第10話 規格武装──方舟砲

 港町グレイハーベンの水平線が、夜明け前だというのに墨を落としたように濃くなっていた。

 見張り台の小鐘が一度、二度、三度――甲高く割れる。


「……来るぞ! 帝国艦隊だ!」


 霧を裂いて進む黒い影。帆柱の代わりに幾何学光陣を立て、波を切るたびに水面へ式線を刻みつけていく船――いや、構造体。甲板に並ぶのは砲でも兵でもなく、編み上げられた回路の束だ。

 人の気配が港中から引く。魚屋が桶を倒し、パン屋が窓を閉め、子どもを抱えた母親が路地へ駆ける。鐘楼の綱を引く少年の手が震え、鐘は不安の拍子で早鳴りした。


 俺は石畳の縁に立ち、潮気に目を細める。こめかみの奥で【無限設計(インフィニティ・ブループリント)】が自動起動した。視界の端から端まで、線が、角が、荷重が、熱流が――世界そのものが図面に変わる。


「……断層砲(ディスロケーター)を積んでる。艦首に二門、旗艦は三門。出力は――街一つを切除可能」


 セレス・アルダインが剣の鞘を鳴らし、短く息を吐く。「港ごと消すつもりか」

 ガロム・ブレイザーが大斧を肩で回し、いつもの低い笑いを漏らした。「ガハハ、でけぇ包丁持ってきやがる。だが、こちとらまな板(街)にまだ手を掛けさせねぇ」


 背で衣擦れ。リナが駆け寄り、杖の石突きを握り直した。「アレン、演算の色が……もう限界の手前だよ」

「越える。越えた先で止める」


 霧の壁が裂け、旗艦が現れる。艦首に突き出た砲塔は、貝殻のような幾何学の殻を幾重にも重ね、その中心で白く空間が歪む。

 艦橋に立つ老人――白髪、刃物のような横顔。式角(フォーミュラ・ホーン)・グラディウス。帝国の規格至上主義を体現する提督は、まぶた一つ動かさないまま口を開いた。


「告げる。ここは帝国通商規格の通過点である。未承認の港湾は障害物として切除する」


 都市を“障害物”と呼ぶその声に、周囲の兵の喉が同時に鳴った。

 俺は、闇光銃を持ち上げる。かつて地下で拾い上げ、改造に改造を重ねた“銃”。だが今、その銃身の刻印は焼け、内部の導管は街と共鳴して脈打っていた。


「【無限設計】――欠けた回路、補完」

「【演算掌握(ドミナント・オペランド)】――敵演算、奪取」


 二つの権限が束になった瞬間、銃は銃の形を保ったまま“砲”へ移行する。俺の足下から街路管、井戸の水脈、鐘楼の振動、家々の梁――都市を構成する全ての線が、一本の太い回路に巻き取られていく。


「アレン、街全体を媒介にする気!?」

「俺一人で撃たない。――街が撃つ」


 逃げ遅れた市民の声が、導線に乗った。「守れ!」「負けるな!」「生きろ!」

 叫びはただの音ではなく、選択の力だ。勢いではなく、方向を与える。


 艦首の砲塔が開く。空間の刃が三重に重なり、白い亀裂が海面から天へ。

 グラディウスの宣言が重なる。「切除」


「【規格武装】――方舟砲(アーク・キャノン)!」


 引き金。黒と白の螺旋が港の空間ごと吠え、断層刃に正面から衝突した。

 音が、落ちた。

 世界から一瞬、現象音が消え、数式だけがむき出しになる。角速度、ひずみ、屈折率――すべてが無音で跳ね返り、白刃は虹の欠片に砕けて海へ散った。


 歓声が遅れて波のように押し寄せる。「助かった!」「やったぞ!」

 だが俺の耳には、別の音が乗っていた。頭蓋の裏で、数千の声が重なる。――古代設計士たちの囁きだ。「道具で殺すな。道具で生かせ」。

 銃身が焼け、掌が痺れる。まだ、撃てる。だが、長くは保たない。


 提督は眉ひとつ動かさない。「学習を確認。だが、欠陥は残る」


 旗艦の甲板に幾何学光陣が広がる。

 数十、やがて数百の人影が立ち上がった。甲板に整列したのは、同じ角度で剣を掲げ、同じ呼吸で胸を上下させる兵――規格兵。


 セレスの目が狭まる。「……個性を、消しているのか」

 ガロムが舌打ちした。「兵士を部品扱いにして、戦を機械にした気でいやがる」


 規格兵が艦縁から跳び降り、港の岸壁へ降り立つ。着地角、歩幅、視線、すべてが一致。

 俺は方舟砲を下げ、こめかみを押さえる。焼ける痛みは、まだ耐えられる図面だ。


「行く。剣の届く距離で、思想を叩く」


 セレスが頷き、剣を半ばまで抜き、刃の平を自分の頬に軽く当てた。「切らない。折るだけ」

 リナが杖を握り直す。「支え続ける」

 ガロムが肩で大斧を担ぎ直し、歯を見せた。「よし、じゃあ俺は“壊さず止める”の最短経路で殴る」


 港の空気が重くなる。波頭の白だけが、薄陽の下で淡く光っている。

     


 規格兵の先頭列が踏み込む。

 刃角三度、肩の外旋二十、膝角度十五――全部が等しい。

 均質であるほど、予測は容易い。均質であるほど、崩れは連鎖する。


「【解析(アナライズ)】――行進波、捕捉」

「【改造(リフォージ)】――地表摩擦、微変調」


 石畳の目地に、油でも砂でもない“位相の膜”を薄く敷く。滑らない。だが、踏切の芯が半拍だけずれる。

 先頭列の足元が揃って鳴らし、槍先が一斉に低くなる。――開いた隙は、一つで十分だ。


「今!」

 セレスがその隙間に滑り込み、刃は肉に触れない。柄で柄、石突きで石突きを叩き、てこで四本を同時に外へ跳ね飛ばす。

 反対側でガロムが大斧の柄で顎と肩を“支点”に打ち込み、膝を折らせ、倒した相手の武器を軟金に“改造”して無力化する。

 リナの【光紋(ルクス・グリフ)】が細い弧で地面に走り、倒れた規格兵の関節だけを柔く縛る。殺さない。動きを止める。


 だが規格兵の後列は、たちまち補正をかけてくる。

 崩れた前列の穴を埋める歩幅で進み、背中に当たる刃を“受ける肩”へ流す。

 人を個体として見ていない。列を一つの“部品”と見ている。だから、折れても折れぬ。


「【複写陣(コピー・グリフ)】――行軍式、模写。

 【演算掌握】――同期信号、奪取」


 規格兵の行進同期を俺の回路へ引き込み、半拍だけずらす。

 たった半拍。それだけで、彼らの剣は互いの鞘に当たり、槍は味方の肩をかすめ、列は自分の波で自分を絡め取る。

 均質であることが、剣になる。均質であることが、罠にもなる。


 グラディウスの声が海風を渡る。「補正。個体差、導入」

 規格兵の動作に、わずかな乱数が乗る。全員が“少しだけ違う”。均質の強みを残したまま、崩れの伝播を抑える工夫。――速い。


「手が早いな、提督」

 セレスが短く笑い、顔を汗が伝う。「なら、こちらは“違い”を増幅する」


「【同調(シンク)】――個別記憶、借用」


 港で剣を学んだ少年、山で獣を追った猟師、舞台で扇を操る踊り子――街の中にある“身体の記憶”を、俺は細い糸で一本ずつ借りる。それぞれの身体性に合わせて、セレスとガロムと前衛へ“違う間合い”を配る。

 等間隔の壁に、違う振幅の波をぶつける。

 規格兵の受けは“標準”に合わせるよう教え込まれている。標準外の軌道は、怖い。怖さは、遅れだ。


 石畳が鳴る。剣と柄が当たる音、てこの音、膝が折れる音。血の匂いは薄い。汗と潮と、熱の匂いが満ちる。


「後列、詠唱構え!」


 規格兵とは別に、艦隊の魔導士が手を上げた。

 弧を描く炎、網を成す雷、空気を刈る風。

 港に火が入れば、街は灰になる。


「【複写陣】――弧と網を模写。

 【改造】――焦点回転(フェーズ・ロール)」


 飛来する火弾の起因角をずらし、焦点を海上へ逃がす。

 雷網の帰還路を俺の掌へ接続し、甲板の空(から)の支柱へ落とす。

 風刃の位相を半拍早め、規格兵の肩越しにすり抜けさせて“脅し”だけに変える。


 港の小さな祠に膝をついていた老婆が震える手で祈りの輪を握り、次の瞬間、立ち上がって叫んだ。「うちの橋に手を出すんでないよ!」

 その声が導線に触れ、方舟砲の回路がわずかに輝いた。――街が、戦っている。

    


 正午、潮が変わり、太陽が港の水面で細く跳ねる頃。

 規格兵の一団が左右から回り込み、倉庫の陰に挟撃の三角を作った。

 市民が残していった荷車、樽、木箱――どれも“異物としての障害”と見られている。兵は物に情を持たない。だから、まっすぐ来る。


「セレス、右の角を捨てる。ガロム、左の通路を“狭める”」

「了解」

「任せろ」


 俺は石畳に掌を置いた。「【改造】――路面制御/微傾斜形成」

 ほんの一度。左の通路の幅を体感で狭く感じる程度に、壁面の凹凸と光の反射を調律する。人間は自分の肩幅に嘘をつけない。狭いと感じれば、歩幅が半拍縮む。

 縮んだ歩幅は、右から回る規格兵の歩幅とぶつかる。

 干渉。波と波。列の中ほどで発生した“躊躇の節”へ、リナが光楔(ライト・ウェッジ)を打つ。

 膝が折れ、剣が石を撫で、血は出ない。

 そしてセレスの柄が、石突きが、てこが、連なっていく。


 旗艦の艦橋で、グラディウスが微かに首を傾げた。

「非致死戦闘……規格外。だが、選択は尊重されない」


 提督の指がわずかに動く。

 艦の後甲板、箱状の構造が開いた。

 中から滑り出したのは――塔。

 塔の先端には、回転する四つの輪。輪の内側に嵌め込まれた石板が、それぞれ違う速度で回っている。


 俺の背中に冷たいものが走る。「……規格収束塔。都市規格を上書きする兵器だ」

 港という“場”そのものに、帝国規格を流し込み、街路、井戸、倉庫の導線を“帝国仕様”に変えてしまう。

 都市が都市として持っている“生の流路”が、機械の都合にすげ替えられる。


「止める。――方舟砲、二射目」


 引き金。

 方舟砲の螺旋が、塔の輪を貫こうとする。

 だが、銃身の内側で音が裏返った。

 回路の一部が焦げ、導管の一部が縮退する。

 俺の視界が白く散り、膝が石を打つ。――過負荷だ。


「アレン!」

 リナの手が即座に額に当たり、冷が走る。彼女の【癒調(リファイン)】が演算の“熱”をわずかに抜いてくれる。

 俺は歯を噛んだ。「まだ撃てる。だが、街をもっと“繋がせて”くれ」


 リナは頷き、広場に向かって両手を掲げた。「皆さん、石を踏んでください! 鐘を鳴らして! 手を繋いで!」

 意味のない儀式ではない。街の導線に“人の歩み”というリアルタイムの信号を乗せる。

 魚屋の男が桶を蹴飛ばし、石畳に裸足を打ちつける。

 パン職人が捏ね台のまま外へ出て、捏ねる拍子で石を叩く。

 鐘楼の少年が息も絶え絶えに綱を引き、鐘が新しい拍を街へ配る。

 婆が祠の前で輪を鳴らし、幼子が泣きながら笑う。


 方舟砲の導管に、街が戻ってくる。

 俺は立ち上がり、砲口を塔へ合わせる。

「【演算掌握】――塔の回路、奪取」

 抵抗は強い。塔は“都市規格の主導権”に噛みついてくる。

 だが俺はすでに都市を媒介している。人が街で生きるための“生活規格”は、俺の回路に乗っている。

 規格対規格。

 どちらが“生かす規格”か――それだけが、重さを決める。


「【規格武装】――方舟砲:第二出力モード、開放!」


 黒と白が砲口で一瞬だけ“灰”になる。

 生と死、光と闇、設計と破壊――矛盾するものが、灰色という“中道”で束になる。

 灰の矢は、塔の輪に突き刺さった。

 輪が逆回転し、帝国規格の脈動が“遅延”へ転じる。

 塔の光がひと呼吸ぶん弱まり、その隙にセレスとガロムが規格兵の壁を抜いて塔の基部へ斬り込んだ。

 セレスは刃を使わない。構造の“肋骨”だけを柄で折り、支点をずらす。

 ガロムは大斧の柄で楔を打ち、基礎の石を“抜けない程度に”緩め、倒さず、立てなくする。

 塔が呻き、停止した。


 旗艦の艦橋で、グラディウスの視線がわずかにこちらを向いた。

「お前の規格は甘い。甘さは、いずれ欠陥になる」


「甘くていい。食える甘さは、生きるための栄養だ」

 俺は息を吐き、方舟砲を下ろす。

 視界の端が黒く滲む。演算熱が神経に逆流している。

 リナが支えてくれる。彼女が居なければ、とっくに倒れている。

     


 午後の潮。

 艦隊はまだ健在だ。旗艦の左右、二番艦、三番艦が“鎖陣(チェイン・ライン)”を張って互いの回路を補完し、港の外縁で防御の網を組む。

 規格兵は減った。殺してはいないが、立てない者、武器を失った者、退いた者が増えた。

 市民は避難と補給を続け、負傷者は野戦の簡易路で運ばれる。

 街は呼吸を取り戻しつつある。だが、帝国はまだ息をしている。


「提督が直接、来るぞ」


 セレスの視線の先、旗艦から一隻の小艇が降りた。

 舳先に一人。白髪の提督は、剣も槍も持たない。手には短い鉄筆。

 小艇が港に着き、提督は石畳に上がる。背筋は伸び、足取りは静か。瞬目は少ない。


 俺は一歩、前へ出た。

 街の声が背にある。リナの手が袖を握る。セレスとガロムが左右に立つ。

 グラディウスと俺は、石の上で距離を測った。


「設計監、アレン・シグルド」

 提督の口元がわずかに歪む。「名は記録してある。――問う。規格は誰のためにある」


「生きる者のために」

「答えは幼稚だ。規格は“合意”のためにある。合意は“従属”がなければ成立しない」

「従属に合意はない。恐怖は署名にならない」


 提督は鉄筆で空を一つなぞる。

 石畳の上に薄い線が生まれ、幾何が組み上がる。

 ――歩幅規格。

 俺の足元から港の端まで、理想の歩幅で並べられた点が光った。


「美しいだろう。均質は、最短だ。最短は、最も“人員の死を減らす”。貴様は殺さないと言った。だが、非致死は“再戦を強いる”。戦が続けば、死は増える」


 彼は線をもう一本引く。

 ――補給規格。

 艦隊の鎖陣から、港の外縁へ最短の補給線が走る。計算は正しい。

 正しいが、冷たい。

 “誰”の補給かという問いが、どこにもない。


「正しい、と思うか?」

 俺は問うた。

「正しさは、結果が証明する」

「なら――見せる」


 俺は方舟砲を構えない。鉄筆のように、人差し指で石を撫でる。


「【街路録(ストリート・レコード)】――市声収束(シビック・コーラス)」


 石畳の上に、港の声が浮かぶ。午前の避難、魚屋の裸足、鐘の拍、老婆の輪。

 それらは“無意味な雑音”ではない。街を最短で守るための“最短ではない道”。

 子どもを抱えて曲がった路地。荷車がやっと通れる裏小道。祠の前で膝を折る五秒。

 どれも最短ではない。だが、それを無視すれば“生きている街”は壊れる。


「規格は、線だけじゃない。線の“間”も規格だ。歩幅が揃うことより、歩幅の違いを許す幅が規格だ」


 グラディウスの瞳孔がわずかに収縮した。

「詭弁だ」

「なら、剣で決めよう」


 セレスが前に出る。「私が行く」

「駄目だ。これは“設計士”の決闘だ」


 提督は鉄筆を握り直し、静かに構えた。

 鉄筆の先が、刃になる。

 彼は剣ではなく、図面で斬るつもりだ。――俺も、図面で受ける。


「【解析】」「【改造】」「【複写陣】」「【演算掌握】」

 四つのコアと、背で燃える【無限設計】が重なり、視界は線で満ちる。

 提督の鉄筆が一閃。石畳が“計測値”のズレとして切断される。

 俺はそのズレに“許容差”を入れる。許容差がズレを飲み込む。

 彼は二閃目で“荷重過多”の経路を引く。

 俺は“冗長路”を設計して荷重を逃がす。

 三閃目、彼は“最短路”で心臓を結ぶ。

 俺は“最短禁止”の付箋を貼り、道を迂回させる。


 鉄筆が鳴り、指先が痺れる。

 グラディウスは一歩も無駄がない。彼の規格は精密で、冷酷で、速い。

 俺の規格は遅い。だが、残る。

 殴り合いで勝つのではない。折れない規格で、折る。


 提督の呼吸が半拍だけ乱れた。

 見えた。

「【規格武装】――方舟砲、第三モード」

 銃を構えない。指先で空に“門”を描く。

 街の導線、海の流れ、人の拍、鐘の音。すべてを一度だけ“灰”に束ね、提督の鉄筆の先、たった一点へ落とす。


 金属の音。鉄筆が折れた。

 提督の指が赤く染まる。血は少し。彼は顔色を変えない。


「……敗北、とは言わない」

「負けを認められることは、規格の強さだ」


 グラディウスは短く目を伏せ、背後の艦へ合図を送った。

 艦の帆――光陣がゆっくりと角度を変え、舳先が沖へ向き直る。

 港に残された規格兵は退避路に乗り、武器を置いて列を組む。

 撤退だ。勝利ではない。だが、街は残った。


 提督は小艇へ戻る前に、俺の方を見た。

「設計監。貴様の規格は“甘い”。だが、甘さを含めて規格化しようとする意思は記録に値する。――次は、海で会おう」

「その時には、もっと“甘い規格”を整えておく」


 彼は短く笑った。笑いは凍っているが、確かに笑いだった。


    

 艦隊が霧の向こうへ消え、鐘がようやく“安堵の拍”を刻みはじめた頃。

 方舟砲の導管がようやく冷え、俺の頭痛も“人間の痛み”に戻ってきた。

 石段に座り込むと、リナがそっと水を当ててくれる。冷たい。生き返る。


「……終わった」

「終わらせた、だよ」

 リナの指が俺の額に触れ、光が残る熱を洗い流す。

 セレスが脇から腰を落とし、靴の先で石を軽く叩く。「殺さずに退けた。王都で教本を書き換えないと」

 ガロムが大斧を壁に立てかけ、背伸びをする。「ガハハ、甘い規格の方が腹に溜まる。悪くねぇ」


 港の酒場「獅子の顎」から、歌が漏れてきた。早すぎる祝いだ。それでもいい。街は祝う権利がある。

 魚屋の親父が片手に桶、片手に酒瓶を持って走ってくる。「設計監殿! うちの魚、持ってけ!」

 パン職人が焼きたてを割り、リナに押し付ける。「あんたの光、あれが壁になった!」

 鐘楼の少年が降りてきて、俺の前で深く頭を下げた。「あの鐘、俺が鳴らしました。役に立てましたか」

「最高の鐘だった」

 少年は泣き、笑い、また泣いた。


 祭のようなざわめきの中で、俺は海の彼方を見た。

 霧の向こう、帝国の旗が小さく揺れる。

 グラディウスは戻る。次は“海”だ。港という“街”の規格ではなく、潮流と風と星の規格が戦場になる。


 その夜。

 王都からの伝令が到着した。

 王の密命。「帝国は海上規格を拡張し、外洋に“規格航路”を敷きつつある。設計監に次の権限を付与する――海路規格監査(マリンスケール・オーバーシア)」

 添えられた地図には、海に浮かぶ細い線の群れ。

 それは方舟砲の射程でも届かない遠さだ。街の導線だけでは戦えない。海の“線”を学ばねばならない。


 俺は空へ掌を向け、瞼を閉じた。

 夜空の淡い図面の中に、新しい記号が揺れている。

 波、潮、星、風。

 そして、船。


《新スキル獲得――【規格航路(スタンダード・ルート)】》

《新サブ機能――【潮汐演算(タイド・カリキュレータ)】/【風帯折衝(ウィンド・ネゴシエーション)】》


 脳に走った閃きは、方舟砲のような爆ぜる痛みではない。冷たい水が喉を通るように、静かに広がる知だ。

 海は、街よりも嘘をつかない。だが、人は海で嘘をつく。――そこに、規格の入り込む余地がある。


 リナが隣で空を見上げる。「また、走るのね」

「ああ。今度は港じゃなく、世界の“海路”に線を引く」

 セレスが立ち上がる。「騎兵の出番は減るが、剣の出番は減らない」

 ガロムがあくびをし、笑った。「船の上でも殴れるもんは殴れる」


 港の灯がひとつ、またひとつ消えていく。

 石畳は今日を覚え、明日の線を待っている。

 街は生き延びた。規格は“生かすためにある”。

 そして次は、海。

 帝国の“最短”に、“遠回りでも届く”線を引く番だ。


 俺は方舟砲の銃身を撫で、静かに告げる。


「――規格文明は、ここからだ」


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