sumarry

 個展は無事に終了した。名波さんにも、壱さんにも挨拶を済ませた。片付けをするころになってふらりと柾が現れた。片付けを手伝ってくれるつもりらしい。


「ちー坊、お疲れさん。今日はちー坊の好物のともゑのカツ丼を頼んでみたよ」


 ひれ二倍のつゆだくねと補足する。


「えーっ、ずるい! 俺のは!?」


「一応人数分頼んだよ。俺と、俊平と、ちー坊」


「‥‥えっ!?」


「えっ?」


 千種が吹き出した。柾はいつもこうだ。諭をからかって遊ぶ。諭はずるいを連発して、柾の背中をバンバン叩いた。


「俺のも頼んでよ、柾ちゃん!」


「食いたきゃ働け。馬車馬のように働け。そうしたら考えてやらんでもない」


「あんまり諭を苛めるなよ、どうせ4人分頼んだんだろ?」


 苦笑を漏らしながら助け舟を出すと、柾は軽く肩を竦めて、「どうかしら」と不敵な笑みを浮かべる。楽しんでいる。千種はそのやり取りを笑いながら、忘れ物がないか、館内を周回しに行った。それに諭が続く。室内は僕と柾だけになった。


 柾が僕に近付いてくる。むぎゅっと鼻を摘ままれる。


「どうせやるだろうと思ってたけど、ほんとに外出禁止令を破られると腹立つわ」


 僕の鼻を解放し、何食わぬ顔で言う。最初から僕が守らないと解っていたくせに、きっちりとお仕置をしてくるのは柾ならではだ。


「ごめんね。たぶん、焦っていたんだと思う」


「あら、珍しい。明日は雨か? 槍か? 魚か?」


「もう一度園山さんと話す。バイト、やめたくないから」


 柾はふんと鼻で笑って、僕の背中をバシッと叩いた。


「いったっ!」


 あまりの力で前のテーブルにつんのめりそうになった。柾はそれを笑って、意地悪く片眉を跳ね上げた。


「制裁その二。外泊を届け出なかった」


「えっ!?」


 言ったあとで、僕は口を塞いだ。柾が知るわけがない。そもそも都内にいなかったのだ。これは引っ掛けだ。柾は満足げに笑みを深めると、バーカと楽しそうに言った。


「俺がバイトでいないって言ったら、俊平くんは自由な行動をとるでしょ。だから泳がせたのよ」


 僕は犯人かと突っ込みたくなる。柾はそれ以上はなにもしてこず、椅子や机を整えていた。


 部屋の中は静かだった。時計の音だけが聞こえる。僕の心臓の音と重なっている。穏やかなリズムだ。


「好きにさせてくれて、ありがとう」


 柾は肩を竦めた。


「明日からまた奴隷生活だからね、俊ちゃん」


 語尾にハートが付きそうなほどの媚びた声色で柾が言う。僕は一気に鳥肌が立つのを感じた。


「なんでっ!?」


「バイト辞めるんでしょ? 家にいるじゃない。朝昼晩、三食まともなものを俺に食わせて、朝起こして、夜俺が寝るまで起きておく。添い寝付き。関白宣言も真っ青なことをやってもらう」


「バイトは辞めないってば! ちゃんと園山さんと話して、大学生活に慣れたら復帰するから!」


「だったら尚更。俺に構う時間が減るってことでしょ。その間は俺のことを大事にしてくれなきゃ柾斗くん嫉妬で死んじゃう」


 にいっと意地悪く笑って、柾が言う。最初からこのつもりだったのだ。全然優しくない。勘違いをした僕が馬鹿だった。僕はくしゃくしゃと髪を揉んで、柾を呼んだ。


「やってやろうじゃない」


「ええ、やってくださいな」


「もういいってくらい甲斐甲斐しく世話をしてやるからな」


「どうぞどうぞ。なんなら毎日お風呂で体を洗ってくれてもよろしくてよ」


 それは嫌だ。それはしないと僕が突っぱねるように言うと、柾はうーんと少し考えて、手を打った。


「じゃあ一緒にお風呂に入ろうか」


「狭くて入れないだろ。馬鹿言ってないで、荷物を持って出ようよ」


 僕は千種の鞄を持って個室を出た。市民会館はすっかり静かになっている。廊下に出ると千種と諭が話しているのが見えた。千種の言葉通りなのだろうか。どこかすっきりしている。自分の気持ちがいつもよりも和らいでいる。それは三人で大きなイベントを達成したからかもしれない。試合に勝った時のような高揚感と達成感が、僕の心を浮かせていた。




「ほんとに俊は人が悪いんだから。旦那、嫁のしつけはきちんとしといてよ」


 千種の家で打ち上げをしていたとき、思い出したように千種が言った。あの後、僕は玖坂さんを出入り口まで送って、少し話をした。玖坂さんはとても申し訳なさそうな表情で、「ずっと引っ掛かってはいたんだけど」と言った。確かに、2年前と比べると僕は10センチ近く背が伸びたし、車いすに乗っているのと歩いているのとでは印象が違いすぎて、分からないかもしれない。冷静に考えたらそう思えるのに、その冷静さを欠くほどショックだったのは一体どうしてなんだろうと、千種の抗議を聞きながら考えていたとき、柾が僕に後ろから抱きついてきた。


「やだ、うちの嫁を悪く言わないで、ちー坊」


 柾は猫がゴロゴロと喉を鳴らしながら擦り寄ってくるがごとく僕に擦りついている。少し酔っているからだろう。面倒くさい。パーマをかけ立てでふわふわの髪をくしゃくしゃに乱してやる。それでも柾は逃げて行かない。


「可愛い俊ちゃんを貸してあげたんだから、感謝してほしいわ」


「はっ!? 掌返すとか有り得なくない!?」


「俺の手のひらはいつでも360度回るって知らなかったの?」と、何食わぬ顔で柾が言う。


「千種、相手にしちゃダメ。柾は人外だから一生だって何度もあるし、そのうち舌が二枚に割れるんだから」


 むしろ既に割れているんじゃないかと思うほどナチュラルに嘘を吐く。僕は柾の腕を払いのけ、みんなが食べたお皿をシンクに置きに行った。柾は上機嫌だ。バイトの山が片付いたのかもしれない。缶に残っていたビールを煽った後、柾が僕を呼んだ。


「俊ちゃん、パース」


 缶を投げてくる。僕が慌ててそれを受け取ると、ひゅうっと口笛を吹いた。


「ナイスキャッチ」


 やたら良い発音で言ってくる。僕はどうもと素っ気なく返して、蛇口をひねり、水道水をその中に流し込んだ。むわっとお酒のにおいがする。僕は自慢じゃないがお酒に弱い。料理酒にすら酔いそうなほどだ。未成年だからお酒を飲んだことはないが、飲んだらきっとふらふらになって起きれなくなるだろう。


 柾たちが話しているのをよそに、僕はシンクに置きっぱなしにしていたお皿を洗い始めた。一応食洗機があるが、それには入りきらないくらい置いてあるのだ。今朝はバタバタしてしまったからと、きちんと片付けて行かなかったせいだ。


 食器を洗っている間、玖坂さんのことを考えた。玖坂さんは僕たちが関係性を変えようとしているように、園山さんとの関係を修正しようとどこかで思っているかもしれない。けれど、不確かな気持ちの正体が解らない。僕もそうだ。どうしてこんな気持ちになるのか。この不確かな感情はなんなのか。それが分からなくて、深く関わるのを避けてきた。正直なところ、それがなんなのか、いまでもわからない。だけどこれを機に、もう少し諭に歩み寄ろうと思っている。なんとなく、玖坂さんと園山さんとの関係に似ているような気がする。


 ふと時計を見上げると、21時を回っていた。そろそろ園山さんが戻ってきているだろう。玖坂さんが夕方は来なくてもいいと言われている旨をメールしたら、少し早めに戻ると返信があったのだ。


「柾、園山さんのところに行ってくるね」


「じゃあついでにコーラ買ってきてよ、シュンペーちゃん」


「他になにか買ってくるものある?」


 柾はなにもないと言わんばかりに片手をひらひらと振った。千種も特にないようだ。


「どの大きさのやつ?」


「普通の」


「500mlの方でいいの?」


 諭は意外そうな顔をして、2本ねと僕に指示をする。千種と一緒になってデジカメで写真を見ているようだ。個展の様子を収めたのだろう。諭がデジカメを構えて写真を撮っていた姿を思い出す。記念になるからだろう。諭は記念日やイベントにはこだわるタイプだ。


「あ、あと、ケーキ買ってきてよ、ケーキ!」


 素っ頓狂な声を上げて諭が言う。


「一昨日くらいも食べたじゃない」


「分かってないなあ、シュンペーちゃんは。明日から俺たちは新しい一歩を踏み出すんだよ。だから今日までの自分を労うために、ケーキを食べなきゃ。今年度の食べ収め」


 やっぱりだ。そういうことだろうと思った。僕は適当に見繕ってくると声を掛け、ハンガーに掛けていたコートとマフラーを取った。諭が後ろから「チーズケーキがあったらチーズケーキね!」と、大声で言ってくる。そんなに大声で言わなくても聞こえている。僕はおじいちゃんじゃないと尖り声で突っ込んだ。諭と千種のたのしそうな笑い声が聞こえてきた。中学生の時は、いつもこんな感じだったような気がする。いつも諭が馬鹿みたいなことを言って、僕が突っ込んで、千種が宥める。勿論そうじゃないときもあったけれど、諭はいつでもこんなふうに場を和ませようと無駄に騒ぐ。それがわざとなのか自然なのかはわからない。いつもの僕ならそれが煩わしいとさえ思う。けれどなんだか今日は、とても懐かしいように感じる自分がいた。


 きちんと厚手のコートを着込んでいるというのに、外はまだかなり寒い。冷たい風が吹いている。僕は千種の家から西側にある、歩いて数分の位置にある園山さんのうちに向かった。


 園山さんのうちのガレージには園山さんの車が停まっていた。門を開けてフラットなポーチを抜けて、チャイムを押す。応答はない。僕が不思議に思っていると、鍵を開ける音がして、中から園山さんが濡れた髪を拭きながら顔を覗かせた。


「ああ、俊か。どうした?」


 こんばんはと告げる。園山さんは寒いから入れと、僕に玄関に入るよう指示する。僕はそれに応じて、玄関に入った。


「昨日は急に頼んでしまって、済まなかったな」


「いえ。僕にできることをしただけですから」


 謙遜をしたつもりはなかった。園山さんは安心と同時に寂しさを懐いたような表情で笑った。眉を下げ、ぽんと僕の頭に手を置く。


「本当に、助かったよ。ありがとう」


 僕は首を横に振った。室内は暖房が利いているからだろう。温かい。園山さんの優しさが沁みて、余計に温かく感じた。


「相談があるんです」


「相談?」


「大学生活に慣れたら、もう一度、バイトさせてもらえませんか?」


 園山さんは僕の頭から手を下ろした。ガシガシとタオルで髪を拭き、少し考えるようなしぐさを見せる。


「だめ、ですか?」


 少し難しい顔をしているように見えた。辞めると言ったのは僕だ。図々しいお願いだとは分かっている。けれどどうしても言っておきたかった。


「正直に言って、ちょっと焦っていたんだと思います。自分のことで精いっぱいになってしまうだろうから、他のことが疎かになって、園山さんたちに迷惑をかけるのが怖くて。せっかく朔夜とも仲良くなったし、園山さんからもいろんなことを教えてもらえた。僕にとって、とても貴重な時間でした。だから、佳乃さんが退院して、落ち着くまでの間、もう少しだけ、続けさせてほしいんです。もっと言葉を選べばよかったって、すごく後悔しました」


 お願いしますと頭を下げた。園山さんはなにも言わない。あんなにはっきりとできないと断ったんだ。きっと呆れられているだろう。そう思っていた僕の頭にぽんと大きな手が乗った。そうかと思うと両手でわしわしと髪を乱された。弾かれたように顔を上げた僕の目の前にあったのは、悪戯っぽく笑う園山さんの顔だった。


「ようやく本音を言ったな」


 僕は園山さんが言っている意味が解らなかった。したり顔だ。まるで僕がこう言ってくるのを解っていたかのように見える。


「こっちもそのほうが助かる。あの我が儘坊主は俊の作るごはんに味を占めて、俺が作るものをほとんど食わなくなったからな。その責任を取って朔夜の好物くらいレシピを教えてもらわないとな」


 にっと爽やかな笑顔を浮かべて、園山さんが言う。僕は心細くて悲しい気持ちだったが、その表情を見た途端に嬉しさが悲しみを吹き飛ばしてしまった。朔夜の行動が目に浮かぶ。それがいま目の前に見えているかのように笑った。


「また『パパが作るお粥さんは嫌だ』って、ストライキするんですね」


「そうそう。それでナオの真似をして菓子パンばっかし喰うんだ。すぐ腹壊すくせにな」


「朔夜はおなかが弱いですからね」


 誰に似たんだかと園山さんが笑う。ふとリビングからテレビの音が聞こえてくるのに気付いた。


「玖坂さん、いらっしゃるんですか?」


「リビングで猫と一緒に寝てるよ。揺すり起こしても起きない」


「そう、ですか」


 今日は外に出るまでにもたくさんの葛藤をしただろうし、外で様々な人に触れた。久しぶりに陽の光に当たって、外の風に触れて、少し疲れたのかもしれない。


「玖坂さんは僕のことを覚えていなかったわけじゃなくて、単純に分からなかっただけみたいです」


 解らなかったと、玖坂さんはそう言った。


「俊がすっかり大人びているし、ちゃんと歩いているからだろうな。驚いていたよ」


「僕も、最初は玖坂さんだってわからなかった。人って表情だけであんなにも変わるものなんですね」


「そりゃあね。だからナオも俊だと気付かなかった。お互い様だ」


 僕はそうですねと頷いた。本当にそうだ。あの公園で玖坂さんと久々に出会った時、2年前の玖坂さんとはギャップがあり過ぎて、解らなかった。


「玖坂さん、なにか言われてました?」


「ああ、飛海さんに会ったって言っていたよ。個展で色んな作品を見てきたって。俊があの時の男の子だってわかって、納得がいったらしい。いまどうしているのか、気になっていたみたいなんだ」


「僕のことがですか?」


「ちゃんと歩けているだろうか? 燻ってはいないだろうか? って。ナオが短期間で気を許す相手なんてあんまりいないから、俊のことを友達のような感覚でみていたのかもしれない」


 そう言われてどきりとした。それ2年前のあの日、玖坂さんから言われた言葉だったからだ。自分の鼓動が早まっていくのが分かる。訳も分からず緊張して、頬が赤くなった。


「あんなに牽制していたのは、たぶん、見透かされたくなかったというよりも、どう接していけばいいのかが分からなかったんだと思う。ナオが色々と失礼な態度を取って、悪かったね」


 そんなことはないという意味を籠めて、首を横に振った。緊張のせいかうまく言葉が出ていかない。一人でに舞い上がっているような気分だ。園山さんは僕の顔を見て、楽しそうに目じりを下げた。


「どうした、顔が真っ赤だぞ?」


「いや、なんていうか‥‥。覚えていないと思ったことを覚えておられたので、ホッとしたというか、驚いたというか‥‥」


 もごもごと口籠るような口調になってしまう。自分でも声が震えているのが分かる。視線が泳ぐ。園山さんはそれを笑って、僕の頭をぽんぽんと叩いた。


「そのうち俊が来てくれるようになるなら、ナオも朔も喜ぶよ。俺もそうしてもらえた方が助かる」


「はい。僕が来ない間、あまり無理をされないでくださいね。朔夜がまた『パパがニュウインしちゃう』って、火が付いたような勢いで泣きますから」


「あー、困るわ。あのギャン泣きはちょっと、精神的な破壊力がなあ」


 園山さんが苦笑する。


「そういえば、朔夜は?」


 僕がここに来たら、朔夜は真っ先に出てくる。今日はもう眠っているのかもしれない。


「朔は佳乃のところ。佳乃の体調もいいみたいだから、そうさせてもらった。だからナオと二人だよ」


「そうだったんですか」


「ナオはこのままじゃいけないという自覚をしたのかもしれない。なんていうか、とてもすっきりしたような顔をしていたんだ。パジャマ姿以外のナオをひさしぶりに見た」


 目を細めて笑い、園山さんが言った。そのセリフだけで園山さんが玖坂さんのことを気にしているのだと伝わってくる。園山さんのうちに玖坂さんが転がり込んでから二か月だ。僕が玖坂さんと出会うようになったのは今月からだが、その中でもパジャマ姿以外だったのは片手で数えきれる数しか見たことがない。何度か朔夜の迎えに連れ出しているが、残念なことにそういう日に限って園山さんの帰りが遅かった。


「いったい俊はナオにどんな手を使ったんだ?」


 園山さんが不思議そうに尋ねてくる。そんなに特別なことをしたつもりはない。あれはただの切欠に過ぎない。


「以前僕と千種がリハビリ中にもらった絵のことをお話ししましたよね? あれを玖坂さんに見てもらったんです」


「絵を? ああ、だから個展に?」


「はい。千種が画家を目指すきっかけとなったものや、その軌跡を辿るように、千種が描いた以外の様々な作品を展示させてもらいました。


 その中の一つに、その絵がありました。玖坂さんはそれを見て、とても驚いたような、複雑な表情でした。懐かしいものを見るように、感慨深い目をしていました」


 もしかしたら、玖坂さんはあの絵を知っていたのかもしれない。その言葉は、僕の心の中に留めた。


「なるほどな。スランプに陥った時には人の作品を見るとインスピレーションがわきやすくなるとも言うし、ナオにとってああいう場所は一番馴染み深いだろうからな」


「はじめはすごくおどおどしていました。でも途中から表情も、話し方も、少しずつ変わって、すっきりしたような顔をされていました」


「そうか。俊のおかげだよ」


「いえ。壁を破ったのは玖坂さん自身です。背中を押したのはあの絵で、僕はなにも」


 僕はただ、千種の個展に乗じて切欠を作れないかと考えただけだ。その話に乗ってきたのも、実際にあの場に足を運んだのも、玖坂さん自身の判断だ。だから僕はなにもしてない。


 園山さんはそうかと短く言って、とても穏やかな笑顔を見せた。


「いろいろ助かったよ。俊もあまり無理しないようにな」


「はい。柾に何度も同じことを言わせていると、そのうちにひどい目にあわされそうなので、自重します」


 園山さんは声を上げて笑い、「違いない」と目を細めた。


「お世話になりました」


 僕は頭を下げた。「こちらこそ」と、園山さんの声が続く。園山さんの顔を見たら泣いてしまいそうで、僕は少し俯いたまま顔をあげなかった。


 なんだか、すごくさびしい。2年間ほとんど毎日続いていた生活が一転してしまうのかと思うと、妙な気分だ。実感がわかない。それだけ園山家に馴染んでいたのかもしれない。僕はこみ上げてくる気持ちを飲み込んで、もう一度園山さんに頭を下げて、踵を返した。




 園山さんのうちから西に3分ほど歩くと、このあたりでは一番品揃えのいいコンビニがある。そこで諭の要望通りコーラとチーズケーキを購入し、千種の家に戻った。


 千種のうちの玄関に入ると、途端に体が熱くなった。室内は相当温度が高い。逆にそれ程外が寒かったのかもしれない。玄関でコートを脱ぎ、マフラーを外しながらリビングに入ると、顔を真っ赤にさせた諭がいた。


「シュンペーちゃん、おかえりーっ!」


 嫌にテンションが高いし、やけに顔が赤い。


「俊、近付くなよ。キス魔様が御光臨なさった」


 いつもにはない笑い方をしながら千種が言う。僕は怪訝そうな顔で二人を見た。テーブルの上にはチューハイの缶が並んでいる。柾が飲みそうにないタイプのものだ。向かいのソファーで悠々とコーラを飲んでいる柾を睨む。柾は僕の視線に気付くと、肩を竦め、少しだけ首を斜めに傾けた。


「俺のせいじゃない」


「止めろよ」


「俺が壮ちんと話している間にこうなっちゃったんだもの」


 知らないわよと柾が不満げに言う。壮ちんというのは柾の専門学校の時の同級生で、ともゑの一人息子だ。某百獣の王芸人に似ていることからダイレクトな綽名がついているらしい。


 なんだか嫌な予感しかしない。諭はチューハイのプルタブを引き、勢いよくそれを口に流しこむ。隣で千種が馬鹿がいると笑っているのを見て、こいつらは相当酔っているなと直感した。柾の後ろに逃げ、こちらに被害が及ばないように牽制する。


「シュンペーちゃん、こっちおいでよ!」


 既に呂律が怪しい諭が僕を呼ぶ。自分の顔が途端に嫌な顔になるのが分かった。


「絶対いやだ」


「なんでーっ!? 俺こんなにシュンペーちゃんのこと好きなのに!」


 諭がそう言った途端横で千種がげらげらと笑った。普段は絶対こんな笑い方なんてしない。


「お酒って怖い」


 僕がぼそりと言ったからだろう。柾はそれを鼻で笑ってコーラを一口。


「サト、俊平に手ぇ出したら今度こそ殺すぞ」


 とんでもなくドスの利いた声で柾が言った。一気に室内の空気が凍りつく。僕は柾の後ろにいて顔は見えないが、オーラだけでも尋常ではない迫力だ。柾の威圧でそれは収まったかのように見えた。けれどすぐに諭がばたばたと足をばたつかせながら笑い始めた。


「柾ちゃんどんだけなの!? 独占欲強すぎーっ!」


 千種がそれにつられて笑い始める。柾に凄まれてなお騒ぐとか、普段の諭では絶対にありえない。


「じゃあ俺はちーに慰めてもらおう」


「じゃあってなんだよ、じゃあって」


 馬鹿かと諭を詰っていたが、千種は諭につかまり、豪快にキスをされた。目の前で繰り広げられるそれは最早大惨事だ。ため息が出る。


「ずーっとこんなんなのよ。早く落ちればいいのに」


「だから柾がこっちに避難してたんだね」


「野郎にキスされる趣味はねえ」


 こっちからするのはいいけどねと、柾が言う。僕はそれをスルーした。


 それから小一時間後。諭の暴走が漸く治まった。千種は酔っていたとはいえそこまででもなかったらしい。それとは対照的に、諭はふらふらで、一人で座ることもできない状態だ。青い顔をしてソファーに横たわっている。


「馬鹿じゃないの?」


 白い目を向けながら諭をなじる。諭はううっと小さく唸って、僕の方に手を伸ばしてきた。


「水をくれ」


 諭の手は暑い。僕は予め用意していた冷却シートのフィルムを剥がし、諭の額に思いきり貼ってやった。


「痛いっ、やめてっ! 頭が割れそうに痛いんだからっ!」


「自業自得だよ」


 冷たく言って、ありあわせの材料で適当に作った味噌汁をテーブルに置く。諭は不思議そうにそれを眺めている。


「お酒を飲んだ後は味噌汁か梅干し湯。酔い醒ましにもなるし、塩分を効果的に摂取できるからちょうどいいんだよ」


「あー、ひどい目に遭った」


 千種が味噌汁を啜りながら言う。諭に持ってきたものだ。


「あっ、俺のっ」


「俺にも半分ちょうだい。お酒飲んだら寒くなってきた」


「千種が明日飲めばいいと思って、多めに作っているから、まだあるよ」


「マジ? じゃあ諭、自分で注いで来い」


「やだーっ、一歩も歩けない」


 言いながら諭がうっと唸って口元を押さえた。僕は慌てて洗面器を口元に近付けたが、諭は手で大丈夫と合図をした。諭の背中を軽くさすってやる。顔が青い。随分気分が悪そうだ。


「調子に乗って飲むからだよ」


「だって柾ちゃんはおいしそうにぐいぐい飲んでるからさあ」


「柾はザルの上をいくワクだし、そもそもクォーターだし、ほぼ毎日浴びるように飲んでいるから強いだけ。普段お酒を飲まないくせにチューハイ5缶も開けたらそうなるよ」


 諭に苦言を呈すが、諭はへらりと笑うだけだ。絶対に反省していない。


「千種もだよ。調子に乗ってお酒飲んだりしないでよ」


「はいはい、以後気を付けまーす」


 かなり軽い口調だ。聞き流す気満々なのだろう。僕は別にいいけどとそれ以上取り合わず、立ちあがった。


「どこ行くの?」


 諭が寂しそうに尋ねてくる。


「どうせうちに帰れないだろ? 毛布かなにか、掛けるものを持ってくる」


 そう言って、僕は千種のアトリエに入った。アトリエの中にあるクローゼットには、来客用の布団がいれてある。大抵諭か僕しか泊まらない。千種のおじさんが戻ってきた時には、きちんと布団を持って帰ってくるのだ。


 アトリエの奥の壁には、玖坂さんの絵が飾ってある。窓の前に広く設けられているスペースに飾られているのは、千種がもらってきたあの絵だ。僕はその絵を見ながら、玖坂さんの言葉を考えていた。


 「あの子」というのは、この絵のことなんだろうか? 玖坂さんは絵を描くのがとても好きみたいだし、性格的にそう表現しても不思議ではない。もしこの絵のことではなくて、諭がさっき言っていた人のことだとしたら、――。


 そこまで考えて、僕は詮索するのをやめた。想像など下世話でしかないからだ。


 僕はその絵に小声でありがとうございましたとお礼を言ってから、クローゼットの中から布団と毛布を取り出し、千種たちの元へと戻った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る