『今夜、ファミレスで』


 二十三時。


 閉店後、誰もいないファミレス。

 洗い場の水音だけが響いている。


「ほらそこ、皿の拭き残し」


 的場先輩の声が、いつもより低く聞こえる。

 静かだから、昼間より近く感じてドキドキする。


「雑なんだよお前。こんなザツな仕事じゃ、いつまで経っても研修中のままだからな」


 私は、ふと先輩の腕に目を奪われた。


 お皿を持つ先輩の手首が、蛍光灯の下で白く浮かんでいる。


 ホール用の制服。

 紺色の袖から覗くその細い手首に、私は手にした布巾を、そっと触れさせる。


 これ以上のチャンス、ない。


 でも、声が震えた。


「先輩が、そうやって見ててくれるから」


 布巾越しに、先輩の手に触れる。布越しに伝わる、温もり。


「最近は、わざとやってるんです」


「っ……は?」


 先輩の肩が、ピクリと跳ねた。


「意味わかんね……。は、離せよ!」


 声は強がってる。でも、もう、耳まで真っ赤。


 静まり返った店内で、心臓の音が、やけに響いていた。


 ドクン、ドクン。


 それが先輩のか、私のかは、私たちにはわからない。


 制服のポリエステルが、擦れる音。

 洗剤の香り。

 ほんの少し混じる、先輩の、シャンプーの匂い。


 私は一歩、先輩に近づいた。


「……研修中なんか」


 先輩の耳元に、そっと囁く。


「卒業する気ないですよ」


「お、お前な……!」


 狭い洗い場。

 慌てる先輩が、どうしようもなく可愛い。


「だって的場先輩、私が卒業したら困るでしょう?」


「っは?! 別に困らねーし」


「じゃ、じゃあなんで、いつも私と被るように、シフト調整してるんですか?」


「っ……それは、お前が一人だと仕事ザツだから! 誰かが見てないとダメだろ!」


 必死に言い訳する先輩の横顔。

 もどかしくて、私は唇を引き結ぶ。


 三ヶ月前、私がここでバイトを始めたのは、的場先輩に惹かれたから。


 でも、的場先輩は、本当に厳しくて。


 接客の立ち方、お盆の持ち方、レジの打ち方。

 何もかもダメ出しばかり。

 正直、辞めようかと思っていたこともある。


 でも、気づいてしまった。


 的場先輩は、私にだけ、特別に厳しい。


 その意味が分かったときから、私はこのときを、ずっと待っていた。


 だってこの人は、絶対に、私のことが気になっている。


「的場先輩」


「……なんだよ」


「来週のシフト、もう出ましたよね」


「ああ」


「また、被ってましたね」


「…………偶然だ」


「三ヶ月連続で?」


 先輩は無言でお皿を拭き続けた。

 その横顔が、少しだけ困っているように見える。


「……なあ」


 不意に、先輩が口を開いた。


「お前、本当に卒業する気ないのか?」


「ないです」


 即答。先輩は小さくため息をついた。

 でもそれは、困ったようなため息じゃなくて――安心したような、ため息、だった。


「……お前、俺のこと、からかって遊んでるだろ」


「からかってなんかないです」


 私は布巾を置き、先輩のほうを向く。


「本気ですよ」


「本気って……何がだよ」


「的場先輩が好きって。本気です」


 空気が止まった。


 先輩の顔が、みるみる赤くなっていく。耳も、首筋も。


「ば、ばか……こんなとこで、そんなこと……」


「閉店後ですよ? 誰もいません」


「いるだろ! 俺とお前が!」


「だから言ってるんです」


 今度は、素手で、手に触れた。


「的場先輩は?」


「……何が」


「私のこと、どう思ってるんですか」


 声が、震える。


 先輩はしばらく黙っていた。

 蛍光灯の低い音だけが響いている。


「……お前は、雑で、適当で、時間にルーズで……」


 ああ、やっぱり、ダメなのか――。

 そう思って手を離そうとした瞬間、逆に、手首を掴まれた。


 強くて、大きな、手。


「それなのに、なんで俺は」


 先輩の声が震えている。


「お前がいない日のシフト、確認しちまうんだろ」


「……先輩」


「卒業とか、マジでやめろ。俺が、困るから」


 胸が熱くなる。


「じゃあ、ずっとここにいます」


「……ああ」


「的場先輩の、隣に」


「…………ああ」


 的場先輩は小さく頷き、私の手をぎゅっと握った。


 閉店後のファミレス。誰もいない厨房。制服越しの温もり。


 洗い場の水音に紛れて、二人の笑い声が、小さく響いていた。

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