『ハロウィンの魔女』


 ハロウィンの夜。


 渋谷の熱狂は最高潮に達していた。

 非日常の魔法がかかったかのように。

 ミイラ男やジャック・オ・ランタン、プ○キュアにゾンビ警察官まで――渋谷の街は、無数の仮装が入り乱れてカオスそのもの。


「ちーかー! 早く早く、写真撮るよー!」


「はいはーい!」


 私、門前千賀もんぜん ちかは、友人たちとパレードに身を投じていた。


 今年のコスプレは吸血鬼。つけ牙と、風にたなびく真っ赤なマント。普段から貧血持ちの私にはピッタリ。今日の私は、鏡を見るたびにため息が出るくらい”盛れて”いた。


 でも、熱気と人波、酒とタバコの匂いが、私の体力を容赦なく奪っていく。


 その時だった。


「おっと、ごめんごめーん」


 粗野な声と共に、酔っ払いのおじさんがドンとぶつかってきた。


 ――やばい。貧血だ。


 急激に冷えていく指先。視界が白く、ぐらぐらと揺れる。周囲のざわめきが、深い水中に沈んだかのように遠のいていく。


 膝から力が抜けた。抗う術もなく、私は暗闇に身を委ねようとした。


 その刹那。


 バシィッ!


 空気を切り裂くような、鋭い音。


 ぼやける視界の端で、黒いマントが夜風をはらんで翻るのを見た。

 視線の先にいたのは、魔女の帽子を深く被った、月光を纏う美少女。


 彼女は、流れるように華麗な回し蹴りを、酔っ払いに食らわせていた。


「……最低」


 ハスキーで、張り詰めた、冷たい声。凛として、一切の迷いがない横顔。


 その立ち姿は、ただのコスプレじゃない。

 まるでお伽噺から飛び出してきた本物の魔女――私の危機を救うために現れた、夜の守護者のようだった。


「救急車! 誰か早く!」


 彼女の緊迫した鋭い叫びが、私の遠くなる意識を叩いた。


 それが、覚えている最後の音になった。



   *



 次に目を覚ましたとき、私は病院の白いベッドの上にいた。


 全身の力が抜けて、ただ天井を見つめる。


「ちか! 本当に大丈夫なの?」


「う、うん……」


 友人の心配そうな声に頷く。

 私の心に残っているのは、あの夜の黒い残像だけ。


「あの魔女の子は……?」


 恐る恐る尋ねる私に、友人は残念そうに首を振った。


「え? ああ、救急車呼んでくれた子? ちかが運ばれる前に、颯爽といなくなっちゃったよ」


 そっか。

 名前も、素顔も、知ることができなかった。


 でも、一度見ただけで、その全てが心に焼き付いて離れない。

 あの凛々しい横顔、冷たい声、華麗な回し蹴り。

 彼女が私を助けるために、雑踏の中に立つ、その孤独な美しさ。


 これは、ただのお礼の気持ちなんかじゃない。


 私、絶対にあの子を見つける。


 そして、できれば――彼女の世界に、迎え入れてほしい。



   *



 翌週、私は学校で『魔女探し』を始めた。


「ねえねえ、ハロウィンで魔女のコスプレしてた、背が高くて、すっごい美少女、知らない?」


 手がかりは見つからない。

 あの夜の彼女は、あまりに非日常的で。

 本当は現実には存在しない、幻だったのだろうか。


 諦めかけたそのとき、クラスメイトがふと呟いた。


「あ、もしかして都築空つづき くうじゃない? 別のクラスの。あの人、背も高くて芸能人レベルの美少女で、有名だよ」


「都築……空?」


 名前を聞いた瞬間、心臓がドクンと脈打った。


 私は衝動的に、彼女のクラスへと走り出す。


 そして、見つけた。


 窓際の席に座る、長い黒髪の美少女。

 彼女の放つ孤高のオーラは、遠くからでも一目でわかる。


 間違いない。――あの時の、『私の魔女』だ。


「あの! 都築さん!」


 私が名前を呼ぶと、美少女は顔を上げた。

 端正な顔立ち。

 でも、その瞳には、一瞬、戸惑いがよぎったように見えた。


「……は?」


 響いたのは、少し高い、柔らかな声。


 あれ。こんな声……だったっけ?


「ハロウィンのとき、助けてくれましたよね! 私、お礼が言いたくて!」


「ああ……うん、そう、だね」


 歯切れが悪い。

 まるで何かを隠しているような、小さな翳りを感じる。


 それでも、彼女は助けたことを認めてくれた。


「本当にありがとうございました! あの回し蹴り、超カッコよかったです!」


「回し蹴り……ね」


 都築さんは、口を開きかけて、何かを飲み込んだように黙ってしまった。



   *



 それからの私は、恋に落ちた少女そのものだった。


 毎日、都築さんに会いに隣のクラスへ行く。

 彼女の身体を気遣って、心を込めて作ったお弁当を持っていった。

 一緒に帰る道中は、私にとって最高の時間だった。


 都築さんは、最初はどこか警戒しているようだった。

 けれど、だんだん私に優しく接してくれるようになった。


 でも、違和感は消えない。

 話し方が妙によそよそしいし、時折見せる困ったような表情。

 それは、私への優しさと、彼女自身の秘密との間で、揺れているように見えた。


「あのさ、門前さん」


 ある日の放課後。

 都築さんは、まるで告白をするかのように、深く息を吸い込んで私に打ち明けた。


「私じゃないんだわ……。助けてあげたの」


「え……?」


 心臓が冷える。

 まさか、人違い?


「ちょっと待ってて」


 都築さんは廊下に出て、誰かを呼んだ。


ゆう! 早く来て」


 優?


 廊下から入ってきたのは……男子だった。


 ――いや、待って。


 その顔を見た瞬間、私の世界は静止した。


 都築さんと、瓜二つの顔。

 いや、完全に同じだ。

 違うのは、短い髪型と、全身から発せられるぶっきらぼうな雰囲気だけ。


「双子の弟の、優」


 都築さん――空さんが、言った。


「ハロウィンのとき、魔女のコスプレしてたのは私じゃなくて……優」


「…………おい」


 優と呼ばれた彼は、顔を顰めて不機嫌そうに呟いた。


「はっ?」


 私の声が、情けないほど裏返った。


 優さんは、はー……、と長いため息をつき、後頭部をガリガリと掻いた。

 その仕草は、あの夜の優雅な魔女とは、あまりにもかけ離れている。


「あの日だけ。空のコスプレ衣装、着ることになってて……クラスの打ち上げで負けた罰ゲーム」


「え、えええええええ!? あの、美少女は……男の子!?」


「回し蹴りしたのも、救急車呼んだのも、俺。空じゃない」


 優さんは、相変わらず無愛想だ。

 でも、どこか照れているようにも見えて、私と目を合わせようとしない。


「ご、ごめんなさい! 私、ずっと都築さんだと思って、勝手に勘違いして……」


「まあ、顔同じだし、仕方ないよ」


 空さんが、私の張り詰めた気持ちを溶かすように、優しく苦笑いした。


「でも、毎日お弁当作ってきてくれるの、優に渡してたんだ。ちょっと重くて……」


「ああああ! ごめんなさい! もう、恥ずかしい!」


 恥ずかしさで、今度こそ倒れそうになる。

 穴があったら入りたい。


「べ、別に……迷惑じゃなかったけど」


 優さんが、蚊の鳴くような声で、小さく呟いた。


「え?」


 優さんは、居心地悪そうに視線を逸らしたまま続けた。


「あの時、あんたが倒れそうになって……さすがに心配じゃん。無事でよかったって、ずっと気になってたし……」


 彼の頬が、夕焼けの色に染まっている。


「あんたが毎日、空に会いに来てるって聞いて……なんか、複雑だった」


 ドクン。


 憧れの美少女だと思っていた恩人は、実はぶっきらぼうな美少年だった。

 あの夜の凛々しい姿も、いま目の前にいる不器用な優さんも、どちらも本物で、私だけのヒーロー、だ。


「あの……これから、優さんに直接、お礼をしても、いいですか?」


 私が尋ねると、優さんは顔を真っ赤にして目を逸らし、


「……好きにしろよ」


 と、そっぽを向いたまま答えた。


 空さんが、可笑しそうに微笑みながら教室を出ていく。


「じゃあ私、教室戻るわ。優、頑張って」


「おい、空!」


 優さんの慌てる声を聞きながら、私も笑った。


 ハロウィンの夜に現れた魔女は、私の王子様だった。


 まるでおとぎ話のように不思議で、最高にロマンチックな、私の恋が始まる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る