『子猫の秘密』


 放課後の教室は、時が止まったように静まり返る。

 窓いっぱいに広がる西日。黄金色の帯を床に長く落とし、机や椅子を青春のシルエットに変えている。

 遠くの校庭から響く、運動部の声。

 誰もいない教室に、長い髪の少女が立ち尽くしていた。


 高嶺紗月たかみね さつきは、窓を背にして、机上に広がる帯を見つめている。

 カバンに教科書をしまい終え、そっと底のほうに手を伸ばす。


 指先に触れたのは、小さな子猫のぬいぐるみ。


 「ミルク」と名付けた、淡いクリーム色の宝物。

 手のひらにすっぽり収まる、彼女だけの大切な秘密。


(どうか、誰にも見つかりませんように……)


 誰にも見えないよう、胸元でミルクをそっと抱きしめる。

 ふわふわした柔らかな感触が、張り詰めた心をそっと解いていく。


「私にはミルクがいる。だから……きっと大丈夫」


 誰にも聞かれない囁き。

 ミルクだけが、彼女の秘めた孤独と、胸の奥の想いを知っている。



   *



 夕暮れ時、たちばな家のリビングは活気と温もりに満ちていた。


「今日は金曜日! カレーの日よ!」

 母親の弾んだ声に、食卓が一層賑やかになる。ちなみにその定番セリフを聞くたびに、海軍じゃあるまいしと悠真は軽く反発心を抱く。


 煮込まれたカレーのスパイス。芳醇な香りが部屋中に広がり、食欲をそそる。

 家族の明るい笑い声が、いつも通り温かい食卓を囲んでいた。


「兄ちゃん明日のサッカー来てよ! ゴールするから!」

 弟の悠斗が、無邪気にご飯粒を飛ばしながら話しかける。


「んー、早く帰れたらな」

 悠真ゆうまは、どこか上の空で答える。


 キッチンから母親が目を細めて、彼を茶化すように口を開いた。


「あら、土曜の放課後は、また誰かさんとイチャイチャするんでしょ〜? お兄ちゃんはモテるからね〜」


「な、何言ってんだよ、母さん!」

 悠真の顔が真っ赤に染まる。

 悠斗は、その反応を見てニヤニヤと笑った。


「モテるからなー、うちの兄ちゃんは。羨ましいぜ」


「最悪……」


 口ではそう言いながらも、悠真の心には熱が燻っていた。


 浮かぶのは、教室の窓際で、いつも静かに窓の外を見つめている高嶺紗月の顔。


 口数の少ない彼女の横顔を思い浮かべるだけで、胸の奥がグッと締め付けられる。


(……早く、明日にならないかな。高嶺に会いたい)


 明日の土曜授業が、彼にとっては一番待ち遠しいものだった。



   *



 翌朝の高嶺家。


 静かに差し込む朝日は、ダイニングテーブルの上にフルーツティーの香りを運んでいた。

 紗月は香りを静かに楽しみながら、カップを両手で温める。


「行ってきます」

 五年前に新しくできたばかりの義父が、いつものように穏やかに挨拶する。


 紗月は今朝も、顔を上げることができない。


 視線を逸らしたまま、小さな声で「……はい」とだけ返す。

 その返事が、自分でもそっけないと感じる。


「お姉ちゃん見てー!」

 四年前生まれた弟のしゅうが、パンに塗りすぎて、顔中をジャムだらけにしてはしゃいでいる。


「……そ」


 またしても、そっけない返事。

 母が静かに、そして少し寂しそうにため息をついた。


「もう少し優しくしてあげなさい、紗月」


「……してるし」


 そう言いながら、紗月は無意識に、琇の服についたジャムをそっとナプキンで拭ってやる。


「本当に不器用なんだから」


 母の言葉に、紗月の耳がほんのり赤くなる。

 優しさを、自分ではうまく態度に変えられない。本当は彼女自身が一番、そのことをよく知っていた。



   *



 土曜日の朝。

 教室は、少ない授業の開放感からか、クラスメイトたちのざわめきと笑顔に包まれていた。


 けれどその輪に加われない紗月は、いつものように窓際の席で、そっとカバンの奥へ手を伸ばす。

 手のひらに触れる、愛おしい子猫のぬいぐるみ──「ミルク」。

 この小さな秘密に触れるだけで、張り詰めた胸の奥がじわりと温かくなるのを感じる。


「お、何それ」


 突然、隣の席の男子が、面白半分に顔を寄せてきた。


「ぬいぐるみ? へぇ、高嶺ってこういうの持ち歩くんだ? 意外と子供っぽいんだな」


 そう言って、男子は紗月の手からミルクをひょいと取り上げる。


「や、返して……!」


 紗月の声は震え、瞳に涙がにじむ。

 自分の居場所を奪われたような感覚。


 男子はクラスの視線を集めながら、ニヤニヤ笑いを浮かべた。


「リアクションかわいいじゃん。もしかして、好きなやつからのプレゼント?」


 その瞬間、クラスの視線が紗月に集まる。

 顔を真っ赤にして、俯く紗月。


 静寂が、教室の空気を重くした。


「……なあ」


 その静まりかけた教室の入り口から、芯の通った涼やかな声が響く。

 橘悠真だった。


「何してんの、それ」


 悠真は迷わず、まっすぐ紗月の席へと歩み寄る。

 その足取りは、まるで姫を守る騎士のように迷いがなかった。


 驚く男子の手から、素早くミルクを取り返す。

 一連の動作は、スマートで淀みがなかった。


 そして悠真はその瞬間、クラスの他に見えないよう、そっと人差し指を口元に立てて紗月に見せた。


 ──「秘密」のサイン。


(黙ってて、大丈夫だよ。君の秘密は、俺が守るから)


 その想いを隠し、悠真は男子に低い、けれど強い意志を感じさせる声で言う。


「ガキみてぇなことしてんじゃねぇよ」


 普段穏やかな悠真の、珍しく強い口調に、男子は気圧されるように後ずさり。

 教室のざわめきは完全に消え去った。


 そして、悠真はミルクを、紗月の机の上にそっと戻した。


 紗月は、胸にミルクを抱きしめながら、涙の滲んだ瞳を上げて悠真を見つめた。

 彼は、ほんの少し照れくさそうに柔らかく笑う。そして、それ以上何も言わずに、自分の席に戻っていく。


 窓から差し込む土曜の朝日。

 照らされたその背中は、他の誰よりも眩しく特別な存在に見えた。

 紗月の心臓が、ドキドキと脈打っていた。



   *



 放課後。


 悠真は、春の名残がわずかに残る校舎裏の桜並木へと、紗月をそっと誘った。


 散り終えた花びらの代わりに、静かで柔らかな光が満ちる場所。


「……あのさ」


 悠真は、少し緊張した面持ちで口を開いた。

 彼の瞳はまっすぐ、紗月を見つめている。


「高嶺、覚えてる? 入学したばかりの頃」


 悠真の声が、春の風に溶けていく。

 紗月の記憶が、あの日の桜並木へと遡る。


 ──覚えている。忘れるはずがない。


 孤独で、誰にも話しかけてもらえなかった、入学当初。

 この、桜並木の下で。

 一人きりで、俵万智の短歌集のページをめくっていた彼女に──


『俵万智? 好きなの?』


 後ろから、声をかけてくれた。

 明るくて、人気者で、自分とは違う世界にいると思っていた、橘悠真。


 紗月は、驚きと恥ずかしさで顔を真っ赤にして、何も言えずに逃げ出してしまった。

 自分の不器用さが、あのときも邪魔をした。


 でも──「あの橘くんみたいな人が、私のことにも気づいてくれるんだ」


 その驚きと喜びが、胸の奥で小さな熱を灯した。



   *



「カバンの中の子猫のぬいぐるみ……あれ、俺があげたやつだよね?」


 悠真の視線に、紗月は顔を赤くして、小さく頷いた。


 あれは去年の、修学旅行でのこと。

 クレーンゲームで取ったミルクを、一人でいた紗月に、悠真はさりげなく「秘密な」と囁いて、口元に指を当て渡してくれた。

 あの日から小さなぬいぐるみが、ずっと紗月の心を支えていたのだ。

 孤独な日々の中で、唯一の温もりだった。


「俺、自惚れてもいいのかな?」


 悠真が、そっと一歩、紗月に近づく。

 春の残り香のような、微かな緊張感が二人の間に漂う。

 紗月の心臓が、さらに激しく鳴った。


 風が、二人の髪を優しく撫でていく。

 桜の木の枝が、まるで二人を祝福するように、サワサワと音を立てている。


「高嶺が、ずっと子猫を大切にしてくれてたの……知ってた」


 悠真の声が震える。


「つらそうなとき、カバンの中に手を入れて……子猫に触れると、少しだけ笑顔になる高嶺を、知ってた。ずっと、見てたから」


 紗月の瞳から、涙が一筋、こぼれ落ちた。


「…………、いの」


 紗月の唇から、か細い声が漏れる。


「え?」


「わ、わたし、こういうとき、どうしたらいいか……全然、分からないの」


 涙目で言葉を詰まらせる紗月。

 感情が溢れて、うまく言葉が出せない。

 伝えたい想いが、喉の奥で絡まって、言葉にならない。


 悠真はそっと、紗月の頬を伝う涙を、指先で拭ってやる。

 その優しい仕草に、紗月の心臓はしめつけられた。


「……言葉にしなくていいよ。たぶん……俺、分かってるから」


 悠真は、もう一歩近づく。

 二人の距離が、もう手を伸ばせば触れ合うほどに縮まった。

 夕日が、二人の横顔を淡いオレンジ色に染めていく。


「俺とさ……付き合ってくれないかな」


 悠真の言葉は、飾らない、まっすぐな告白だった。


「高嶺の、誰にも言えない秘密を、俺とは分かち合ってほしい」


 返事、待ってるから。


 そう言って、二人は一緒に帰った。



   *



 その夜。

 自室のベッドの上で、紗月は嬉しさのあまり、ミルクを抱いてジタバタと転がった。

 全身の血が、告白の喜びで沸騰しているようだった。


「ありがとう、ミルク……」


 そっと人差し指をミルクの口元に当てて、悠真がしてくれた「秘密」のポーズを再現する。


 気恥ずかしくて、ジタバタと両足をばたつかせる。


 ぎゅっとミルクを抱きしめると、胸の中で何度も「好き」「大好き」という言葉が、弾けるように響いた。


「……この次は、もっと、橘くんに話しかけてみたいな」


 窓の外、丸い月が、二人の始まったばかりの新しい秘密を、優しく、そしてロマンチックに照らしていた。



   *



 同じく、橘悠真は月を見上げていた。


 一年生の桜並木、ベンチに腰掛けて長い髪を揺らしていた高嶺紗月。

 ひらひらと舞い散る花びらが、雪のように幻想的だった。


「何を読んでいるんだろう?」そっと後ろから覗き込んで、思いもよらない渋いセンスに驚き、思わず話しかけた。


 振り返るなり、顔を真っ赤にして走って逃げた、高嶺。


 可愛すぎたそのシーンが、今でも昨日のことのように忘れられない。



   *



 翌週の月曜日。


 悠真は、高嶺家のインターホンを押した。


「いってらっしゃーい!」


 玄関で、弟の琇が元気よく手を振る。

 隣には、母も穏やかな笑顔で並んでいた。


「……行ってきます」


 二人で学校へ向かう坂道を、並んで歩いた。


 紗月のカバンの外側には、もう隠すことなく堂々と、「ミルク」が飾られている。


 悠真が、そっと紗月の手を握る。

 その手のひらの温かさが、紗月に未来への確かな勇気を与えてくれた。


 二人は新しい恋の始まりを、ゆっくりと歩み出してゆく。

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