『終電逃避行』


 深夜零時、二十三分発。


 終電の最後尾車両。

 いつも同じ男女が、スマホも出さず、疲れたように虚空を見つめている。


 男は黒いシャツにベスト。高級そうなグレーのコートを羽織り、落ち着いた佇まい。

 女は落とし切れていない、濃いメイク。顔に疲労を滲ませながら、決まって黒いピンヒールを履いている。


 彼らは、互いを認識している。


 でも、話しかけたことはない。


 終電は、「昼の自分を捨てて、本音の姿になれる聖域」だから。


 誰にも邪魔は、されたくない。


 窓に映る自分の顔を見つめながら、男は今夜も客たちの笑顔を思い出していた。

 「ありがとう、また来るよ」と言ってくれる、常連たち。

 彼らに必要とされている、実感がある。


 それなのに、なぜか男の心は、この時間いつも満たされない。


 女もまた、今夜の拍手を思い出していた。

 カーテンコールで浴びた光。まばらとはいえ、熱心に通ってくれる観客たちの燃える視線。

 舞台に立っている間は、確かに、彼らに見られている。


 でも、舞台を、降りた瞬間。


 誰も、自分を見てはいない。


 電車が揺れる。二人の視線が、窓ガラス越しに重なった。



   *



 男が働くラウンジバーは、銀座の路地裏にある。


 カウンター越しに客と向き合い、静かにシェイカーを振る。氷の音だけが、ジャズの流れる店内に響く。


「いつもありがとう。君がいるから、ここに来るんだ」


 常連客がそう言って、笑う。


 男も笑顔で応える。

「ありがとうございます。またお待ちしております」


 でも、客が帰った後。

 一人でグラスを磨きながら、男は虚しさを感じる。


 彼らが求めているのは、「完璧なバーテンダー」だ。


 洗練された所作。心地よい会話。適度な距離感。

 それは全て、「役割」としての自分。

 もし明日、別のバーテンダーがこのカウンターに立っていても、客は同じように笑うだろう。

 「私個人」は、誰にも必要とされていない。


 閉店後、男はコートを羽織り、静かに店を出る。


 終電まで、あと五分。



   *



 女が立つ小劇場は、下北沢の雑居ビルの三階にある。

 客席は三十人ほど。照明が当たり、女は舞台の中央へ歩み出る。

 セリフを言う。動く。笑う。泣く。

 観客の視線が、全て自分に注がれているのを感じる。

 この瞬間だけは、「私」は確かに存在している。


 カーテンコールで頭を下げると、まばらながら温かい拍手が響く。

「ありがとうございました」


 舞台袖に戻り、メイクを落とす。

 鏡に映るのは、ただの疲れた女の顔。


 楽屋には誰もいない。共演者たちはとっくに帰った。

 「役」を脱いだ瞬間、女は誰でもなくなる。

 スマホを見ても、メッセージは来ていない。

 誰も、「彼女自身」を必要としていない。


 ピンヒールを履き直し、女は劇場を出る。


 終電まで、あと十分。



   *



「女優さんですか」


 その夜、男が先に、口を開いた。


 女の目があまりに虚ろで、どこかへと消えてしまいそうに見えたのだ。


 女は少し驚いたが、答えた。

「ええ。なぜです?」


「なんとなく……雰囲気かな」


 それだけ。


 駅に着いて、女が降りる。

 同じ駅で、男も降りる。

 けれどそれ以上言葉を交わすことなく、二人は逆方向へ向かって歩き出した。



   *



 翌日も、また終電で会う。

 また、男が訊いた。

「舞台は、どうでした?」


「……盛況でしたよ」

 女は小さく笑った。でもその笑顔は、どこか寂しげだった。


 会話は、それ以上続かない。


 やはり駅に着けば、二人は別々の改札へと消える。


 それが、暗黙のルールとなった。


「終電の間だけ」


「駅で降りたら、終わり」



   *



 ある夜。


「今日は、お客さん多かったですか?」

 女が先に訊いた。


「ええ。金曜でしたから」


「そう……よかったですね」

 女は窓の外を見た。


「私も今日、観客が多くて。でも、なんだか疲れました」

「疲れた?」

「ええ。たくさんの人に見られるのって、嬉しいはずなのに……降りた瞬間、急に誰もいなくなるから」


 男は頷いた。

「わかります。私も同じです」


「同じ?」


「客に囲まれているときは、確かに必要とされている。でも、閉店後は誰もいない」


 女はゆっくりと男を見た。

「……寂しいですね」


「ええ。……寂しいですね」


 電車が揺れる。


 二人は、少しだけ近づいた気がした。



   *



 一週間が過ぎた。

 終電での会話は、少しずつ増えていった。

「今日の舞台、ミスしちゃって」

「大丈夫でしたか?」

「なんとか。でも、落ち込んで」

「明日は、きっとうまくいきますよ」

「……ありがとう」

 でも、駅で降りれば、また別々。

 それが二人の、ルールだった。



   *



 千秋楽の三日前。

 女の表情が、いつもより暗かった。

「もうすぐ、終わるんです」


「舞台が?」


「ええ。千秋楽が三日後で」


 女は小さく息を吐いた。

「終わったら、また誰にも見られない日々が。見てもらうために、彷徨う日々が、……始まる」


 男は何も言えなかった。


 ただ、窓ガラスに映る彼女の横顔を、じっと見ていた。



   *



 千秋楽の夜。

 女はいつもの終電に乗り込んだが、その目は赤かった。


 男は、すぐに気づいた。

「……泣いてたんですか?」


 女は首を横に振ったが、声が震えていた。

「千秋楽、終わったんです。すごく盛り上がって、カーテンコールは三回もあって」


「それは、よかったですね」


「でも、終わった瞬間」

 女は言葉を切った。

「『また明日』がないって。明日からは、誰も私を見てくれない……」


 男は、黙っていた。


「役の私は、見てもらえる。でも、私自身は……誰にも、見られてないことを、なんか、つくづく、痛感しちゃって……」


 電車が揺れる。


 男は、ゆっくりと、口を開いた。

「私は、あなたの舞台を知らない」


 女は、顔を上げた。


「でも、この終電で、あなたがいないと」


 真っ直ぐに、彼女を見る。


「私は、満たされない。」


 女の目が、大きく見開かれた。

「……私も」

 彼女は涙をこぼしながら、小さく笑った。


「あなたがいないと、私も、満たされない」


 二人の間に、静かな沈黙が落ちた。


 それは、初めて互いの欠落を、認め合った瞬間だった。



   *



「ねえ」

 女が言った。

「今日、降りたくない」


 男は少し驚いたが、すぐに頷いた。

「私もです」


 終点に着くまで、二人は降りなかった。


 電車は折り返し、その車内には、もう誰もいない。


「これ、ルール違反だね」

 女が笑う。


「ええ。でも、もういいでしょう」

 男も笑った。


「毎日が満たされてるはずなのに、どうしようもなく何かが足りなかった。でも、あなたといると」


「何かが、足りるかしら」


「いいえ。でも、そのまま。足りないままでいることが、悪いことじゃない気がする」


 女は首を傾げた。

「どういうこと?」


「足りないから、また話したくなる。それはいいことなんじゃないだろうか」


 女はしばらく考えて、小さく頷いた。

「……そうかも」



   *



 最寄り駅まで歩くころには、夜が明け始めていた。


 始発の電車に、朝の光が差し込む。


「明日も、終電で」

 男が言った。


「うん」

 女が頷く。


「でも、終電までは、干渉しない。それがルール」


「……それでいい」


 二人は笑い合い、また、逆方向へと別れた。


 恋に進むかどうかは、まだわからない。


 でも、確かに。


 互いの「欠落」を見つめ合える関係が、そこにはあった。


 満たされているはずなのに、足りない。

 だからこそ、二人は、また会いたくなる。


 終電は、そうやって夜を繋いでいく。​​​​​​​​​​​​​​​​

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