監視カメラに死角なんてない
最近は至る所に監視カメラがある。冗談抜きで頭にアルミホイルを巻いておかないと正気を保てないほどに、私たちは監視されている。なのに、私たちはひとりぼっちだと感じる。どうしようもなくこの世界で孤独で、誰も私なんか見向きもしていないと。そんなあなたに朗報。あなたを見ている目はある。だから、寂しくなんてないよ。今回はそんなお話。
少し雑談をしよう。あなたは剃刀をつかいますか?という話である。人によっては髭を剃る物として、人によってはリストカットをするための物として、人によっては何かを切り開くための物として、剃刀を使うと思う。「かわいらしい処女作」で書いたように、物にどんなレッテルを貼るかによってその物の持つ意味というものは大きく変わる。今回話す剃刀は物事を切り拓くための剃刀。所謂哲学的剃刀というやつだ。私の好きなYouTuberの動画に哲学的剃刀をまとめた動画があるので、気になる人は調べてみるといい。今回私が手に取った剃刀はオッカムの剃刀である。難しいことは省くが、必要最小限の仮定で説明しろ、みたいな話だ。そこから転じて、無駄な話をするなという事も言われている。要するにこれまでの文章はこの剃刀をもってしたら切り捨てられる部分というわけだ。蛇足が大好きで、羽まで生やしてしまう私にとっては天敵みたいな剃刀、それがオッカムの剃刀だ。蛇にあれやこれや生やした後に、おもむろに部屋の隅から本当に見せたかった蛇を見せて終わりのような書き方をする私も、今回は本題から話してみようと思う。これを書いていて思ったが、ここまでの文章は本題から書き始めれば必要のない文章だと。
本題である。結論から言うと、あなたは孤独だ。どうしようもなく孤独だ。だが、一方的にあなたを見ている目はある。だけれど、それを見返すことはできない。それをあなたはきっと見たことがないからだ。監視カメラの向こうを見返すことができないように、誰かに見られ続けよう。
ここからは蛇足だ。読みたければ読めばいい。だが私は言葉というものは1では足りず100いや1000と語って初めてその存在に近づけると思っているので、長々しく書こうと思う。本質的には先ほど述べた結論の範疇の外にはいかないつもりなので、同じ話を違う言葉で繰り返すだけの文章を読む暇のある方はぜひ読んで欲しい。
まずは前提から、これを読んでくれているあなたたちの中には、誰かと繋がりたいと思っている人やだれかといつかは理解しあえると思っている人がいるだろう。私に言わせてみればそれは間違いであり、そう思っている限りその試みは徒労に終わる。今回の本題に直接関係はしないので、あくまで他者とは本質的には理解し合えないという前提でこの話が進むことに気をつけて欲しいし、これ以上くどくこの話をしようとはしない。この話題も私にとっては重要な議論の一つだと思っているので、いずれ書くことにはなる。
さて、ここまで読む必要のない文章を読まされて疲れた諸君にさらなる遠回りをお届けしよう。今回書くお話をよく表したことわざがある。「壁に耳あり障子に目あり」だ。秘密や密談は漏れやすいという意味のこの言葉。まさに私の言いたいことについて触れている。壁に耳はあるし、障子に目がある気がする。この感覚こそ、私たちがさらされている目なのである。人間は常に、社会に見られている。人によっては他者に見られているだろう。親に見られている人もいれば、かつての恋人に見られている人や、友人に見られている人もいる。私たちは決して独りにはなれない。それは蛇のせいであり、知恵の実を食べたあの人たちのせいである。私たちは他者を、社会を意識してしまう。それ故に、独りにはならない。電車の中で踊らないように、歩きながらスマホでジャグリングしないように、私たちは行動が正しいか判断するときにどうしても社会や他者の目を気にしてしまう。それ自体が悪いことだと言うつもりない。だが、救いようのない話である。本質的に孤独である人間は一方的に監視されている。何をしようにも社会の目が、他者の目が気になる。酷い話だ。我々が自由意志だと呼んでいるものも、社会や他者の目を前提にしているのだ。あぁなんと惨い。社会の言う「正常」に、他者の言う「普通」に、私たちは縛られている。
自分の話をしよう。少し惨めな男の話だ。その男はかわいいものが好きだった。ふりふりのスカートを履いて、可愛らしい仕草をしながら耳元でイヤリングを光らしているような、そんな人になってみたかった。あえてレッテルを貼るのなら、女性らしくありたかった。だからと言って、心の性が女性であるわけではなかった。あくまで、男としてかわいらしくありたかった。ロングスカートが似合うような人になりたかった。髪も伸ばしてみたかった。艶やかなボブの髪を撫でられたかった。かわいらしい声を出してにゃんと鳴きたかった。その男は恵まれていた。それを受け入れて背中を押してくれるような親のもとに生を受けていた。きっとその男が女性らしくありたいと言えば縦に頷いてくれた。その男が今何をしているか、男らしい声を出して男らしい服を着て男らしいことをしている。これが悲しいことだと言うつもりはない。だけれど、確実に、その男は社会の目に、他者の目に見られていた。この社会は男は男らしく、女は女らしくあることを求めてくる。最近はそういったものに寛容になった顔をしているが、私に言わせてみればより居心地が悪いだけだ。ただかわいくありたいだけなのに、ジャンル分けされる。女性がかわいらしくあろうとすることに何かを言う人はいないのに、男性がかわいらしくあろうとした瞬間に「そういう人」になる。社会の目が形を変えただけだ。こんなことになるぐらいなら全てを差別してくれたほうがマシだ。男でかっこよくあろうとする人も「そういう人」だし、女でかわいくあろうとする人も「そういう人」だ。
人によっては「忘れられない言葉」があるだろう。それがいい言葉か悪い言葉かは置いておいて、そういった言葉が社会や他者の目となっていく。私は秘密をばらされたことがある。私は太っているねといじめられたことがある。私は容姿を馬鹿にされたことがある。かわいいオーバーオールを着ていたら、女々しいねと言われたことがある。だから私が人に秘密を話そうとするたびに社会の目は「いずれそいつだって秘密をばらす」と語りかけてくる。だから何かを食べようとするたびに「そんなことをしていると太っていじめられるぞ」と語りかけてくる。かわいい服を着るたびに「女々しいぞ」と、社会の目は他者の目は語りかけてくる。亡霊からは逃げられないのだ。自分が言われた言葉は、亡霊となって私を追いかけ続ける。悩みを打ち明けたら、考えていることを伝えたら、馬鹿らしいと言われてからは、哲学について考えようとするたびに社会の目が「そんなこと無駄」だと伝えてくれる。これを読んでいるあなたも心当たりがあるのではないか。自らの中で生き続ける亡霊としての言葉が。その亡霊に私たちは見られているのだ。今もあなたの後ろにいる。
ここまで社会の目だの他者の目だの書いてきたが、結局のところこの正体は内在化した社会や他者でしかない。私が社会はそう言うと、他者はそう言うと学習した、感じた、考えた、思い込んだからそう感じるだけである。ただ、そう感じるほどに社会が、他者が私たちにとって強大であるということだ。社会とは、他者とは世界である。自分自身で、自分しかいないはずの世界に、社会や他者の顔をして自分にレッテルを貼ること。そのせいで私たちは身動きが取れなくなる。ただ服に袖を通すだけのことを、これだけ躊躇できる。社会という、他者という監視カメラに死角などないのだ。なぜなら自分自身が、自分を監視しているにすぎないからだ。生まれてしまったが故に、もう後悔しても遅い。一生見られ続けよう。
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