第2話 神様になりたい女

「はあ…」


濃い化粧で個性を押し出した女が、スマホの画面をスクロールするたびにため息を漏らす。

そこに映るのは、自分とは似ても似つかない、目だけ肥大化した女。

加工アプリで盛ったのだろう。


――けれど、努力虚しく。

画面には「♡0」の数字が冷たく光っている。

届いたコメントはただひとつ。


『目デカすぎw 漫画かよw』


顔の見えない誰かの指先が放った、ただの文字列。

しかし、その文字列には「1」の誰かに認められた印が、ハートが刻まれている。

それだけで、女の胸に鋭い傷が刻まれていく。


「環奈、ご飯できてるよー!」


下から聞こえてくる女を呼ぶ声。

はーい、女はけだるげに答え、スマホ片手に階段を下る。

台所に向かうとすぐに香ばしい匂いが漂ってくる。


「今日の夜ご飯、カレー?」


リビングへ続く扉を開け、母親と目が合う女。


「化粧、濃すぎない?」


母親は目を丸くし、手を口に当てる。

白すぎる娘の顔に、一瞬言葉を失い、絶句している。


「……元の顔を大事にしなさいよ。可愛いんだから。」、心配と呆れと、少しの寂しさが混ざった声だった。

母親の言葉にどこか胸が刺される。

“可愛い“、女は分かっていた。


「どの辺が可愛いの?」


女は俯き、母親に尋ねる。

母親は女の突然の問いに、一瞬、刹那とも言える時間で言葉を詰まる。

しかし、女の心にはその一瞬が、とてもとても深い傷を付けた。

女は分かっていたのだ、顔を洗う時に集めた水で、部屋に置いてある鏡で。


「…もういい。」


女は匂いが漂う方向とは逆の、自分を苦しめる空間から逃げるための扉へ向かう。

リビングの光が、匂いが、靴を履くため屈む背中に突き刺さる。


「ちょっと!どこ行くの!」


「散歩。」


空間を断ち切るように、扉が強く閉ざされた。

その場所から逃げるように小走りで駆ける。


深い傷を抱えながら出来るだけ遠くに、遠くに駆ける。

走る――

眩しすぎるアイドルが映っているモニターが目に入らないように。

走る――

夜の縁へ向かうために。

走る――

闇しかなく、誰の顔も見ることのない世界を見るために。


「はぁー、はぁー、……ここどこだろう?」


気づけば女は、普段なら絶対に足を踏み入れない暗い路地に立っていた。

高層ビルの影が壁のように重なり、街灯も途切れている。

晩ご飯の時間から、どれほど経ったのかは分からない。


ポケットに手を入れるが、スマホがない。

どこかに落としたのだろう。

時間も分からない不安と、スマホを失った恐怖に胸が締め付けられる。

仕方なく、元来たであろう道に歩みを。

足取りは重く、息も詰まる。

――結局、逃げられなかった。

――醜いくせに、承認だけは人一倍欲しがる自分から。


暗きを彷徨う。

先ほどはあれほど恐れていた光が、あの香ばしい匂いが、今は欲しい。

安息を得たいのだ。自分の居場所があるのだと確かめたい。

そんな利己的で醜い考えが、さらに足取りを重くさせる。


すると、目の前に提灯を吊るした古臭い屋台が見えてくる。

暗闇しか無く、前に進んでいるのかどうかすら分からなかったが、これで少しは足元に自信が持てる。

女が屋台の前を通ろうとすると、「曙光屋」と染め抜かれた暖簾の奥から声がかかった。


「飲まない?一杯タダでいいよ。その代わり、“いっぱい“話を聞かせて。」


少し年を重ねた、落ち着いた女性の声だった。

女は醜い自分に声をかけてくれたのが嬉しかったのか、戸惑いも憂いも見せずに暖簾を押し、場違いに質素な木の椅子へ腰を下ろす。


「さっきのなんですか?ダジャレ?」


曙光屋ここの売り文句みたいなもんさ。」


屋台は狭く、薄暗い。

確かに女性と向かい合っているはずなのに、不思議とその顔は影に紛れて見えなかった。

まるで告解室に座り込んだかのようだ。顔を隠し、心だけをさらけ出せる場所。

そんな空気に、なぜか安堵を覚える。


「いいですね、この屋台。いい意味で古臭いというか、ノスタルジックというか、顔が見えないくらいの照明が最高にいいです!」


「あんただけの特別仕様だよ。」


女性はささやくように呟く。

外から忍び込む夜風よりもか細く、影の奥から滲むように。


「はい、どうぞ。」


仄暗い向かい側からグラスが差し出される。


「座っちゃってなんですけど、私未成年でお酒飲めないんです。」


「知ってる。だから、オレンジジュースだよ。」


「“知ってる“?分かってるではなく?」


「ああ、“知ってる“。今のあんたのことは何でもわかる。十七歳、東雲環奈。神様アイドルに憧れてる女の子。中学生の時に、好きだった子のSNSに――」


女が慌てて遮る。


「ちょ、ちょっと!なんで私が渚ちゃんの裏アカ全部見てたの知ってるんですか!?」


「あら、適当に言ったつもりだったんだけど……本当にそんなことが?」


「あ、あるわけないじゃないですか、そんな気持ちの悪いこと、、、」


「そうよね。気持ち悪いものね。」


「は、はは…当たり前じゃないですか。」


仄暗い明かりが女の額をなぞり、冷や汗の粒を浮かび上がらせる。


「それに知っていたら、話を聞かせてなんて言わないわ。」


「…確かに。」


「だから、聞かせて。あんたの闇を、傷を、星の浮かばない夜空を。」


女性の言葉に、音に、ぬくもりに、緊縛された心が解き放たれる。


「店主さんには見えないでしょうけど、私、とても、とても、とても…醜いんです。」


「眉毛と目が離れてるし、目は可愛いラインとは違う細さ、歯並びだって崩れてる。」


「目に入っただけで人を不快にしちゃうレベル…だから、人前に立つときはマスクをしてる。」


「そんな醜いくせにね神様アイドルに憧れたの。」


「きっかけは、保育園。神様アイドル達がね、なんでかは分からないけど保育園に来てくれたの。」


「かっこよかったなぁ…手から足先まで全てが輝いて見えた。手を繋いでくれたりもした。」


「物心なんて少ししかなかったけど、今でもあの姿が、光が、私を焦がすの。」


「純粋に憧れてた。私もあんな風になりたいって、誰かの心を動かせるような人間に、存在に、神様アイドルに。」


「でもね、小学生の時に分かったの、知っちゃったの。」


女は息を吞む。


「二分の一成人式って行事が学校であってね、十歳になった小学生が一人一人将来の夢を教室で発表するっていう式。醜いくせに神様アイドルへ憧れた、私への死刑執行イベント。」


「始まってすぐ私の番になってね、後ろの子が『頑張って』って言ってくれた。神様アイドルの夢を知ってた、私と同じ夢を持ってた友達。」


「で、まあ『うん』って返事して、席を離れて教卓の後ろに立った。」


「それで堂々と恥じらいも無しに――神様アイドルになりたい、って。」


「…するとね、どこかから声が聞こえてきた。押し殺したみたいな、堪えきれないみたいな。」


微笑それは、後ろの子からだった。手で口元を隠して、笑ってた。」


「後ろの子だけだったら我慢できたよ…だけど、後ろのそのこに呼応するように、教室のみんなが笑い始めた。みんなの笑い声が、私を包んでいった。」


ぽつりと、女の夜空から小雨が降り始める。

それは、凸型の水晶体からあふれ出す。


「…今でも鮮明に憶えている。」


オレンジジュースの氷は既に溶けている。


「すぐに先生が『静かにしなさい!』って注意した。…でもね、今思うとあれは私を守るためじゃなかったの。ただ式を壊さないために、秩序を守るための声だった。」


「…最初は何で笑われたか分からなかった。いや、どこかではわかってたけど、知らない、気づかないふりをした。笑われて悲しかったけど、何かただの偶然だと思った。妖怪せいだと思い込んだの。」


「だから、聞いたの。『何で笑ったの』って。後ろのあのこに。」


「なんて返ってきたと思う?」


女性は答える。


「『毎日手に水を集めて顔を洗ってれば分かるよ』、だろう…?」


その声は何か水気を含んでいた。


「…正解。やっぱり知ってるんだ。」


「あんたのことなら何でも知ってる、痛みも、苦しみも、知りたくないことも全部分かるよ、辛かったよね…苦しかったよね…」


「店主さん泣いてる?」


「……泣いてなんか、いないよ。」


「そっか、でも良かった。店主さんが良い人だって感じれて。好奇心だけで近づいたけど、最初は怖かったから。」


「でも今は、安心できる。話したい、って思える。」


「知ってることについては何も聞かないのかい?」


「うん、別にどうでも良くなった。というか、店主さんは知ってて当たり前だと思ってる。なんでかは分からないけど、この場所がそう思わせるのかな?」


「…そうかい。」


「今ので私の話は大体終わり、あの後、不登校になって一回も学校にいかないまま卒業。修学旅行なんて行ってもない。」


「中学は渚ちゃんのおかげで楽しかった。高校は何とも言えないけど。」


「今はただ生きてる。それだけかな。」


提灯が、夜風に揺れる。

沈黙を破るように、店主がぽつりと口を開いた。


「承認欲求を求めてが抜けてるよ。」


その言葉に女は顔を上げる。

胸の奥を見透かされたようで、息が止まる。


「……本当、嫌なところまで知ってるね。」


「あんたは神様アイドルになりたかったんじゃない。誰かに崇拝されるような人間になりたかった。そしてそれを今も捨てられずにいる。」


「…わかってるよ、うるさいな。」


「加工マシマシの自画像を何回も投稿してる。だけど、いいねはゼロ。」


「うるさい、ダメなの?投稿しちゃ?私だってなりたいもん、神様アイドルに、誰かに奉られる存在に。」


「醜いのに?」


その一言で、環奈の感情は決壊した。

ぼやける提灯の光が、涙で滲んでゆく。

水晶体を越えて溢れた滴は、グラスの中に滴り落ち、オレンジをいっそう薄める。


「うるさい!うるさい!うるさい!不細工だって願ったっていいじゃん!醜いのは私のせいじゃないもん!母さんの――」


仄暗い向こうで、女性の影がかすかに動いた。


パンッ!


頬に火花が散るような衝撃。耳鳴りと共に、世界が一瞬止まった。

女はただ呆然と、頬に手を当てる。


「…痛い。なにすんの。」


「冷静になったかい。」


「…うん。」


「あたしはね、あんたの醜さを武器だと考えているんだ。」


「は?」


「人は“完璧“に心を動かさないんだよ、どこか抜けた、欠点のあるものに心を動かす。」


「醜さも傷も、そのままあんたを形づくる光になる。」


「綺麗じゃないから見てきた世界がたくさんあるだろう?」


「人じゃないものを見るような視線、見下すような嘲笑、守ってくれなかった教師。

あんたは全部、浴びてきたんだろう?

――そして乗り越えた。

だから、わかるんだ。

同じように傷ついてる子を見たら、誰よりも先に気づいてあげられる。

誰よりも優しく抱きしめてやれる。

それは、完璧な人間じゃできないことなんだよ。」


「醜さを売りにする神様アイドル、きっと誰かが認めてくれる。」


「それにあんたは自分で思っているより醜くないよ。顔以外は。」


「一言余計だって…」


「あたしは知ってるよ、あんたが誰よりも心優しい人間だって。」


「優しくなんてない、今日だってアンチコメに死ねと思ったし。」


「だけど、あんたはほら。」


そういいスマホが差し出される。

その画面には酷く、見るに耐えないイラストが映し出されていた。


「これ、昨日私がいいねした『萌え萌えプリンセス、いちごちゃん』のイラストじゃん。」


「なんでこんな絵にいいねしたんだい?もっと上手くて可愛い絵がたくさんあるだろう?」


「こんな絵って言うのやめて。この人が頑張って書いた大切なイラストなの、失礼。確かに、他と比べたらいいイラストじゃないけど、この人新しくイラストを書き始めた人なの。誰だって最初は下手なものでしょ?だから、折れないように誰かが頑張れって、支えてあげなきゃいけないと思った、ただそれだけ。別に優しくなんてない。」


「それに目が大きくて可愛かった。私が可愛いと思うものにいいねして何が悪いの?」


「ふふっ…」


夜に凛と咲く花のような微かな笑い声。


「てか、これ私のスマホじゃん!返して!」


そういい差し出された手からスマホを奪い取る女。

すぐに変なアプリが入れられてないかを確認している。


「あんたは醜くなんてない。誰かを認めてあげられる人だ。だからいつか、誰かがあんたを認めてくれる。」


「完璧だから、醜くないから神様アイドルなんじゃない、誰かを照らすから、神様アイドルなんだよ。」


「まあ、今のあんたはただの承認欲求モンスターだけどね。」


「はあ…ほんとうるさい。」


「ふふっ、保育園にきたアイドルにあんたがした質問、覚えてるかい?」


「いや、覚えてないけど。」


「『どうやったらアイドルになれますか』って質問さ。」


「あー思い出した。そんな質問したね、なんて言われたんだっけ?」


「『必死になって活動すればなれる。』」


「あーそんな回答だった。今思えば、そこはかとなく浅い。」


「でも、あんたは今でもそれを守ってる。誰を傷つけることなく活動してる。」


「・・・」


「自分のために活動しなさい。誰かを照らしなさい。その対価として承認をもらいなさい。もちろん、一番はどっちでもいい。でも、誰かを傷つけてはいけません。」


「今言ったことを忘れず活動していれば、なれるよ。神様アイドルに。」


「誰かを照らす光に。」


女は、黙ってスマホを胸に抱きしめる。

さっきまで冷たく重かった心臓が、少しだけ温かく、少しだけ軽くなっている。


「私なんかでも…神様アイドルになれるのかな。」


「“なんか”じゃない。あんたじゃなきゃ、なれない神様アイドルだよ。」


オレンジジュースを一気に飲み干したのち、椅子から立ち上がり、女性を見つめる。


「ありがとう。お世辞だとしても嬉しいです。」


「ああ、頑張りな。夜明けはもうすぐだ、すぐに曙光が迎えにくる。」


暖簾をくぐり、暗い夜道に顔を出す。


「ありがとう。」


再度感謝を述べたのち、歩き出す。

女は振り返らない。

振り返ったって意味がないこと、そこにあの女性はいないことを肌で感じていた。


プルプル、振動を始めるスマホ。

暗きの灯りに映し出されている文字は、「着信 母」


「もしもし。」


『もしもしじゃない!どこ歩いてるの!何回かけても出なくて…ホントに…ホントに…』


『…無事でよかった』


「…うん、心配かけてゴメン。今帰るよ。カレーまだ残ってる?」


『もちろん、まだ手を合わせてすらいないわ。』


「じゃあ、ママもお腹空いてるね。ダッシュで帰るよ。」


そういい、スマホをポケットに入れ、駆け出す。


走る――

誰かを照らすために。

走る――

あのモニターに自分を映らせるために。

走る――

消えない欲求を抱え、自分を認めさせるために。


女は走り出した。

この先、その足は何度も止まるだろう。泥濘に足を踏み入れたり、越えられない川が現れたり、様々な要因が女の足を奪うだろう。

しかし、それでもなお動くはずだ。

そして成る、曙光を与える存在に。

なぜなら――

女はもう、曙光を浴びているのだから。

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