『河童橋くんは、今日もキュウリを食べたくない。』


 雨の朝は、河童橋始かっぱばし はじめの機嫌がいい。


 いつもは無表情なのに、雨の日だけは少しだけ、表情が柔らかくなる。

 その理由はよくわからないけれど、彼が雨好きなのは確かだった。


「おはよ、河童橋くん」


「……おはよ」


 瀬戸みくの挨拶に、いつも通り始は小さく頷く。そして開いてもいない傘を、傘立てにかけた。

 雨粒が指に触れた瞬間、彼の肩の力がふっと抜ける。それをみくは見逃さなかった。


「雨の日の河童橋くん、なんか落ち着いてるよね」


「……そう?」


「うん。いつもより話しかけやすい」


 始は少しだけ眉を寄せる。否定したいけど、できない——そんな顔だ。


 河童橋始は、整った顔をしている。サラサラした黒髪、白い肌、長いまつげ。

 女の子みたいに綺麗だけど、どこか近寄りがたい雰囲気がある。


 みくは、その雰囲気が嫌いじゃなかった。

 冷たいというより、静か。でも、ちゃんとそこにいる。


「はい、これ」


 みくはカバンから、朝剥いてきた柿を入れたジップロックを差し出す。


「……柿? なんで持ってるの」


「河童橋くん、柿好きでしょ?」


「……別に」


「この前、給食で柿が出たとき嬉しそうだったから」


 始の耳が少し赤くなる。


「……嬉しそう、だった?」


「うん。目が輝いてた」


「……そんなことない」


 そう言いながらも、始はジップロックを受け取った。

 雨に濡れた指先が、わずかに震えていた。



   *



 教室の窓際は、始の定位置だ。

 窓を少しだけ開けて、外の湿気た空気を吸っている。雨の日は特に、喜びが顕著だった。


「窓開けんなよ。河童橋ってさ、雨好きなの?」


 クラスメイトの男子が話しかける。始は少し考えてから答えた。


「……嫌いじゃないよ」


「傘も差してないよな。濡れても平気なの?」


「……うん」


 会話はそれ以上続かない。男子は「変わってんな」とだけ言って去っていった。


 みくは、その様子を自分の席から見ていた。

 始は人と話すのが苦手というわけじゃない。ただ、言葉が少ないから、会話が続きにくいだけだ。


「河童橋くん」


 みくは立ち上がり、始の隣へ行く。


「今日の給食、キュウリの酢の物出るってさ」


「……知ってる」


 始の表情が、ほんの少し曇った。


「嫌いなの?」


「……味が、苦手」


 みくは少し意外そうな顔をした。


「河童なのに?」


「……河童じゃない」


「じゃあ私がもらうね。代わりに柿あげる」


「……また、柿?」


「河童橋くん、柿好きでしょ」


 始は何も返さない。

 でも否定もしない。みくはそれを肯定と受け取った。


 給食の時間。

 始のトレイからキュウリの酢の物がみくのトレイへ移動し、みくのデザートの柿が、始のトレイに静かに置かれる。


「ありがとう」


 始が小さく言う。みくは少し驚いた。


「え、今なんて?」


「……別に」


「ありがとうって言ったよね?」


 始は顔を背ける。耳が赤い。


「……言ってない」


「言ったよ」


「……」


 始は黙って柿を口に運ぶ。

 その横顔を、みくは眺めた。


「河童橋くんって、体弱いの?」


「……え?」


「なんか、雨の日以外は疲れて見えるもん」


 始は柿を飲み込んでから、じっとみくを見つめる。


「……別に、普通」


「そう? でも顔色悪い日多いよ」


「……気にしなくていい」


「気になるよ。だから柿持ってくるんだし」


 始は少し困ったような顔をする。

 でもその顔は、嫌がっているようには見えなかった。



   *



 五時間目、家庭科。今日のテーマは洗濯。


 教科書を開くと、洗濯バサミの写真がページいっぱいに並んでいた。


 その瞬間、始の手がピタリと止まる。

 教科書を凝視したまま、固まってしまう。


「河童橋くん?」


「……なんでもない」


 声がかすれている。みくは首をかしげた。


「洗濯バサミ、嫌いなの?」


「……嫌いじゃない」


「でも、すごい嫌そうな顔してるよ」


「……してない」


 みくは教科書と始の顔を見比べた。

 始の指先が、かすかに震えている。


「なんかあったの? 洗濯バサミで」


「……昔、挟まれた」


「え?」


「……指を。痛かった」


 みくは少し驚いた。始がこんなに素直に答えるなんて珍しい。


「それ、トラウマになってるんだ」


「……トラウマじゃない。ただ、思い出すだけ」


「思い出して、嫌な気持ちになるんでしょ? それトラウマだよ」


 始は自分の手を見下ろし、そっと握りしめた。


「……そう?」


「無理しなくていいよ。私が洗濯バサミ使うから」


 始は意外そうに顔を上げた。


「……いいの?」


「うん。別に私、洗濯バサミ嫌いじゃないし」


 始は少し考えてから、小さく頷いた。


「……ありがとう」


 また「ありがとう」が聞けて、みくは少し嬉しくなった。



   *



 その日の放課後、手洗い場でのことだ。

 みくがたまたま通りかかると、始が一人で手を洗っていた。


 声をかけようとして、みくの足が止まる。


 始が、喋っていたのだ。


「……水、冷たいな。でも気持ちいい。この温度が一番落ち着く」


 独り言にしては、はっきりした声。

 まるで水に話しかけているみたいだった。


「河童橋くん」


 みくが声をかけると、始はビクッと肩を震わせて振り返った。慌てて蛇口を止める。


「……なに」


「今、水と喋ってた?」


「……喋ってない」


「喋ってたよ。『冷たい』って」


 始は困ったように眉を寄せる。


「……独り言」


「水が好きなの?」


「……嫌いじゃない」


「触ってると落ち着く?」


 始は少し考えてから、小さく頷いた。


「……うん」


 素直に答えてくれたことが嬉しくて、みくは笑った。


「やっぱり河童だ」


「……河童じゃない」


「じゃあ、水が好きな人」


「……それなら、いい」


 始の耳が少し赤くなっている。

 みくは、その赤さが可愛いと思った。



   *



 木曜の放課後。

 始は窓際の席に座り、教室の隅を眺めていた。


 そこには、クラスの男子と楽しそうに話す、みくの姿。


 みくはよく笑っていた。男子も笑う。

 始は視線を窓の外に逃がす。空は曇り。雨は降っていない。


 胸のあたりが、ざらざらした。


 始は自分の胸に手を当てる。

 心臓の音が、いつもより早い。


 なんだろう、この感じ。

 息苦しいような、喉が詰まるような。


 みくが笑う声が聞こえる。

 男子が何か言って、みくがまた笑った。


 始は無意識に、拳を握りしめていた。


 嫌だ。


 何が嫌なのか、うまく言葉にできない。

 でも確かに、嫌だった。


 みくが他の誰かと笑うのが——。


「河童橋くん」


 みくが戻ってくる。


「……なに」


「なんか怒ってる?」


 始は無意識に、眉間に触れた。


「……怒ってない」


「でも、すごい不機嫌そうだったよ」


 始は何も言えない。

 自分でもよくわからないのだ。この感情が。


「もしかして、嫉妬した?」


 始の目が大きく見開かれる。


 嫉妬。


 その言葉を聞いた瞬間、胸の中のざらざらした感じの正体がわかった気がした。


「……は? してない」


「さっきから、こっち見てたよ」


「……見てない」


「見てた」


 始は何も言えなくなる。

 確かに、見ていた。


 みくは少し首を傾げる。


「私が他の人と話してたから?」


「……」


「嫌だった?」


 始は答えられない。

 でも、沈黙が答えになってしまう。


 みくは少し笑った。


「かわいい」


「……かわいくない」


「怒った顔もかわいいよ」


 始は完全に黙り込む。

 顔が真っ赤だ。


 みくは、その反応が愛おしくなる。


「河童橋くん、素直じゃないよね」


「……うるさい」


「でも、そういうとこ嫌いじゃないよ」


 始は何も言わない。

 でも、耳まで真っ赤になっていた。


 みくが他の誰かと笑うのが嫌だ。

 それが嫉妬なら、始はきっと嫉妬している。


 自分の気持ちが、少しずつわかり始めていた。



   *



 土曜日。雨。


 みくは駅前で始を待っていた。

 始は傘を差さずに歩いてくる。髪も服も濡れているのに、どこか嬉しそうな顔。


「河童橋くん、傘は?」


「……いらない」


「風邪ひくよ」


「……平気」


 始は、雨を纏ったまま隣に並ぶ。

 本当に嬉しそうだった。


 二人で歩き出す。

 みくは傘を差しているけれど、始は雨に濡れたまま。


「……瀬戸」


「うん」


「一緒に歩いて、いい?」


「もちろん」


 みくは傘を傾ける。始は首を横に振った。


「……俺、濡れてるから。傘、汚れる」


「別にいいよ」


「……でも」


 みくの髪に、雨粒が一つ落ちる。

 始はそれを見て、少し眉を寄せた。


 濡れている。

 自分のせいで、みくが濡れている。


 胸がざわざわする。

 嫌な感じだ。でも、木曜日に感じた嫌な感じとは違う。


 これは——心配、だろうか。


「瀬戸、風邪ひく」


「大丈夫だよ」


「……大丈夫じゃない」


 始は立ち止まる。

 みくも立ち止まった。


「河童橋くん?」


 始は少し考えてから、みくの傘を取る。

 そしてみくの頭の上に、ちゃんと差し直した。


「……俺は平気だから。瀬戸は、濡れないで」


 みくは少し驚いた顔をする。


「でも、河童橋くんが濡れちゃうよ」


「……俺は、雨が好きだから」


「それでも」


 みくは少し考えてから、傘を閉じた。

 二人に、空から雨が降り注ぐ。


「風邪ひくよ」


「いいの。河童橋くんと一緒に濡れたいから」


 始は何も言えなくなる。


 みくが濡れるのが嫌だった。

 でも、みくは自分で選んで、濡れることにした。


 一緒に、濡れることを。


 胸の奥が、温かくなるのを感じた。


「……瀬戸」


「うん」


「俺」


 始は立ち止まり、真正面からみくを見る。


「……君が、俺のことを変だと思わないのが、不思議」


 みくは目を丸くして、すぐに笑った。


「変だと思ってるよ」


「……え」


「でも、嫌いじゃない。むしろ好き」


 始は何も言えなくなる。

 妙にドキドキした。


「河童橋くん」


「……なに」


「私ね、河童橋くんの全部を理解したいとか、そういうのじゃないんだ」


「……」


「ただ、一緒にいたいだけ」


 始は何も言わない。

 でも、みくの手を、そっと握った。


 ひんやりしている。

 でも、握り返す温度は温かかった。


 雨は降り続けている。

 二人の髪は濡れていく。


 寒くはなかった。



   *



 帰り道。

 二人でゆっくり歩く。雨は少し弱くなっていた。


「河童橋くん」


「……なに」


「名前で呼んでもいい?」


 始は少し驚いた顔をしてから、小さく頷く。


「……いいよ」


「始くん」


「……なに」


「呼びやすいね」


 始は何も言わない。

 でも、嬉しそうだった。


「始くんはさ、私のことなんて呼ぶの?」


「……瀬戸」


「名前で呼んでほしいな」


「……みく?」


「うん」


 嬉しさが、胸の奥で弾けた。


「ねえ、始くん」


「……」


「柿、好き?」


「……好き」


「知ってる」


 始は少し考える。

 何か言いたそうだ。でも、言葉が出てこない。


「……あと」


「うん?」


「……みくと、一緒にいると」


 始の声が震える。


「……なんか、落ち着く」


 みくは一瞬、息を止めた。

 それから、ゆっくりと笑顔になる。


「……それって」


「……雨の日みたいに、落ち着く」


 始は顔を背ける。耳まで真っ赤だ。


「……だから、その」


「うん」


「……これからも、一緒に」


 言葉が途切れる。

 みくは、その続きを待たなかった。


「うん。ずっと一緒にいよう」


 始は小さく頷いた。

 みくの手を、もう一度握り直す。


 雨は降り続けている。

 でも、彼の隣でだけ、雨は優しい。


 彼の冷たさと彼女の温かさが、ちょうどいい温度で混ざり合っていく。

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2025年12月15日 19:00
2025年12月22日 19:00

『恋のかたちの短編集』 今砂まどみ @tanak_a_g9

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