『図書室のマドンナ』
うちの学校には
だから僕は内心で、大パニックを起こしていた。いつものように放課後の図書室で参考書を広げているのだが、今日はとんでもないことが起きている。
なぜならいつも僕が自主勉強に励んでいる窓際の席で、学校一のマドンナであるその紫紺野寺先輩が、すやすやと寝息を立てて眠っているのだ。
(なんで先輩がここに……しかも、寝てる……)
教科書のページをめくる音すら、気を遣ってしまう。起こしてしまったらどう思われるだろう。でもいつかは起こさないと、このままじゃ図書室が閉まる時間になってしまうかもしれないし。
そもそも先輩は、なぜここで寝ているんだろう。
長くて整った、美しいまつげ。陶器の人形みたいな寝顔をちらちらと横目で見てしまいながら、僕の心臓はドキドキと大きな音を立てていた。
「ん……」
先輩が、ゆっくりと目を開けた。
「あ……」
目が、合う。僕は慌てて、視線を教科書に戻した。
「あれ、ここ……図書室?」
話しかけられてしまった。ますます僕はパニックになる。
「は、はい。図書室です」
緊張で、声が上ずった。
「やば、寝ちゃってたんだ。何時?」
「え、えーっと……十七時十三分です」
「げ、もうそんな時間なんだ」
先輩は、慌てて起き上がる。長くて繊細な黒い髪が流れ落ち、先輩をこの世のものじゃないみたいに、可憐で華やかに見せる。
「あの……大丈夫ですか?」
「うん、ありがとう。君、えーっと…」
「田中一郎です」
「田中……一郎? 一年生か。いつも、ここで勉強してるの?」
「は、はい。毎日来てます」
「うわ、真面目だね」
先輩は、眠そうな目をこすりながら言う。
「せ、先輩も、勉強で夜更かしですか?」
「うーん、まあ……そんな感じかな」
あ、ごめん、と先輩は言う。
「私は、
「は、はい! 知ってます。三年の、紫紺野寺、瑠璃華先輩」
「ごめんね、変な名前で。言いにくいでしょ」
「えっ? 変……? そうですか? むしろ先輩って、き……綺麗な、お名前、ですよね」
「そんなことない。テストのときとか地獄だよ、名前書くだけで五分くらいかかるもん。枠からはみ出るし」
「いえ、そんなことないです。憧れますよ。僕なんて苗字も田中だし、なんてったって一郎なんですから。一生」
「テストの時は? 名前書くの」
「十秒くらいですね……あっ」
「ほら。そっちのほうが断然いい」
「……先輩のおかげで、生まれて初めて、自分の名前を気に入りました」
「…………」
先輩が、なぜか突然無言になってしまった。
そんなに返事に困るようなことを、僕は言ってしまったんだろうか。
冷や汗を流し始めたころ、先輩はポツリと口にした。
「……田中くんて、変わってるよね」
「えっ、そうですか? ぼ、僕にも個性があるなんて、嬉しいです!」
「……変わってるよ」
「嬉しいです!!」
「ぷ」
先輩は、吹き出した。
「私も……」
「はい!」
「私も、初めてかも。自分の名前、気に入ったの」
「…………はい!!」
今日はなんだか、ずっと顔が熱い。なんだかよく分からないが、先輩と話していると、胸がドキドキして仕方がない。緊張、してるのかもしれない。
なんてったって、学校一の有名人だ。
大財閥の一人娘さんで、それも去年、全国模試で一位を叩き出したっていう、才女。
外見なんてこうして間近で見ると、芸能人よりも綺麗だし……。
「そっ、そろそろ、帰らないと!」
見惚れてるのがバレる前に、帰らなきゃ。そう荷物をまとめ始めると、先輩が意外そうな顔をした。
「え。帰っちゃうんだ」
「はい! えっと、用事があるわけじゃないんですけど、な、なんだか胸がドキドキしてしまってて……体調が、悪いのかもしれないので」
「大丈夫?」
「あっ! ぜ、全然大丈夫です! たぶん、先輩と話して緊張したんだと思います。あ、いや、先輩と話すのが嫌だったっていうわけじゃなくて、僕はすごく楽しかったんですが、先輩にもし病気がうつったりしたら大変なので……じゃっ、じゃあ!」
「…………」
ぺこりと頭を下げて、図書室を出ていく。しまった、と思ってドアを閉める前に、再び先輩に向き直る。
「紫紺野寺先輩!」
先輩は、こっちを見てくれた。
「僕、いつも、ここで勉強してるんで! もしまたご一緒したら、そのときはよろしくお願いします! それまでに僕、緊張しないように、練習しておくんで!!」
そう言い残し、僕は図書室を出て行った。
*
私は一年生くんに一人残されて、しばらく呆然としていた。それからゆっくりと、自分の荷物をまとめて、図書室を後にする。
普通の男の子なら、自分から先に帰ったりはしない。
私が、どんなに、色恋沙汰が苦手だろうと、そんなこと、お構いなしで。
それなのに、こうして、一人静かになった空間。
さっきの子の、リアクション。
つい、小さく呟く。
「……やば。」
つい、頬に手を当てる。
顔、熱い。
この名前でよかったって、なんかつい、ホンキで思っちゃったし。
田中一郎というヘンな一年生くんのせいで、さっきから胸が妙に、ドキドキしていた。
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