”になったの。」


「……」


「ねえ……お姉ちゃん……?」


「それ聞きたい」


「えっ…話したくないなら聞かないよ。」


「いいや。でも約束して、もう二度と曙さんの前でこの話題を出さないって。」


「うん。」


姉のトーンに、息を吞む。


「昔はね、曙さん自身が魂の記憶世界に入って、救っていたの。」


「曙光屋になったのは、その時の一人の女の子の魂がきっかけ。」


「少し長くなるよ。……頑張って聞いてね。」

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