見知らぬ夜はひとりの輩―レンタル霊媒師シリーズ拾遺集―
月見 夕
海へ向かう鈍行列車
微睡みから浮上すると、オレンジ色の車窓に映る眠そうな俺と目が合った。南下する路線は既に夕刻が近づき、田園風景の向こうの遠い山並みに陽が沈み掛かっている。
各駅停車の列車に揺られるまま、いつの間にかうたた寝してしまったようだ。
弛みかけていた髪束を結い直すと、車内放送のスピーカーがぷつぷつと鳴り出した。
『ご乗車ありがとうございます……次は――』
運転士の気怠そうなアナウンスは、終着駅にはまだ程遠いことを教えてくれた。鈍行列車はマイペースに速度を落とし、やがて告げられた通りの寂れた駅に辿り着いた。
「おにいさん、おとなり座ってもいいですか」
もう一度眠りの世界へ戻ろうとしていた俺は、その声に目を覚ます。
薄く目を開くと、前にあどけない顔の少女が立っていた。
「どうぞ」
五歳くらいだろうか、水色のワンピースに麦わら帽子の子どもは、小さな身体で座席をよじ登ろうとしている。ぼんやりと眺めていると、少女は何とか俺の隣に座って満足げに笑顔を向けた。
再び列車は走り出した。
茜色に照らされた車内には、俺たちの他にも乗客がいるようだった。
通路に目を遣れば無人の革靴が歩き去っていくし、扉を挟んだ向かいの座席を見渡せば薄ら透けた人影がまばらに座っている。使い古された吊革には、女性と思しき白い手首が下がっていた。
特に気に留めることなく、俺はゆっくりと横スクロールで流れていく向かいの車窓に視線を戻した。こうした古い路線だとか、建物だとかにはありふれた光景だった。
幽霊列車と人は呼ぶのかもしれない。視えていれば、の話だが。
彼らが発する静かな気配に、そっと息を吐く。
帰るべき場所が分からなくなったのか、はたまた旅するうちにこの場所に腰を下ろし、案外居心地が良くてそのまま車内に居残っているのか。
確かめようはないが、他の誰かを害しようという敵意は感じられない。たぶん皆、目的地に辿り着かない穏やかな旅路の最中なのだろう。
隣に座った少女もまた、向こうの座席が透けて視えていた。
「……君、ひとりかい?」
普段なら放っておくのだが、今日はどうしてか声を掛けた。その子がいつまでも俺を見つめてにこにこ笑っていたからかもしれない。
「おかあさんを探してるんだけどね。見つからないの」
寂びた車内を見回したが、それらしい人影は見当たらなかった。この子の母親は、ここにいないのだろうか。失った我が子を探しているだろうか。
この子も自分が死んだという自覚があるかすら怪しかった。自分の素性も満足に話せそうにない少女の死に、何の罪もないけれど。
黒目がちな瞳を向け、ひとりぼっちの少女は自分を指差して言う。
「ゆみちゃん」
「君の名前?」
「そう。おにいさんは?」
「俺は
霊の少女に笑みかける。
向かいの車窓に視線を移すと、大きな夕陽が斜めに傾いていた。
鈍行列車は次の駅に停車し、また誰も乗せずにがたごとと扉を閉めて出発した。
規則正しい轍の音が、等速で次の駅へと運んでくれる。
「おにいさんは、どこに行くの?」
「うーん……特に決めてないんだ。この列車も、気の向くまま乗ったまでさ」
「ふうん」
分かったような、分かっていないような風にその子は頷いた。二十歳になってもふらふらしているような人間もいる、ということが無垢な瞳には奇異に映らないのが、子どもという生きものの良いところなのかもしれない。
「ゆみちゃんはね、おかあさんと海を見にいくの」
「へえ、良いね」
「ゆうひが沈む海は、とってもきれいなんだって」
「そうなんだ」
目を輝かせてそう話す少女は、背後の夕景に負けないくらいに眩しい。
俺はちらりと乗降口の張り紙へ目を遣った。一本しかない単純な路線図を眺めるに、海が広がる終点へはあと三つほど止まらなければならないようだった。田舎の駅間は長い。列車が海へ至る頃には、きっと――
「……夕暮れには間に合わないかもね」
ぽつりと呟いて、俺は少しだけ「しまった」と思った。それまで期待に満ちていた少女の表情が、見る見るうちに曇っていく。
への字に結んだ口元は、ややあって開かれた。
「……だいじょうぶだよ、きっと見れるもん」
それは半ば自分に言い聞かせるようだった。
「おかあさんがね、言ってたの。「海に沈むゆうひを見にいこう」って」
「でももう暮れかかってるからなあ。まあ大丈夫さ、たとえ暮れても――」
「ううん、いいの」
そばの窓辺の夕陽に照らされ、少女は笑顔で俺を振り向いた。
「ずうっとひがくれなければ、きっと間に合うでしょう?」
「……ああ、そういうことだったんだね」
ようやくこの世界の意味を理解し、俺は納得したように頷いた。向かいの車窓にも暮れかかる夕陽は、その光を印象づけるように赤々と空を焼いている。
「初めて見たなあ、夕陽がふたつ沈んでいく景色。綺麗だから、しばらく放っていたけれど」
ゆみちゃんは不思議そうに首を傾げる。
「ゆうひ、いっぱいあるときれいだよね」
「うん……綺麗だけど、普通は一度にひとつしか沈まないんだ」
西にも東にも暮れゆく茜色の風景は一見鏡写しのように幻想的だったが、視界にふたつ太陽が並ぶという異常さに脳が理解を拒もうともしていた。
永遠に日が暮れない世界を、きっと目の前の少女は望んでいるのだ。
車両は徐々に速度を落とし、歩くような速さで徐行運転をし始めた。少女は俺から目を逸らさず、笑顔のままじっと見つめている。その瞳は深い闇の色をしていた。
列車はやがて小さな踏切に差しかかる。窓の外に広がる惨状に、俺はすっと目を眇めた。
遮断機や線路、電柱にこびり付いているのは夥しい量の肉片と血痕だ。きっと、通過列車に轢き潰された人間だったものだろう。
僅かに残る気配はこの子と、あとひとりは――
「……おかあさん」
気づいたように、少女は外へ手を振った。
歪んだ窓ガラスに、夕暮れを背に少女と手を繋いだ母親らしき女性の姿が映る。「一緒に海を見に行こう」と誘うその瞳には、すぐそばに迫る特急列車しか映っていなくて。すべてを終わらせる覚悟を決め、彼女は娘の手を引いて線路に踏み出し――
在りし日の顛末を見届け、俺は目を伏せて息を吐いた。
「……君たち母娘は、帰るべきところを失くしたんだね。自分自身の手で」
偽物の夕景は汚らしく溶け出し、徐行運転をする車両を包み込むように触手を伸ばしてくる。
この世界の異変に気づいた俺は、さしずめ怪異の腹の中に湧いた異物のようなものだろう。母娘の望む永遠を脅かす異物は、除かれなければならない。
窓を透過し、茜色の風景だった手のひらは俺をすり潰そうと迫ってくる。
俺はゆっくりと席を立ち、その苦しみの煮凝りのような手のひらを引いて抱き寄せた。
「おいで、ふたりとも。哀しい夕暮れはお終いにしよう」
身を引き裂かれる痛みも悲しみも、すべてが質量をもって襲いかかってくる。が、それらは俺の身体に触れた途端にさらさらと崩れ、解けるように空気に散っていった。誰にも救われなかった感情を教えて。ここですべて消してあげるから。
祈りとともに腕の中を見れば、そこにあったのは自我のない魂の残滓だけだった。窓の外も、思い出したように元の風景を取り戻していく。
まやかしの夕暮れが消え去ると、たったひとつ残った本物の夕陽は静かに山の端に飲み込まれていった。
明かりのない田園風景を行く一両編成が、何事もなかったように線路を踏む音だけが響く。
「だめだよ……ひがくれちゃったら……やくそく、したのに」
たったひとり残された娘はしゃくり上げて泣いていた。母親を消した張本人である俺を憎むこともできず、ただどうして良いか分からずに夕陽の在処を求めている。小さい背中は夜の中で震えていた。
こんな時、これで良かったのかと考えてしまう。そこにあった惨劇は消してやれないのに。誰かの悲しみに、足を踏み入れたのは俺の方なのに。
訪れたばかりの夜は、終着駅へ向かう車内を暗く黒く染めている。
俺は闇に目を凝らし、消えかかった魂を探るように手を伸ばした。やがて柔らかいその腕を掴み、もう一度引き寄せる。
「探してたんだろう? ……ほら」
「おかあさん……!」
少女の目の前に連れ出したのは、辛うじて生前の姿を取り戻した母親だった。いつ崩れてもおかしくないほど、その輪郭は朧げだ。
「君たちをこの世に縫い止めることはできないけれど……せめて、この先はふたりで行くといい」
母娘の背中をそっと押して、夕陽が沈んだ方へ送り出す。そのまま真っ直ぐ行けば、迷わずに次の世へ逝けるだろう。
夕暮れに似た光の中へ飛び込んだ少女は、母親とぴったり寄り添って振り向くことはなかった。
ホームに降り立ち、帳の下りた空を見上げる。夜の潮風が出迎えて、結った髪束をさらさらと揺らした。
これで良かったんだろうか。
幾度目かの自問は、しかし目の前に広がる絶景に掻き消された。
終着の無人駅を包むように、満天の星空を映す海原が広がっていた。さざ波は天の川を巻き込んで、白砂に打ち寄せては安らかに揺蕩っている。
穏やかな潮風を吸い込むと、ごとごとと音を立てて背中で扉が閉まった。
「……ああほら、陽が沈んでも綺麗だ」
誰に伝えるでもない言葉は、波音が抱えてさらっていく。
俺をここまで運んだ車両は折り返し、線路をゆっくりと曲がって消えていった。その温かい光に抱えられた魂たちを見送ると、俺はようやく改札へと踵を返した。
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