茉莉、愛している

 エッジと出合ってから1週間が経ったある日、久しぶりにDMダイレクトメールで仕事の依頼が来た。新しくオープンするカフェのロゴで、猫をモチーフに繁栄はんえいをイメージしたロゴを作ってほしいらしい。


 夕食とお風呂を済ませ、緑茶が入ったマグカップと八ツ橋をテーブルに置いてPCパソコンの電源を入れる。


 今日は風の音が鳴り止まない。時折窓が風圧を受けてドキッとする。


 ――八ツ橋を買ったよね。あれ、京都名物なんでしょ? 俺、食べてみたいんだよねー。


 あの時、何気なくカーテンを開けて外の空気を吸おうかと思ったら彼がいた。


 エッジの飄々ひょうひょうとした顔が浮かんできてちょっと可笑おかしくなった。


 今日はエッジと涙を誘うというセミナーに行って感動する話を聞いたけど、私を含めて涙する人は1人もいなかった。


 街は「痛さの我慢大会」「恐怖体験」「山葵わさび一気食い大会」など、色々とイベントを開いているけど今のところ涙を流したという情報は入ってこない。


 私も子どもの時は恐かったり痛かったりした時は泣いていたけど、エッジは「茉莉にはそういう理由で涙を流してほしくないなぁ」と、抹茶の泡を口の周りにつけながら呟いていた。


 ペンタブのペンを持つ手が止まる。


 ――エッジは本気で私の涙を求めているのかな。


 彼があんな性格なので先入観があるのかもしれないけど、極秘行動をしている割にエッジからはなにがなんでも私の涙を頂戴するという本気度がいまいち伝わってこない。今でもエッジが言っている話はウソなんじゃないかと思う時がある。


 ――組織からは絶対に私の涙を手に入れろと言われてるんじゃないのかな? 


 その時、室外機に何かがぶつかったような大きな音がした。びっくりした。心臓が止まるかと思った。


 恐る恐る遮光しゃこうカーテンを開いて、ベランダの窓を開ける――。


 ――えっ?


 悲鳴を抑えるように手で口を隠す。


 ――エ、エッジ!?


 エッジがベランダで仰向けに倒れている。


 「ちょっと、どうしちゃったのよ」


 「うっ……」 


 彼を抱き起そうとすると身体が震え上がった。


 彼のこめかみとわき腹に血痕けっこんが付いているのを見て、目まいを起こしそうになった。エッジ……彼を助けないと。


「えっと、どうしたらいい? どうしたら? 警察? いや違う、えっと……」


 だめ! 頭が混乱して何からしたらいいのか分からない!


「茉莉、聞いてくれ。時間がない」


「えっ?」


 オロオロしている私の顔にエッジが手を添えてきた。この顔……私が知っている陽気で笑顔を絶やさないエッジじゃない。今までにない真剣な顔だ。


「奴らにバレた。朝になって仲間との連絡が途絶えている。情報が漏れたんだ」


 ――バレると命の保証はないんだけどね。


 あの時のエッジの言葉……急に現実感が湧いて身震いがする。


「茉莉、残念だけど、ここでお別れだ」


 ――お別れ!?


「だめよ! あなた重傷じゃない。このままだと――」


「聞くんだ茉莉!」


 エッジが私の両肩を握る。


一刻いっこく猶予ゆうよもない。これから俺が話すことをよく聞くんだ」


 彼の青い瞳に吸い込まれそうになり、私は震えながら小さく頷く。


「調査はここでお終いだ。組織のミッションとはいえ『ティアローズ症候群』の解明のために、結果的に君を巻き込んで恐怖を与えてしまった。許してくれ」


 返事ができない……。エッジが下唇を噛んでいる私の頬に触れる。


「でも、今はちょっとホッとしているんだ。最初はどんな手を使っても君の涙を手に入れるつもりだった」


 ――えっ?


「でも、俺はそれができなかった。……君を愛してしまったから」


 ――エッジ……。


「……笑顔で涙を流す君は、とても美しかっただろうな。……それだけが心残りだ」


 エッジの腰のあたりから通信音が聴こえてきた。白いつなぎを貫通かんつうして赤い光がぼんやり見える。エッジが顔をしかめて舌打ちすると、重傷なのに軽い身のこなしでベランダに飛び乗った。


 エッジの金髪がサラサラと揺れる。彼の背中が、別れを告げているように見えた。


「茉莉……君を選んだのは、他人とは思えなかったからなんだ」


「えっ?」


「俺も子どもの時に両親を事故で失って天涯孤独てんがいこどくだった。だから、同じ境遇きょうぐうの君を見て運命を感じたんだ」


 ――ごめんねエッジ……。


「茉莉、短い間だったけど、君との時間は任務を忘れるぐらい楽しかったよ」


 傷が痛んで苦しいはずなのに、命をおびやかされているのに、彼は振り返ってにんまりと白い歯を見せた。


 ――私、涙が……。


「でも、もう俺のことは忘れてくれ」


 ――今、凄く涙を出したいのよ。


「茉莉、愛している」


 ――涙を出したいの! それなのに!

 

 頬にほんのり温かな感触がすると、その瞬間、エッジの姿が消えた。


 「エッジ!」


 私は手擦りを持って身を乗り出したけど、彼の姿はなかった。


 ――いつもそう、いつだってそう。


 私を愛してくれる人は、いつもそうやって突然いなくなってしまう。こんなにも辛いのに、苦しいのに……。


 ――涙が出ないって……こんなにも辛いことだったんだ。


 

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