『ブラックフライデーの片隅で』
十一月の第四金曜日。ブラックフライデー。
アメリカ発祥のその商戦は、いつの間にか日本の物流倉庫にも容赦なく牙を剥くようになった。
棚番を間違えて三往復。
人気商品の日用品が棚ごと空になって、現場が騒然。
商品を載せるカートは渋滞し、アイテムの載ったピッキングリストは赤字だらけで、間違い防止のスキャナーは警告音を反響し続けている。
「芹沢くん! 違う棚!」
「これ昨日の注文分! 急いで!」
声が飛んでくる。自分に向けられているのか、誰かに向けられているのか、もうわからない。
右腕の感覚はとっくに消えていた。足は棒になっている。何をすべきか頭では理解しているのに、身体がついてこない。さっきからもうずっと、喉が渇いていた。でも飲み物を買いに行く時間なんてない。ただバーコードを追う。追い続ける。スキャンして、取って、カートに入れて、また走る。
開けていたいのに閉じかけた視界の端に、ふと人影が映った。
動き方でわかる。
彼女も走っていた。汗を拭う暇もなく、黙々と棚と棚の間を駆け抜けていく。
目が合った——気がした。一瞬だけ。
でも足は止められなかった。止まったらもう、走れなくなる気がした。
その夜、芹沢はどうやって帰宅したのか覚えていない。気づいたら部屋にいて、シャワーも浴びず、制服のまま床に倒れ込んでいた。
目を閉じても、スキャナーの電子音が、耳の奥で鳴り続けていた。
地獄のブラックフライデーの翌日、物流倉庫は死んだ目の人間で満ちていた。
警告音が鳴り続け、カートは渋滞。ダンボールの山は墓標のように積み上がっている。
三つ目のエラーを叩き出した芹沢は、スキャナーを握ったまま固まった。
棚違い。バーコード違い。数量違い。
やらかせることは全部やった。昨日からろくに眠れていない。手が震えて、視界がぼやける。もう何をどうすればいいのかもわからない。
限界かも、しれない。
「おい」
腕を掴まれた。振り返ると、日向が立っていた。
「芹沢、顔色やばいぞ。来い」
返事を待たず、日向は芹沢の腕を引っ張った。
休憩室に連れ込まれ、ペットボトルの水を押しつけられた。
「飲め」
言い方は乱暴なのに、渡し方は妙に丁寧だ。芹沢は黙って水を受け取り、一口だけ飲む。
「……すみません」
「謝んな。で、何」
日向はパイプ椅子に足を組んで座り、芹沢を見上げた。
「俺、向いてないかもしれないです」
言葉が勝手に出た。情けない。でも、止められなかった。
「昨日も今日もミスばっかりで、周りに迷惑かけて。このまま続けても、それって何のため? 意味ないっていうか……」
日向は鼻で笑った。
「はあ?」
「いや、だから——」
「昨日の地獄、乗り切っただろ」
芹沢は口を閉じた。
「で、今日、ここに来てる。それで十分だろうが」
日向の声は呆れたようで、でもどこか柔らかいものだった。
芹沢の目の奥が熱くなる。こらえようとしたけど、無理だった。涙がぽろぽろ落ちた。
「……っ」
「泣くな、気持ち悪い」
そう言いながら、日向はポケットからティッシュを出して芹沢に投げた。
「初めてのブラックフライデーは、私だって平気じゃなかった。でも続けてるうちに慣れてくるもんなんだよ、この仕事が好きならそれでいいんだ」
そう言って、日向は芹沢のスキャナーを手に取る。
「ほら、私が教えてやる」
「え」
「やめるのは、今日が終わってからにしな」
倉庫に戻ると、日向は芹沢の隣でピッキングを始めた。
「棚番見て、バーコード確認して、数量チェック。この順番。絶対崩すな」
「はい」
「返事はでかいな。いいぞ」
手を動かしながら、日向は的確に指示を出した。芹沢は必死でついていった。
気づけば、二人の動きは揃っていた。カートが満杯になるスピードが、明らかに違う。周囲のスタッフが振り返るほどだった。
「お前、ちゃんとやれば早いじゃん」
「日向さんが上手く教えてくれたから」
「芹沢のくせに誰のこと褒めてんだ、あんま調子乗んな」
でも、日向の口元は少しだけ緩んでいた。
シフト終了の三十分前。
二人は黙々と最後のカートを押していた。倉庫の喧騒は少しだけ落ち着いて、遠くでフォークリフトの音が響いている。
日向がぼそっと言った。
「……お前がいなくなるの、私は困るけどな」
芹沢の足が止まった。
「え」
振り返ると、日向は顔を背けていた。耳が赤い。
「な、なんですかそれ」
「うっせえ!」
日向はスキャナーをカートにぶん投げた。がしゃん、と派手な音がした。
「さっさと歩け! ブラックフライデーはまだ終わってねえんだよ!」
「あ、はい!」
芹沢は慌ててカートを押し始めた。
心臓がうるさい。さっきの言葉が頭の中でぐるぐる回っている。
——私は困るけどな。
前を歩く日向の背中を見ながら、芹沢は思った。
もう少しだけ、ここで頑張ってみようか。
この人の隣で。
倉庫の窓から、夜明けの光が差し込み始めていた。
ブラックフライデーの狂騒は、まだ続いている。
でも芹沢の足取りは、昨日より少しだけ、軽かった。
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