鶏の卵みたいな努力
あなたがもし鶏を知っているのなら、一度は話したことがあるであろう話題がある、それは鶏が先か卵が先かという話題だ。果たして鶏から卵が生まれてくるから鶏が栄えたのか、卵から鶏が生まれることによって栄えたのか、そういった議論だ。ちなみに私は、鶏が先だと思う。目玉焼きは食べたことがないけれど、鶏肉はあるから。たぶん卵は存在してない。少なくとも私の胃の中には。それと似たような問題があると思う。それは、「才能」と「努力」だ。今回は、そのどちらも持ち合わせていなかった悲しい人間の、寂しいお話。
鶏が先か卵が先か議論する人はいても、それがひどく白熱したところは見たことがない。だけれど、才能と努力の話題は議論に事欠かない。SNSでもそう、自己啓発本でもそう、至る所でこの話は出てくる。なぜなら、人間の根源に近い部分を構成する要素だから、枝分かれした根元近くに、この話題はあると言っても過言ではない。この議論では、主に3のタイプがいる。面倒臭いので、勝手に呼称していこうと思う。まず初めに「才能至上主義」だ。この人たちはすべては生まれながらにしての遺伝的要因などを含めた才能が全てを決めると思っている。その中に二つ派閥がある。才能で全てが決められてしまうから努力などしても意味がないないし微々たるものでしかないとする人たちと、才能で決められた分を補うほどに努力をしなさいとする人たちだ。端的に言えば運命論者みたいなものだ。その反対に位置するのが「努力至上主義」だ。この人たちは努力の量が全てを決めると思っている。この中にも二つの派閥がある。才能など微々たるものでしかなく、努力が全てのものを言うと言う人たちと、努力を超えるほどの才能もあるから、より努力しなさいという人たちだ。基本的には、才能か努力かその二つのハイブリッドかといったところだろう。私の主観だが、この世にはハイブリッドと努力至上主義が蔓延っているように思われる。基本的に人は才能と努力の関係をハイブリッドだと思っている。その中の過激な人は努力至上主義に傾倒する。才能至上主義は珍しい。ではなぜ才能至上主義が珍しいのか、私のつまらない考察をお届けしよう。まずは、なぜ才能を否定する人が少ないのか。それは、科学的に遺伝すると証明されているからだ。基本的に現代人は科学を信仰しているので、才能を否定することは自分の信仰を否定することとほぼ同義になってしまうので、才能を否定する人は少ないと思われる。そして、ではなぜ努力を否定する人が少ないのか、そこが問題になってくる。そんなところで一つ私の意見を。私は、努力を否定する人は頭がおかしいと思う。なぜなら、努力を否定するということは自分の無力を肯定することに他ならないからだ。これこそが、努力を否定する人が少ない理由だ。努力というもので才能を覆せないと、あまりにも人間が無力すぎるからだ。生まれを覆せない物語など誰が読む。物好きか気狂いしかそんな物語は読まない。だから人間は信じる、「努力で才能は覆せるかもしれない」と。努力することで、自分は何でも成し得るかもしれないんだと。自分が何も成し得ていないのは、自分の努力が足りないからだと。それが努力を信じるものの思考だ。だから頑張れる。だから前に進める。王道と言われる物語は、主人公が努力して何かを勝ち得る物語が多い。これも、大衆が努力を信仰しているからだと言えるだろう。
では、なぜ人は狂ってしまうのだろう。努力を否定して、才能に走る人に理由はないのか、そう考えるのが普通である。これは三つパターンがあると思う。一つは圧倒的な科学主義者だ。すべてに遺伝の影響、即ち才能が影響してるとする人たちだ。もう一つは、全能感を得たい人の一つの形態に過ぎないという形。人が何かを成し得た理由を探した時に努力じゃなく、自分は才能に恵まれていたんだ。もっと過激に言えば優れた血なんだ!と自らを肯定する時に努力ではなく才能を選んだに過ぎないパターンである。これはよく見るパターンである。謙遜で「自分は才能に恵まれていただけ」と思う人もいるだろう。最後に、自らの努力が認められなかった人の逃げ道としての形だ。人は努力をもってして自らの力を肯定するが、努力を認められなかった人間は自らの力すら認められないことになってしまう。そうしたら人間は無力感に襲われてしまう。それに耐えられるほど強い人間なら別だが、大抵の人間は脆い。そうなったら人間はどうやって無力感から逃げようとするのか。そう、天のせいにして仕舞えばいいのだ。自らは才能に恵まれなかったから努力したのに報われなかっただけだと、努力する才能がなかっただけで自分は頑張ったと。そうやって人は自らの無力感の原因を他に委ねる。そうすれば自らの無力感は自らのせいではなくなるから。そういった人たちを救うのが、いわゆるなろう系である。才能あふれる主人公が全てを薙ぎ倒していく。なんて努力の目立たない物語。無力なんかじゃない、最初から力に溢れていた。そんな物語に私も惹かれてしまう。
私の話をしよう。私は勉学の才能ある人間だった。これは謙遜であり自認でもあった。その反面運動はからっきしだめだった。中学の頃に部活に入り、私は努力をした。当時の私にとっては努力だった。精一杯振る舞った。最初はよかった。父親がそのスポーツで県に行くほどの人物だったので、才能は少しあったらしい。だがどんどん追い越されていった。最初はベンチ一番だったのが、だんだんと下がっていきベンチのベンチになった。後輩が入ってきても抜かされていった。頑張って練習に励んでいるつもりだった。だが私が誰かを抜かしたことはない。私は常に追われる側だった。だから途中で諦めた。私は向いていなかったと、お遊びでやってるに過ぎないと。私はプライドが人よりも高い。人に負けることが耐えられないほどの屈辱だ。だから、勝負を降りることにした。そうしたら勝ちも負けもなくなるからだ。そもそも勝負が存在しなければ負けない。このことに気がつくのに時間はかからなかった。そして、勝てる土俵に逃げた。それは才能ある勉学である。努力をさほどせずとも、人以上だった。学年で二位だったこともある。それでも負けたことは屈辱だったが、まだ耐えられた。そうして受験を迎え、もちろん私は合格した。なぜなら才能ある人間だからだ。県内で五本指に入るほどの学校に合格した私は、入試の結果を見た。なんと!下から数えて約30番目!ここで心にひびが一つ。さてさて才能ある私が努力すればいいのではとお思いのこれを読んでいるあなた、私もそう思いました。でも、私は努力を知らないんですよね。努力の仕方を知らないんです。厳密には、努力の続け方を知らないんです。そんなこんなでどんどん下がっていく成績を前に、心は折れた。学校には通えなくなり、今がある。私は、才能にも努力にも裏切られたのだ。
そんな人間の行き着く先は一つ。逃げることだ。勝負になる前に逃げて仕舞えば、負けることはなくなる。そうやって人生の勝負が始まる前にこの世から逃げようとしている私がいうのだから説得力があるというものだろう。才能もない、努力もできない、そんな私に何が成せる。いや何も成せない。だからこうやって何かを書いて、爪痕を残そうともがくことしかできない。どうせこの文字書きだって、挫折してしまうのだから。とめどない敗北を学習した人間は、やがて立ち上がることすらやめてしまう。無力感を学習するからだ。自らの人生をよくできる感覚がない人間が、明日を望むわけがない。だから私の人生は断章でしかない。つぎはぎの切り取り。鶏が先でも卵が先でもどうでもいい。そんな人生。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます