第5話 灰色の空を見上げる時
夢喰いが住む鏡界にヒナと澪が入る。
その世界は主の精神状態を表すため、健康な人だと晴れた空とそれを反射する水が水平線まで続いているが、夢喰いに浸食された鏡界は鈍い灰色をした空、それを映す水になっている。
現実世界と同じような肌を刺すような冷たい空気がヒナと澪の間を流れる。
「さあ、まずはあいつを探すことから始めないとね…。澪はさ、夢喰いと戦った事あるの?」
鏡界に来た時から一言も発しない澪に対して少し、不安と心配にかられたヒナは少し安心させようと笑ってみせた。
「…模擬戦を実家に居たときに少しだけ。基本的にはそのあとの浄化の力を強めるように言われていたから…。」
申し訳なさそうにしながら澪は答えた。
基本的な戦闘はできるが、実家にいたころは兄と妹が戦闘し、澪が浄化して、の流れしか行っていなかった。
ヒナは眉をひそめた。
「つまり、本格的に前に出て戦うのは……今日が初めてってわけ?」
「……はい。」
澪の声はか細く、灰色の水面に吸い込まれていきそうだった。
ヒナはため息をつき、腰の刀を軽く叩く。
「ま、いいじゃん。あたしが斬って、澪が仕留める。それで十分でしょ?」
軽い口ぶりではあったが、その横顔には真剣さがあった。鏡界の空気は重く、じっとしているだけでも不安をかき立てる。ヒナなりに澪を落ち着かせようとしているのだと、澪は気づいた。
(……兄や妹の後ろで浄化していただけの私が、本当に役に立てるのだろうか)
胸の奥に影のような不安が広がる。けれど、ヒナの言葉にほんの少し、背中を押された気がした。
二人は互いに呼吸を合わせるように一歩を踏み出す。
灰色の空を映した水面が、ゆらりと波紋を広げた――。
・
・
・
「あんまり力が大きくないやつだと思うんだよね。あんまり大きいとすぐに見つかるはずだからさ。」
灰色の空の下、二人の足音だけが鏡世界に響く。
二人の前に波一つないはずの水面が不意に「ぽちゃん」と波紋を広げた。
「…!」
澪は驚き一瞬、動きが止まる。
「バカ…!来るよ!」
ヒナが腰の刀に手を添える。
次の瞬間、静かな水面がぐらりと歪み、黒い染みが滲み出すように広がった。
染みは大型犬の影のように形を変え、やがて濃霧をまとった異形となる。
二つの光る眼がふたりを見据えた。
「…夢喰い」
澪の手が震え、握る槍の柄に汗がにじむ。
ヒナはちらと彼女を見やり、いつもの軽口とは違う低い声で言った。
「大丈夫。あんたは一人じゃない。――行くよ!」
ヒナが水面を駆け、夢喰いの正面へ斬り込む。
澪も深く息を吸い込み、槍を構えた。
不安はまだ胸を締めつける。けれど、その奥に燃えるものがあった。
(私だって――戦える!)
「来るよ!」
その一言で目の前の事に引き戻される。
ヒナが声を張り、炎を纏わせた短刀を握る。
澪は喉の奥が乾くのを感じながら、槍を構えた。水の流れを纏わせた刃先が、鏡面のような地面に淡い光を映す。
影は奇声をあげながら飛びかかってきた。
ヒナが素早く横へ跳び、刃で受け流す。その隙を狙って澪が前に踏み込む。
「──っ!」
水を裂くように、槍が一直線に突き出される。刃先は夢喰いの胸を穿ち、黒い靄がしぶきを上げて散った。
だが、影は崩れ落ちず、さらに醜悪な形へ歪む。
「しぶといなっ…!」ヒナが叫び、炎を打ち込んで押し返す。
澪は恐怖と焦燥で胸が詰まりそうだった。だが、夢喰いの裂けた口の奥に見えたのは、確かに怯えに飲まれそうな人の心の残滓。
──ここで怯んだら、誰も救えない。
「澪、今だよ…!浄化して…!」
「…穢れよ、清水の元に還れ!」
槍先から淡い蒼光が広がり、黒い影を包み込む。
濁った水に透明な滴が落ちたかのように、澱みが少しずつ薄れていき、やがて夢喰いの姿は光の粒となって消えた。
「……倒せた、の?」
肩で息をしながら不安げに問うと、ヒナがにやりと笑った。
「やるじゃん、澪! 初めてにしては上出来でしょ。…でもちょっと強すぎじゃない?」
「……?私は教わった呪文を唱えただけですよ…?」
澪は戸惑いながら答える。
「ははっ、まあね。でも新人二人で夢喰いを倒せたのは事実だよ? それに、今回は小型だったし」
ヒナは笑ってごまかしたが、目だけは鋭さを残している。
小型とはいえ、油断すれば命を持っていかれる相手。それを理解しているからこそ、軽口の裏に緊張感があった。
「……次はもっと、ちゃんと戦えるようにします」
澪の真剣な言葉に、ヒナは一瞬だけ目を丸くして、それから頷いた。
「うん。そうやって強くなってけばいいんだって。……さ、帰ろっか。報告しなきゃ」
二人の足音だけが、鈍色の鏡界に響く。
先ほどまで暴れていた夢喰いの気配はもうなく、空が徐々に晴れ、冷たい空気の中に静けさだけが広がっていた。
・
・
・
「…あ、かえってきたじゃ~ん。…れいさ~ん。ひよっこ二人帰ってきたよ~」
鏡界からかえってくると一番に出迎えたのは浅見だった。浅見は二人を見て玲を呼んだ。
「なんで、最初にお帰りじゃないわけ~冷たいなぁ、なつねぇ…。」
ヒナががっかりしたように唇を尖らせた。
「ヒナちゃ~ん!澪ちゃ~ん!お帰りなさい~!」
エプロン姿の玲が奥から走ってきて、二人をぎゅっと抱きしめた。
「本当に無事でよかった…!」
「任務で行ってるからよっぽど大丈夫でしょ」
浅見はポツリとつぶやくが、すぐそばにいた篠原に軽く肩をはたかれていた。
「おぉ!思ったより早く終わったのか!よかったよかった。」
廊下の先から現れたのは神谷だった。ダンベルを片手に軽く肩を回しながら、いつもの調子で声をかける。
「あとで報告に隊長室へ来い」
それだけ告げると、再びトレーニングに戻っていった。
「ふたりの帰還を願っておいしいごはん作ったのよ。報告は食べてからでも問題はないから先にご飯食べに行きましょうか。」
案内されて広間に入ると、湯気の立つ味噌汁と、炊きたての白いごはんの香りがふわりと広がった。油のはねる音、箸の触れ合う音――冷たい鏡界の空気とはまるで別世界の、あたたかな現実がそこにあった。
(……私が、こんな場所にいていいんだろうか)
胸の奥で、澪はふとそう思った。けれど、玲の笑顔と、隣で「腹減った~!」と声を上げるヒナの姿に、不安は少しずつ和らいでいくのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます