『十五夜の稲穂』


 十月の夕暮れ。稲穂が黄金色に染まる田んぼの向こうに、観月升麻みづき しょうまの家がある。


「しょうちゃん、お団子の粉、持ってきた?」


 花山千景はなやま ちかげが自転車を降りながら声をかけた。

 彼女は升麻の幼なじみで、高校の同級生。

 進学で町を出る予定の彼女は、今年が最後の十五夜になるかもしれないと、いつも以上に張り切っていた。


「ちゃんとあるって」


 升麻は米袋を抱えて玄関を開けた。

 家業の米農家を継ぐつもりの彼にとって、この季節の忙しさは慣れたものだ。

 だが、千景との時間はいつもどこか特別で、心が落ち着かない。


 台所に入ると、升麻の母が笑顔で迎えた。


「ちぃちゃん、今年もよろしくね」


「はい! 今年こそ完璧なお団子を作ります」


 千景は気合十分。エプロンをつけて、升麻の隣に並ぶ。

 二人で粉をこね、丸めていく作業が始まった。


「しょうちゃんのお団子、いびつだね」


「ちぃのも大きさバラバラやんけ」


 笑い合いながら手を動かす。

 粉が舞って、千景の頬に白くついた。


「あ、ついてる」


 升麻が手を伸ばして拭おうとすると、千景が顔を赤くして逃げる。


「自分で拭けるし!」


 その仕草がかわいくて、升麻は思わず目をそらした。

 こういう瞬間が増えている。

 昔はただの幼なじみだったのに、最近は心臓がうるさい。


 団子が茹で上がり、お供え物の準備も整った。

 千景がチェックリストを見ながら確認していく。


「団子、よし。お酒、よし。果物、よし。あとは……」


 彼女の顔が青ざめた。


「すすきがない!」


「え、まじで?」


「どうしよう、お店もう閉まってるよ!」


 千景は本気で落ち込んでいた。

 彼女にとって、この十五夜は特別な意味がある。

 来年の今頃、自分はもうこの町にいないかもしれない。

 だからこそ、完璧にやり遂げたかった。


「あのさ」


 升麻が口を開いた。


「稲穂でもいいんちゃう? 昔はそうやったって、じいちゃん言ってたし」


「え……でも」


 千景が窓の外を見る。もう日は完全に落ちていた。


「今から田んぼ? 暗いよ……」


「懐中電灯あるし。すぐそこやから」


 升麻はすでに懐中電灯を手にしていた。

 千景は迷ったが、彼の顔を見て頷く。


「うん。行こう。完璧にしたいもんね」



   *



 街灯のない農道は、本当に真っ暗だった。


懐中電灯の光だけが頼りで、足元を照らしながら二人は並んで歩いた。


虫の声と、用水路を流れる水の音だけが響く。


「……暗いね」


 千景の声が小さい。


「なに? 怖い?」


「ちょ、ちょっとだけ」


 升麻は一瞬迷ったが、思い切って言った。


「手、つなぐ?」


「……っ!」


 千景の顔は見えないが、耳まで赤くなっているのが想像できた。


 数秒の沈黙の後、小さな手が升麻の手に触れる。


 でも、すぐに離れてしまう。


「や、やっぱり大丈夫!」


「そ、そうか……」


 それからは、二人とも恥ずかしくなって、黙って歩き続けた。


 田んぼに着くと、満月が静かに昇っていた。


 月明かりに照らされた稲穂が、風に揺れて波のように見える。

 黄金色の海に、二人だけが立っているようだった。


「きれい……」


 千景が息を呑む。


「な。稲穂、使おう」


 升麻が手を伸ばして、数本の稲穂を摘んだ。

 そして、悪戯っぽく笑って、千景の髪に飾る。


「ほら、似合うやん」


「え、ちょっと!」


 千景が慌てて触ろうとするが、升麻が手を握って止めた。


「そのままでええよ。かわいいから」


 月明かりの中、千景の顔が真っ赤に染まった。


 稲穂を何本か採って、二人は帰路についた。


 だが、帰り道の途中で、懐中電灯が消える。


「あれ……電池切れ?」


「うそ……」


 本当の暗闇が、二人を包んだ。

 月明かりだけでは、足元もよく見えない。


「これは危ないわ。ちぃ、大丈夫?」


「う、うん……」


 声が震えている。


 升麻は迷わず、千景の手を握った。


「な。こわくないやろ」


 今度は離さなかった。


「………………」


 千景も、きゅっと、握り返してきた。


「……ありがとう」


 互いの手のひらの温かさが、暗闇の中で安心をくれた。


 胸が、ドキドキと高鳴る。


 辺りは星と月明かりしかない、深くて暗い闇の中。


 本当はだだ広いはずなのに、升麻と千景の周りにしか、世界がなくなってしまったかのようだ。


 夜道は怖くて危ないはずなのに、千景は、このまま暗闇がどこまでも、いつまでも、続けばいいと思った。



   *



 側溝に落ちないようゆっくりと歩いて、やがて遠くに家の明かりが見えてきた。


 でも、二人とも手を離せなかった。


「ねえ、しょうちゃん」


「ん?」


「来年も……うちら、一緒に十五夜、できるかな?」


 千景の声は少し寂しげだった。


 進学のこと、町を出ること。


 でも今は、それを考えたくなかった。


「やろうや。絶対」


 升麻が強く握り返す。


「来年も一緒に団子作って、お供えして……また暗い農道歩こうな」


「うん」


 千景が微笑んだ。


 月明かりに照らされたその笑顔を、升麻は一生守りたいと思った。


 暗闇の農道に、二人の影が淡く伸びていた。


 月だけが、静かに二人を見守っている。


 来年もきっと、十五夜に。


 そう信じて、二人は手をつないだまま、家へと帰っていった。​​​​​​​​​​​​​​​​

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