003.
玖坂さんは約束の時間には現れなかった。想定内だ。きっと玖坂さんはあらゆることを懸念材料にして、自分が外に出なければならない理由を模索しているに違いない。だから敢えて13時と言った。午後からなら多少は緊張が解れ、気持ちの波が和いでいると思ったからだ。
僕が時計を見たり、人の出入りを気にしていたからだろう。危うく千種に「なにを隠しているんだ?」と勘付かれそうになったけれど、なんでもないとごまかした。
刻々と時間が過ぎていく。玖坂さんの性格上、すっぽかすことはしないと思う。そう思いはしたものの、時計を見上げて何となく不安になる。もう16時を過ぎているからだ。閉館は17時だが、16時半には表の看板を掛け変えるから、新規入場ができなくなってしまう。やっぱり迎えに行くべきだったかもしれない。少し気を逸らせてしまっただろうか。
僕は会館の様子を見に行くふりをして、入口へと視線をやった。見慣れた影があった。玖坂さんだ。リーフレットを持っているということは、諭からもらったのだろう。あの絵の遠目に眺めている。僕が見てもらいたかった絵だ。寂しげな目だった。その絵の世界観に引き込まれているというよりは、懐かしさに目を濡らしているようにも見える。
「こんにちは」
玖坂さんに近付き、声を掛けた。玖坂さんは肩を大げさに跳ねさせて、僕を見あげた。眉を顰め、不審そうに僕を注視する。いつもと違ってスーツを着ているから、わからないんだろうか? そう思った時、玖坂さんが僕だと気づいたように「ああ」と声をあげた。
「こ、こんにちは」
なんとなく気まずそうな顔だ。
「来てくださってありがとうございます」
玖坂さんの表情が、気まずそうなものから不思議そうなものへと変わる。約束の時間に遅れたことを咎めないのかと言わんばかりの顔だ。
「でもオレ、遅れてしまったのに」
「いえ。13時過ぎと言いました。大切なのは時間じゃなくて、来て下さったことです」
「どういう、ことですか?」
玖坂さんがそう尋ねてきたとき、タイミングよく千種の声がした。
「俊、悪いけどそろそろ表のプレートを架け替えてきてもらえないか?」
言いながら、千種が車いすを操作してこちらに寄ってくる。玖坂さんは僕越しに千種を眺めながら、ぽかんとしていた。千種はまだ気付いていない様子だ。
「誰と話しているんだ?」
玖坂さんも不思議そうに千種を眺めている。玖坂さんのことだ。きちんとリーフレットを見てはいないだろう。僕は二人を交互に見た。お互いが不思議そうな顔をしている。千種は僕の傍に車椅子を止めたはいいが、僕が他人と普通に話していることを不審に思ったらしい。
「知り合いか?」
僕は頷く。まだ気付いていない。千種があまりにも玖坂さんを見るからだろう。玖坂さんはやや逡巡するように視線を彷徨わせている。
「あ、あの」
玖坂さんが口を開いた。特徴のある少し高めの声に、漸く千種は得心がいったらしい。
「ナオさん!? マジで!?」
千種が突然周章狼狽したような声をあげて、身を乗り出した。僕は吹き出しそうになったが、堪えた。千種が慌てているのは久々に見る。いい気分だ。二人が僕を驚かせようと企んだ気持ちが分からないでもない。玖坂さんは何のことかわかっていないような様子で、不安そうに僕を見上げた。
「うん、玖坂さん。“偶然”市民会館の前を通りかかったみたいで」
閉館前だということもあって、館内には数人しかいない。その人たちはもう別のスペースに行ってしまっているし、16時半をすぎたから、受付の人は新規入場を断るだろう。だからこのまま話していても問題はない。
千種は嬉しさと気恥ずかしさが織り込まれたような温かい笑顔を浮かべた。
「おひさしぶりです。ずっと会いたかったんです、あのときのお礼をもう一度言いたくて」
感極まったような声だった。涙ぐんでいる。僕は千種の肩に手を置いた。千種が個展を開かなかったら、こうはならなかった。僕は思いつかなかった。これは千種の判断のおかげなのだ。
「あの、お礼、って?」
訳が分からないというような顔で、玖坂さんが僕に助けを求めるような視線を向ける。玖坂さんは千種のこともよくわかっていないようだ。2年という歳月のなかで、僕も千種も成長している。見た目だけでなく、内面も以前とは違う。どうしても払拭できない部分はもちろんあるが、それでも、あの時とは表情が違うだろう。分からなくても仕方がない。
「アトリエのお礼ですよ。2年前、ナオさんと園山さんにバリアフリーのアトリエを作って頂きました」
千種が言うと、玖坂さんは目を白黒させて、また僕を見上げた。
「飛海、さん?」
千種が元気よくはいと返事をする。
「ここの、作品も?」
千種は頷いて、瑞々しい笑顔を浮かべた。
「俺の作品です。俺が画家を目指した経緯と、軌跡を辿るような展示方法にさせてもらっています。まだナオさんに見せられるほどじゃないんですけどね」
はにかむように笑いながら千種が言った。玖坂さんは呆然とした様子で、千種と僕とを交互に眺めている。
柾のいう通りかもしれない。僕も、そして千種も、ナオさんに出会った2年前とはまるで変わって見えて、久しぶりに会う人にはわからないと言われると、それもそうかと納得せざるを得ない。なにせ僕はずっと車いすだったし、千種ももっと表情が暗かった。僕よりも立ち直りが早かったのは、千種には絵を描くという特技があったからだと思っている。僕が立ち上がらなければと思ったのは千種よりももっと後だし、それでも何度も挫折しかけた。その度に僕を鼓舞してくれたのは、玖坂さんと、あの絵だ。
「あ、あの、あそこの絵は?」
玖坂さんが奥のコーナーの絵を指差して、千種に尋ねた。あのコーナーにあの絵を置いたのは、一番目につきやすい位置だからだ。自分の絵よりもあの絵を優先したのは、千種の気持ちが反映されている。
「あそこの絵は、俺が入院していたときにもらったんです。
名前は聞きそびれたから分からないんですけど、俺がいまこうして絵を書いていられるのはその人のおかげでもあるので、勝手に展示させてもらったんです」
「そう、ですか」
玖坂さんはそう呟いて、その絵に視線をやった。なんだか感慨深い表情で眺めている。そうかと思うと、玖坂さんはふうっと、まるで胸に閊えていたなにかを吐き出すように、息を吐いた。
玖坂さんは遠目にその絵を眺めていた。僕たちと話す前とは違っている。明らかに視線に生気が宿っている。徐々に強い力が宿る眼差しを見ていたら、自分まで嬉しくなってきた。千種が僕を呼んだ。僕は玖坂さんに視線を落としたままで返事をする。
「名波さんと話してくるから、あとは頼んでもいいか?」
「うん、プレートも架け替えておくよ」
僕の腰に千種の肘が入った。何度も軽く小突くようにしてくる。
「あ、リーフレットとかも回収しておくね」
わざと恍けると、千種は僕の横で不満げな息を吐いた。
「お前、知ってただろ?」
千種の目は少し怒っている。出し抜かれたことに対する不満だろう。
「僕はやられたらやり返す性質だけど、なんのことだかさっぱり」
敢えてこれは偶然だと主張する。
「とぼけるな。ずっと入口を気にしていたじゃないか。誰を待っているのかと思ったら、まさかナオさんとは」
「だから違うって。偶然だよ。そうでなければ必然ってやつ」
千種は僕を少し睨んだ後、ふうっと溜息を吐いて、もう一度僕の腰を殴った。僕が口を割らないと思ったのかもしれない。
「っとに、時々悪い奴だよな、おまえは。俺が驚いたのを楽しんでたろ?」
「お互い様だよ。僕だって千種が個展を開くことを知らなかったし、驚いたのを諭と二人で笑ったじゃない」
そう言ってやると、千種はふんと鼻で笑った後、破顔した。
千種は僕に「お礼に旦那との仲直りを手伝ってやるよ」と言って、車いすの向きを器用に変えると、管理人室があるブースの奥へと向かっていった。
「あの絵から僕たちは何度も力をもらいました。不思議な絵なんです。苦しいときに、不思議と背中を押してくれるような。僕と千種がここまで来られたのは、あの絵をもらったおかげだと思っています」
その絵を目に焼き付けるかように玖坂さんが眺めている。その頬に涙が伝っているのが見えた。尊いものを見ている時のような優しげな目からは、次々と涙が溢れてくる。玖坂さんはそれを袖で拭うと、ふうっと息を吐いて、笑った。
「ここで個展が開かれるなんて、知りませんでした。教えて下さってありがとうございます」
いつもの玖坂さんの話し方とは違った。しっかりとしている。もう一度その絵に向けられた目はとても晴れやかで、愛おしそうで、見ている僕まで切なくなった。
これはある意味で成功なのかもしれない。千種に関しては玖坂さんがここに現れたことが信じられないというような顔をしていた。それに、玖坂さんの表情も、今朝と、あの絵を目にしてからでは、違っているように見える。
「玖坂さんに見て欲しかったんです。玖坂さんのおかげで千種がまた絵を描こうっていう気になってくれた。頑張ろうっていう気になってくれた。ずっと目標にして頑張っていたから、貴方がここに来てくれただけで、それだけでいいんです」
玖坂さんに対するフォローは僕にはできないけれど、これをきっかけに糸口を辿れたら。少しでも立ち直る力になれたら。その時に初めて僕のふたつめの目標が達成されることになる。
そろそろプレートを架け替えてこなければならない。玖坂さんと離れるのは名残惜しい。入口を気にしてみたが、諭はいない。千種に呼ばれて行ってしまったのだろう。すみませんと断ってから、入口へと向かった時だ。玖坂さんが僕の腕を掴んだ。
玖坂さんはなにも言わない。どう言おうかと考えているように、言葉を整理しているかのように、黙っている。
玖坂さんの目に涙が滲んでいるのが見えた。僕の袖口をぎゅっと握りしめたまま離さない。肩が震えているのは気のせいではないだろう。
「玖坂さんは、知らないだけですよ。貴方がどれだけ僕の支えになってくれたか」
それを見ていたら、言うまいと思っていた台詞がこぼれていた。
玖坂さんが僕を見上げる。大きな瞳に涙が浮かんでいる。玖坂さんは僕を見て、とてもホッとしたような表情で笑った。
「もう、車椅子は要らないんですね」
その台詞に、僕はなんだか気恥ずかしくて、玖坂さんから顔をそむけた。覚えていなかったわけじゃなくて、柾のいうとおりで解らなかっただけなのかもしれないと思ったら、小さなことでしょげていた自分がバカみたいに思えてきたからだ。
「玖坂さんが言ってくださらなかったら、たぶんいまだにリハビリしていなかったと思いますけど」
玖坂さんはきょとんとして、しどろもどろに「え? お、オレ、なにか、言った‥?」と尋ねてきた。
その台詞に意気阻喪する。けれどなるべく平然を装った。玖坂さんのあのときの台詞は、決して玖坂さんが狙って言ったものではなくて、ある意味で本音だからなのだろう。覚えていないということは、玖坂さんにとってとてもありふれたものだと思うからだ。
「ご、ごめんなさい。オレ、たぶん興奮していてなにを言ったの‥‥」
「気にしないで下さい。僕が覚えていますし」
「で、でもっ」
「いいんです。玖坂さんのおかげですべてが始まったようなものなので」
食い下がってくる玖坂さんにそう言うと、玖坂さんは少し残念そうに眉を下げて、頭を抱えた。
さっきまで玖坂さんが眺めていた、あの絵に視線を向ける。照明のおかげなのか、個展用のレイアウトの効果なのか、千種の部屋に置いてある時とは表情が違って見えた。それはもしかしたら、玖坂さんがいるせいなのかもしれない。僕と千種にとって、あの絵と、そして玖坂さんと園山さんが作って下さったアトリエがなければ、前に進むということは有り得なかったのだから。
「もし玖坂さんがよければ、ときどき公園で話しませんか?
明日から園山さんの家に行かなくなってしまうけれど、千種の家には度々行くので。今度は僕が玖坂さんの力になりたいと思っています。次に玖坂さんにお会いしたら、言おうと思っていたんです」
僕が言うと、玖坂さんは目に涙を浮かべたまま、頷いてくれた。少し目を閉じて、大きく息を吐く。目じりに溜まった涙を拭った後、玖坂さんが僕を見上げた。
「ありがとう」
「え?」
「飛海さんと、あの子に会わせてくれて」
僕はなんだか恥ずかしくなって、小さく頷くだけに留めた。奥から千種が呼んでいる。僕は玖坂さんにそろそろ閉館時間だからと声を掛け、表のプレートを架け替えるためにその場を離れた。
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