『99点の歌』
AIが芸術にスコアをつける。
そんな時代になってしまって久しい。
音楽も、絵画も、小説も――評価基準は『情動システム』と『共感値』。
スコアが、そのままランキングに反映されるのが当たり前の現代。
いま話題の、『99点の曲』がある。
解析AIの歴史上、最も多くの人が涙し、最も高得点を出すと推測された楽曲。
授業で教師が興奮しながらその曲を流す。大音量で。
でも、聴いても、私の心には何ひとつ響かなかった。
それは完璧に調和した、しかし生命感のない、無機質な色。――灰色のグラデーション。それも、別にそれほど、美しくもない。
教室の中まるで、私だけが間違ったものを聴いているみたいに、一人だけ黙るしかなかった。
『正直な話、なんとも思わなかった』
という、私の本音の感想は、声高に語り合い涙するクラスメイトたちの中で、どこにも行き場がなかった。
私の感受性がおかしいのか。それとも、私の人生経験が足らず、この曲の中の響くべき要素が、私にだけ響かないのか。
どちらにしろ、私は『人として不完全』だと言われたようで、つらい。
*
クラシックを習っていたが、本当はジャズが大好きだった。
私は祖父のレコードで、ビル・エヴァンスを延々と聴いているような子どもだったから。
彼の音楽を聴いていると、世界が虹色に輝くの。その旋律を思い出すだけで、きらめくシャボン玉を見つめているときのように心が躍った。
そんな私は秋から音楽大学に入学して、アルバイトしながらジャズを学んでいる。
必死で学費を払っているというのに、『どうやったらAIスコアを上げられるか』の授業ばっかりだ。
扱われる楽曲も、同じジャンルの中で、どれもこれもどこかで聴いたような、メロディばっかり。
私の心の奥でそっと鳴り続けている、誰にも評価されてない、やわらかな音とはまるで違う。
私はただ、このやわらかな音の、色とスコアが知りたいだけ。……それだけ、なのに。
しかしそれを求められることも、演奏する機会も。ましてや、奏でる方法を学ぶ授業すら――この学校にはなかった。
――こんなはずじゃあ、なかったのに。
なんのために奨学金まで受けて、私はここに来たのだろう――。
*
ポツポツと、小雨の降り始めた帰り道。
私は偶然見つけた小さなライブスタジオで、雨宿りをすることにした。
薄暗い店の隅では、古いアナログピアノがうっすらと照らされていて、きれい。
そこに座った黒づくめの青年の指先が鍵盤に触れる。ポロン、と音が響き渡ると、店内の空気が変わったように思えた。
――レコード針が擦り切れるほど私を魅了した、ビル・エヴァンスより心が震える。
見たことのない色彩。深くて明るい、透き通った、見渡す限り広がるエメラルドグリーンの海水。そのくらい煌めいていた。
アナログピアノの演奏には、スコアが出ない。
――けれど、この音色には、私が探し続けていた何かがあった。
胸の奥で大切な気持ちが溶けていくような、初めての感覚に酔いしれる。
――雨音と、ピアノの音だけの時間。
――ここはずっと、私がたどり着きたかった場所。
そんな、気がした。
「う……美しい曲、ですね」
そう、勇気を出して囁く。この曲のスコアがどうしても、知りたかった。
この色は、……『何点』なの?
儚げな青年が振り返る。柔らかな微笑みと、少し驚いたような表情。サングラス越しの両目は、遠くを見つめていて、目が見えない人なのがすぐわかる。
「ありがとう。僕が作ったものです。まだタイトルはないけれど――」
その見えない目で、彼は照れるように微笑む。
「あなたにも……見えるんですね。この曲の気持ちが――」
「わ、私、評価システムのアプリをいくつか入れています。もう一度弾いてくれたら、具体的な点数が分かります。あなたの曲のほうが、きっと99点よりも上――……」
そう私がアプリを表示すると、彼は困ったように眉を寄せた。
「ご期待には添えないと思うけれど、もう一度聴いてくれるのなら、ぜひ弾かせて欲しい……」
そう彼は、そっと鍵盤に触れた。
私のアプリに表示された点数は――『ゼロ』、だった。
*
それでも毎夜、私はその店を訪れた。
今は大学よりもここのほうが、私の居るべき場所だという感覚が強かった。
目の見えない彼、ハヤトも、いつも優しく微笑んでピアノを弾いてくれる。
まるで互いに引き寄せられているかのようで、私と彼がアナログピアノで歌い始めるのには、ほとんど時間がかからなかった。
白杖で歩くのがぎこちないハヤトは、昔は目が見えていたのだという。
「網膜色素変性症って言って、視野が狭くなっていく病気なんだ。今はAIのおかげで出歩くのにそれほど苦労はしないのに、まだ治るほど医学が発達してもいないっていう」
ふふ、とハヤトは照れるように笑った。
「例えば君と、今夜の星空を、見上げて記憶しておきたいと思うんだけれどね」
「私、音楽が視えるんです」
「うん」
あまりに簡単にハヤトが頷くので、秘密を打ち明けた私は唇を尖らせた。
「うんって、これは大切な秘密なのに――」
あはは、とハヤトは笑う。
「ごめんごめん、そうだね。それは『共感覚』って言って、人によって持ってる感覚なんだよ。僕にもある」
「ハヤトさんにも?」
「そう。僕はもう目がほとんど光すら見えないけれど――君の歌で世界が視えるんだ」
*
彼がピアノを弾き、私が小さく歌っていると、AIに囚われていた心が、日に日に自由になっていく。
――どうだっていい。
高いスコアも、AIのダメ出しも、なにも妥当だと感じない。
私はこのまま、世の中から、置いてきぼりにされていくのかもしれない。
別にそれで、いい。
私はただ、ここで歌っていたいだけだ。
明日も、明後日も、できることなら、何十年後もこうして、ハヤトと音楽を奏でていたかった。
世界中の誰もが『99点の曲』に夢中になって、街じゅうがその曲一色で染まっていく中。
私とハヤトだけの音楽が、ここでは静かに育まれていく。
*
「どうして、私には99点の曲が響かなかったのかな」
ある雨の夜、ハヤトの隣で呟いた。
ハヤトは鍵盤から手を離し、いつものように優しく微笑みかけてくれた。
「きっと君の心は、もっと特別な音楽を知っていたから」
そして、そっと私の手に触れる。
「AIには計算できない、特別な君だけの旋律を知っていた。そしてその旋律を、大切にしていたから。だから君は僕にとって、とても特別な人なんだ」
「――AIには計算できない、特別な、私だけの――」
ハヤトの言葉のなかに、光が見つかった瞬間だった。
*
それから毎日、私はピアノと譜面に向き合った。
ハヤトに教えてもらいながら、アナログピアノの弾き方を覚えていく。
もともとデジタルピアノなら弾けるから、鍵盤を弾くだけならそれなりにできた。
もちろん学校で習っているし、譜面に書くのも簡単だった。
でも、それだけでは、まるで私のやわらかい音にならないのだ。
「そんなに焦る必要はないよ、出来上がるべきときに、曲は自然と出来上がるものさ」
「でも……」
「出来上がるべきじゃないときに、君の音楽は生まれてこない。だからこそ地上にあるものは、生まれたとき祝福されるんだ」
もしもAIに心があったなら、とハヤトは悪戯っぽく笑う。
「AIも、君に祝福されてみたいと言ったかもしれないね」
*
半年後、私は大学を中退した。
学ぶべきことを学ばない学校。
そんな授業のために、多くの時間を浪費することが無意味に思えたからだ。
私のやわらかな旋律を形にできるなら、それを誰になんと言われてもいいと思えたからだ。
*
そうしてまた、半年の年月が過ぎた。
何度も完成してはやり直して、ようやく生まれて初めて、独学で曲を作り上げることができた。
ハヤトと過ごした夜の記憶を、すべて音に込めて。
ピアノの鍵盤、落ちる雨音、あの夜飲んだ温かなコーヒーの湯気。
彼の微笑み、優しい指先、音楽で見つめ合ってきた尊い時間。
そして、私たちだけが知っている、ハヤトという存在と、私という存在の旋律を。
その曲を、評価システムに通す。——スコアは、冷たい数字の『ゼロ』だった。
でも、ハヤトはその曲を聴いて、幾筋も涙を流していた。
長く背負ってきた荷物を、ようやく下ろした表情を浮かべて。
「これだ――、――僕がずっと知りかったのは、これだったんだ――」
そして、彼は私の手を取る。
「僕は、君の曲を聴いて、再び世界を『観た』んだ」
私には彼の言葉の意味がわかる。それは、私が彼の曲を初めて聴いた、あの夜の感覚だから。
手を握り返した瞬間、ライブスタジオの小さな観客席から、温かな一人分の拍手が湧き起こる。
見ると、ある常連の女性が、涙を浮かべ晴れがましく微笑んでいた。
「ありがとう。私もこの音楽を、ずっとここで待っていたの……」
たった一人の観客の大きな拍手が、スタジオに響き渡る。ハヤトと手を重ね、月明かりの中耳を澄まし、肩を寄せ合った。
99点の曲よりも、もっと心が震える、私にとって大切な歌が完成した。
観客の拍手と、ハヤトのピアノが新しいハーモニーを奏で始める。私はそっと、いつものように、私らしく歌い出した。
*
ハヤトが視力を失い始めたのは、AIが芸術を評価する時代が始まったころだった。
彼は当初、AIの評価システムに自分の音楽を委ねて曲を作っていた。いくらでも高いスコアの曲が生み出せて、流行の『99点の曲』も本当は、彼が書いたものなんだという。
でも、どれだけ高得点を得ても、彼の心は満たされなかった。
彼が本当に求めていたのは、数字よりもっと深いところまで、誰かの心に届く音楽だったから。
だから彼はスコアの出ないアナログピアノで演奏を夜毎繰り返し、この店の少ない拍手に、心から祝福される曲を生み出すようになったのだという。
そんな店に訪れた私の生み出した曲が、ハヤトの失った視覚の記憶を呼び覚ました。
雨の日の帰り道、ライブスタジオの光、アナログピアノの鍵盤……そして、彼の目に映ったことがないはずの、私の姿。
ハヤトは、私の曲を聴くことで、失った視覚を『色』として取り戻せた。
生まれて初めて『色』を見たような、震えるほどの衝撃だったという。
そして、彼は私と共に、AIを通さない新しい音楽を創造し始める。
それは、AIには決して作り出せない、私たちだけの『思い出の旋律』だった。
――それからずっと心のままに、私たちは、音楽を謳歌して生きていった。
*
世界がどんなに数字で音楽を測ろうとしても、
愛する人に向けて奏でられる音楽、心に語りかけようとする言葉は、誰にも測らせるべきものではない。
ましてAIの評価など、最初から恐れる必要はなかった――少しも。
世界にはこうしていつまでも、決して終わらない歌が、どこかで生まれていく。
この世界は初めから、99点の――終わりのない歌――、なのだから。
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