忌み子の眠る家・上

 夕暮れる街中で狼男とすれ違い、俺は思わず目で追った。

 よく見るとそれは精巧な仮装で、灰狼を模したメイクの男はすぐにスクランブル交差点に溶け込んで見えなくなった。

 世間はあと十日もすればハロウィンだ。じきにやれコスプレだ何だと賑やかになるのだろう。普段は真面目な彼彼女らも、こういう時くらいと浮かれているのかもしれない。

 それ自体は決して悪いことではないのだが。

「この時期ばかりは依頼も増えるね……」

 赤信号で立ち止まった俺は、たったいま届いたばかりのDMを開く。会ったこともない誰か曰く「窓の外に何かいる気がする」とのことだった。

 メッセージとともに送られた写真を視てみたが、ただ窓の外に薄ぼんやりとした光が映っているくらいで、それらしいものは何もなかった。

 出来の悪いいたずらのつもりなのかもしれない、と依頼のDMを削除し、俺は浅い溜息を吐いた。


 依頼件数を真面目に数えたことはないが、十月後半のハロウィンシーズンに差し掛かると増えてくる印象だ。体感では夏休みシーズンの次くらいに多い。

 別に霊が浮き足立つ訳ではない。多くは人間側の都合だ。

 どことなく浮ついた世間に便乗した者が「霊がいる」などと妄執を語っているパターンもあるし、藪をつついて蛇を出しているパターンもある。

 この場合はどちらも無視している。前者は論外、後者は自業自得だからだ。俺は働き者でもお人好しでもない。

「圭一くんなら、手当り次第に首を突っ込むのかもなぁ」

 夏の終わりに、一緒に映画館に巣食った怪異と相対した青年を思い出し、俺は思わずふっと笑った。本当に彼は俺と正反対の、真面目で優しい心根をもっていた。お陰でからかい甲斐があって楽しかった。

 つい昨日のことのようだが、あれからもう二ヶ月が経とうとしている。

 DMをすべて開封することを諦め、スマホを上着のポケットに仕舞った。すっかり暮れるのが早くなった空を仰ぎ、今日の宿はどうしようか、と思案する。

 ふと胸ポケットがすっかり薄くなっていることに気づいた。そこに入っているはずの札も矢もすっかり底をついている。霊障を防ぐ盾の役割をする退魔札と、簡単な除霊ができる破魔矢。どちらも霊媒師の仕事で使う道具だ。

「そっか……もうそろそろか」

 普段ならなくなる前に調達しておくのだが、今回は忘れていた。先の圭一くんとの件で使いすぎてしまったのもある。

 行き先が決まった。俺は青信号の横断歩道に踵を返し、人波に逆らって歩き出した。



 街灯りに背を向けて、細い路地へ入る。路地裏にひっそりと佇む喫茶店の脇を抜け、三本並んだ電柱の丁字路を左へ。鳴き声がした方を見ると、一つ目の黒猫が壁をすり抜けて去っていった。今日はこちらで合っているらしい。

 開けた道を行き、誰もいないアーケードを流し歩くと――耳の奥で、乾いた鈴の音が鳴った。

 音の余韻に振り向けば、そこは殺風景な空き地が広がっている。その中心で、苔むした地蔵が静かに待っていた。

 その足元に跪き、決まった口上を唱えた。

「……“お通し下さい“」

 すると、目のないはずの地蔵と確かに目が合う感覚がし――気がついた時には、目の前に飴色の大屋敷が現れた。

「まどろっこしさは相変わらずだね」

 やれやれと首を振り、膝を払って立ち上がる。

 人目を避けるように渡り歩く家――迷い家まよいがの一種だ。

 ここは俗世から捨て置かれた、昼でも夜でもない現世と幽世の間にある世界。本来ならば来ようと思って辿り着ける場所ではないし、どうにかして紛れ込んだところで普通の人間はこの屋敷を視認することもないだろう。

 音も匂いもなく身体が揺蕩うような感覚は、明晰夢のさなかに近い。常闇の空を仰ぐと、頭のない蜻蛉がすっと横切っていった。

 屋敷へ続く石灯籠を横切り、古めかしい大玄関の前へ。重厚な扉は、誰かの来訪を待っていたかのように静かに開いた。

「お邪魔するよ」

 足を踏み入れると、上がり框に白髪の少年が正座していた。灰緑の着物を纏った彼は、三つ指を立てて深々と頭を下げる。

「お初にお目にかかります、御客人」

 年の頃は十歳とか、それくらいだろうか。黒い瞳に光はなく表情も乏しく、いつも思うが蠟人形が人間の動きを真似ているようだった。

塵助じんすけか。今日は君が記憶の持ち主かい?」

 その名を呼ぶと、少年――塵助は顔を上げ、心底不思議そうに目を丸くした。

「はて……わたくしどもをご存知と」

「もう十年はここへ来ているかな」

 このやりとりも何度目だろう。毎回のこととはいえ不思議な気持ちになる。だが彼はしらを切っているのではなく本当に覚えていないのだからしょうがない。

 塵助は再び床に頭を垂れる。

「これはとんだご無礼を……」

「良いんだ。君たちの作る札と矢を頼みたい。ついでに何日か厄介になるよ」

 框に腰掛けそう言うと、彼は音もなく面を上げた。

「その二つをもご存知とは……承知つかまつりました」

 塵助は何事もなかったように立ち上がり、廊下の奥へ俺を案内した。


 薄暗い廊下はどこまでも伸び、障子戸は永遠の如く両隣に続いている。内装は築百年はゆうに超えるであろう古民家なのに、どの床板を踏もうと軋まない。まるで自分が幽霊にでもなったような気分だ。

 通りがけに、塵助はひとつの障子戸を開く。

あい、御客人のお戻りだ」

 中に顔を覗かせると、塵助と同じくらいの年頃の少女が背筋を正して座していた。

 おかっぱの白髪に表情のない瞳は、彼とよく似ている。この子は塵助の双子の妹の埃だ。赤い着物の出で立ちは菊人形を思わせる。

「やあ、久しぶりだね」

 声を掛けたが埃は微動だにせず、灯りのない座敷の置物と化していた。


 塵助と埃は双子だが、本来ならば一人に一つあるべき魂を片割れが持たないまま生まれた兄妹だ。

 魂を持たない空っぽの子どもは「忌み子」と呼ばれるものの一種で、大抵は死を待つか霊の容れ物にされるのを待つかといったろくな結末を辿らない。

 だがどういうわけか、この子たちは二人でいることで生き永らえることができる。一日に一度、一つしかない魂の貸し借りを行うことによって。

 そんな不安定な状態だから、ここのような現世と幽世の間のような曖昧な世界の住人となっているのだ。ここにいれば死ぬこともなく、年を取ることもない。

 しかし永遠の命と引き換えに、彼らは記憶を失ってしまう。三日もすればどんな大切な出来事も夢の跡のように薄れ、消え去ってしまうのだ。

 見た目は十歳ほどだが、格好から察するに数百年と生きてきたことが伺える。といっても、本人たちはこれまでの人生など覚えていないのだろうけど。

 二人が忘れないのは互いのことと、誰に教わったのか分からない退魔の札と矢の作り方だけだ。


 最奥の座敷を俺に明け渡すや、塵助は廊下に座して背を伸ばした。

「外の時間で七晩ほどいただきたく存じます」

「結構かかるんだね」

 前に頼んだ時は二日くらいじゃなかったか。

 いつもより三倍以上かかる作業に首を傾げていると、塵助は表情を崩さぬまま少し俯いた。

「それがお恥ずかしながら……昨晩、賊に入られたようでして」

「この家にかい?」

 俺は眉を上げて問い返した。

 迷い家に賊とは妙な話だ。現世の人間が誤って辿り着くこと自体がほとんどないのに。

「あらゆるものを持ち出されました。わたくしの小刀も埃の筆も、とにかく一切を」

 塵助は作業部屋と思しき障子を開ける。白髪越しに部屋を覗き込むと、彼の言わんとしていることがよく分かった。

 座卓も道具入れもひっくり返され、拾い集められたばかりと思しき道具類が和室の脇に追いやられている。薬棚は引き出しごと中身が散乱し床に倒れていた。手当たり次第に荒らされた、ということがよく分かる。

「昨夜というと、盗人と会ったのは埃か。ひとまずは無事で良かった」

「ええ……ああ、代わりがありました」

 塵助は畳の上の残骸の中から鈍色の小刀を拾った。鞘から抜いたが少々刃がこぼれている。これでは彼の言う通り、いつもの作業に時間がかかっても仕方ないだろう。

「ご存じでしょうが、わたくしどもの記憶など二人とも三日と持ちませぬ。賊に入られた、ということもすぐに忘れてしまいましょう。何を盗られたのかも」

 塵助はがらくただらけの部屋に座し、そばに転がっていた木枝を削り出し始めた。早速破魔矢を作ろうというらしい。手元になまくらしかなかろうと弘法筆を選ばず、ということなのだろうか。

 だがまあ、どうせ忘れるから良いということではないだろう。

「外をぐるりと見て来ようか。君たちはここから出られないだろう?」

「御客人にそのようなご面倒を……」

 面倒は面倒だ。記憶の持たない彼らにわざわざ恩を売るつもりは更々ない。

 しかし盗人がどうやって迷い家に盗みに入ったのかくらいは興味が湧いた。単に気が向いただけ、とも言う。

「良いんだ。暇を持て余していてね。不届き者の顔を拝むにはちょうど良い」

 不思議そうに何度か瞬いた塵助に、俺は微笑んでみせた。

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