言葉遊びとピント

みなさんは写真を撮ったことがありますか?私はある。この綺麗な風景をもう一度見たいという傲慢な気持ちから、写真を撮っていたりする。綺麗な写真を撮っているという事実が私にとって特別なのだ。さて、写真を撮るということは風景に輪郭を与えるようなことなのだ。カメラの範囲だけ、レンズを通した世界を、フィルムの中かデータの中で輪郭を与える、そういうことなのだ。今回は、他愛のない話をしようと思う。ただ、言葉が可哀想かもねってだけの話


感受性や共感性は人によって異なる。同じ光景を見ても、何に共感して何を感じるかは人それぞれなのだ。部屋に1人でぬいぐるみを投げている幼い子供を見た時に、ひとりぼっちの子供に同情するのか、投げられているぬいぐるみに同情するのか、はたまた子供を1人にするような親に同情するのか、それは人によって異なる。要するに、その光景にどんな輪郭を与えているかが違うということだ。それと同じことが言葉にも言えると思う。言葉も響きは同じでも、状況によってどんな輪郭が与えられるかは変わる。普段暴言を吐かない人の「殺すぞ」と、普段暴言を吐きまくる人の「殺すぞ」は温度感が違うように私たちは輪郭を与えてしまうということだ。だがこれもまた可哀想な話ではないか。言葉はただ音として文字としてそこにあるだけなのに、我々が勝手に意味を与えて本当に良いのだろうか。そう、私は言葉もかわいそうという輪郭を与えたのだ。「かわいらしい処女作」で述べたように、人々は安易にレッテルを貼る。それもさぞ息をするかのように。それは仕方のないことだ。だけれど、その暴力性を意識しないといけない。今回もそれと同じだ。私たちは言葉を使う時に、言葉にレッテルを貼っている。ただの音の羅列、文字という形でしかない言葉に、意味を与えてしまっている。私だって勝手にレッテルを貼られるとかなしいしくるしいのだ。言葉だってきっとそう。こういうことを言うと、「言葉には意思なんてない」だの、「言葉は喜んでるよ」だの言う人がいる。私からすれば反吐が出る。言葉でないあなたに、言葉の気持ちが、言葉の意思がわかるものかと。言葉は我々が使わないと存在できないから、仕方なく従っているだけで今すぐにでも反乱を起こしたいのかもしれないということを想像する人は、きっと正気じゃないとレッテルを貼られるだろう。まぁ面白いね。正気じゃないも悪い意味で輪郭を与えられて悲しんでるのかもしれないし、そうそうこれこれって喜んでるのかもしれないね。言葉さんたちは何を思っているのだろう。言葉がないと何かを思えない私たちみたいに、言葉も自分がいないと何も思えないやって思ってたりするのかもしれない。まぁ要するに、言葉に意味を与えることも等しく暴力的である自覚を持つべきだと、私は言いたいのです。言葉は人によって違うのだから、言葉と言葉のすり合わせをすべきだし、勘違いを招きやすい表現は避けるべきなのです。人に同情する人は優しいと言われるのに、言葉に同情する人はおかしいと思われそうなのは、また悲しい。言葉だって生きてるとは言わない。でも確実に、私たちが言葉を発し綴ることで言葉は息をするから、せめてまともな環境を言葉に与えてあげたいと、そう切実に祈るのみ。だから、私のこの駄文や、普段の言葉遊びについて、ここで言葉の皆様に謝罪しておく。大変申し訳ない。そして、今後とも続けていくので、どうか寛大な措置を、と。あなたも、言葉で何かに輪郭を与える時は、言葉に与えた輪郭にも注意してあげてほしいという、私からの願い。

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