rapport

 千種が個展を開いてから、一か月半が経過した。僕と諭と千種の関係は、以前に比べいままでどおりに戻っていると思う。ただ、あくまでもそう思うだけかもしれない。僕に関してはこちらからも連絡を取るようにしている程度だ。


 あれからここに三人で集まったのは一度だけだ。土日を合わせると今日を含め9回のチャンスがあったというのに、敢えてそうしなかったのか、タイミングが合わなかったのかは定かではない。昨日諭がここに来ていたと千種が言っていた。サークルの帰りに寄ったのだろう。昨日僕は園山さんのところに行く用事ができたから、諭と深い話をせずに大学の構内で別れた。


「よしみの人がもう一回取材させてくれって言ってるらしいよ」


 電話に出るために一旦玄関に出ていた柾が戻ってきた。よしみというのは以前取材にきた出版社のことだ。


「関西弁こてこてのあの人ならいいって言っておいてよ、旦那」


「ちー坊ならそういうと思って、そう伝えておいた」


 したり顔で柾が言うと、千種は柾に人差し指を向けた。柾も千種に人差し指を向けた。この二人は先月くらいから何故かこのアクションでコミュニケーションを取り合っている。


「そういえば、個展に協力をしてくれたCarpe-Diemって、園山さんが代表代理をやっている会社だったんだよな」


 千種がぽつりと言った。字面で見るのと実際に言葉で聞くのとは印象が違うが、僕も後になってから知った。


「そうだよ、先に言っておいてくれればよかったのに」


「俺もちー坊の個展に協力・後援するんだって知らなかったし。3月いっぱいで泣く泣く本社に戻った小槻ちゃんの最後のお仕事だったらしい」


 小槻ちゃんという名前は柾から何度か耳にしたことがあった。穂摘さんが本社に戻った代わりにこちらに派遣された人だ。


「小槻さんって、あのやたらおもしろい女性だろ? 園山さんのことをいちびりとかごんたくれとか言ってたじたじにする」


「そうそう。園さんのことは高校生の頃から知っているみたいだから、ものっそいいいコンビだったんだけどねえ。ちー坊がめっちゃありがたがっていたってのは、小槻ちゃん経由で園さんにも伝わってると思うよ」


「もうこっちには戻ってこないの?」


「さあ。上に直訴して穂摘さんが戻るまで居座ろうかとか言っていたけど、どうなるのかね。小槻ちゃんがいなきゃいないで本社も困るだろうからさ」


 よくわからないというにおいを漂わせて柾が言った。僕はCarpe-Diemが園山さんの会社だと気付いた時点で園山さんにお礼を言ったが、柾の言うとおり、小槻さん経由でこちらの気持ちは伝わっていた。『自分は関わっていないから、彼女に色を付けて伝えておくな』なんて悪戯っぽい顔で言っていたのを思い出す。


「小槻ちゃん、どうしてるかなあ。結局最後まで由樹に会えなかったっつって、相当しょげてたけど」


「由樹って、玖坂さんのこと?」


「入社したときにオリエンテーションをしたのが小槻ちゃんだったらしい。なにかと園さんとも馴染みが深いから気になるんじゃないか?」


 僕は千種と柾が話すのを聞きながら、アトリエの壁に飾られた絵に視線を向けた。

 海なのか空なのか、キャンバスいっぱいに広がる青は、まるで真っ白な鳥を包み込んでいるようにも見える。


 青系統のグラデーションと白だけという単調な色使いのはずなのに、不思議と冷たさは感じない。それどころか、木漏れ日のような温かささえ感じるようなものだった。


 千種の部屋をを彩る一枚の絵は、無機質で殺風景な室内をまるで違う世界に変えていた。その絵の中にいる鳥のように、鮮やかな青に包まれているような気持ちになる。


 絵画はその人の性格が現れるという。やわらかで、繊細で、それでもどこか強い芯を持った玖坂さんそのものと言った具合だろうか。僕は改めて彼の人間性に惹かれた。


 ナオさんがいなかったら、俺は絵を描くことを諦めていた。個展を開く前日、初めて千種がそう漏らした。ずっと払拭されることのなかった気持ちが晴れた。そんな表情に見えて、なんだかホッとしたのを覚えている。


「さて。俺は用事があるから、そろそろ行くわ」


 柾が立ち上がった。


「うん、ありがとう」


「どうせバイトのついでだし。日付けを跨がないうちに戻ってこいよ」


 言って、柾がショルダーバッグとジャケットを手にした。千種に挨拶をしてリビングを出て行く。僕はその背中に視線を眺めた。


 千種に本を返しに行くと言ったら、ついでだからとここまで乗せてきてくれた。今日はバイトがあると言っていたから敢えて頼まなかったというのにだ。ここ最近寒波が押し寄せてきたことで、僕の膝の調子が悪いことを見抜いていたかのようだ。


 ドアを開閉する音のあと、車のエンジン音が続く。


「相変わらず旦那は俊に甘々だな」


 くっくっと笑いながら千種が言う。


「そうでもないよ。足腰に気を付けろとか言いながら、右足を蹴ってくるんだよ」


「天邪鬼だからな。俊のことを可愛がっていることに変わりはない」


 僕はそんなことないよと否定した。僕のことを気に掛けてくれているのはありがたいし、素直に嬉しい。大学に通い始めてからは以前よりも口うるさく言われることはなくなったが、調子に乗って‥‥基このくらい大丈夫だろうと高を括って羽目を外しすぎると本気で怒られる。外出禁止令をナチュラルに破り、千種の個展の手伝いをしたり、玖坂さんのごはんを作りに行ったりしたことを、未だに根に持たれているのだ。「どうせ俺の好意を押し付けがましいとかいうんでしょ」と弁解しづらい言い方をして拗ねる。そこまでが柾の計算なのだと解ってはいるが、突っぱねると拗ねるし、素直に謝ると調子に乗る。絶妙なあしらい方はないものだろうか。


「そういえば」


 ふと千種が切り出してきた。


「あの絵を描いたのは、白鳥画伯のお弟子さんじゃないかって、諭が言ってたな」


 個展に飾らせてもらったあの絵を見ながら千種が言う。個展を終えた日だっただろうか。諭が急にそう言った。いままで何度もその絵を目にしているはずなのに、その時にはなにも言っていなかった。


 白鳥画伯はとても有名な日本画の画伯だ。水墨画、水彩画を得意とし、重要文化財の復元なんかもされていたのだと千種が言っていた。緻密で精巧な技が白鳥画伯の作品からうかがえる。とてもシンプルなものが多いが、美しさに目を奪われ、初めて見た時には本当に絵なのだろうかと疑ったくらいだ。言われてみれば、あの絵にはそういう独特な繊細さと魅力がある。お弟子さんが描いたという諭からの情報が本当なのであれば、なるほどとうなずける。


「お弟子さん、か。俺にはナオさんの絵に似ているように思えるんだけどな」


「でも、これをくれたのは女性だったんだよね?」


「そうだよ。色白で、小柄な人だった。恰幅のいい眼鏡のおじさんが来たのを覚えてるか? 白髪交じりで、上品そうな人」


 僕は頷いた。よく覚えている。よしみ書房の社長さんだと言っていた。


「あの人もナオさんの絵じゃないかって言っていたんだ。じつはナオさんが双子で、あの女性はナオさんの双子の姉妹だった、とか」


「まさか」


 そう否定したが、絵が似ているだけならまだしも雰囲気まで似ているなんて、なかなかできることじゃない。ナオさんの絵はそれほど独特で、だからこそ印象に残るし、引き込まれる。


「またナオさんに会えるなんて思ってもみなかった。この絵を崇めていた御利益かな」


 千種が悪戯っぽく言った。千種はほぼ毎日絵に手を合わせている。それを見て諭がどんだけ崇拝してるんだと揶揄していたが、この偶然は本当に絵のご利益なんじゃないかと僕は思っている。2年前は大阪を拠点にしていると言っていたから、東京に来ていると思っていなかったのだ。千種は車椅子からソファーに座りかえた。2年前に比べると随分と動作がスムースになったように思う。片手で膝にブランケットを掛け、ソファーの背もたれに凭れ掛かった。


「本当に俊もナオさんが東京にいたことを知らなかったのか?」


「園山さんのうちにいることは知っていたけど、東京にいつ来られたのか、居候するまではなにをされていたのかまでは知らない」


「やっぱりお前の悪巧みだったんだじゃないか」


 すぐにばれるような嘘を吐くなと千種が尖り声で言う。千種の個展に玖坂さんが訪れた時のことだ。未だにあれを僕の悪巧みだと疑っていたのかと思うと苦笑が漏れた。


「まあ、俺も俊を驚かせたんだから、おあいこだけどな」


 どこか大人びた表情で千種が言った。


「去年までは白鳥画伯の個展にも顔を出してたのは知ってる。それ以降ぱたりと情報がなくなってしまって、なにをされているのかなって気になっていたんだ」


「園山さんの話だと、半年くらい前にいままでの仕事も辞めたみたいだよ」


「これから本格的に絵に力を入れるつもりなのかな?」


「さあ、そこまでは分からない」


 僕は玖坂さんとそういう話をしていない。本当に他愛もない話をしていただけだ。千種はそれだけでも羨ましがるだろう。僕が敢えて玖坂さんの話をあまり振らないのは、玖坂さんが落ち込んでいたと知ると、千種が余計にでも心配するからだ。


「ナオさんはあれから、大阪に帰ったんだろ?」


「園山さんがそう言っていたよ」


「会わなかったのか?」


「うん。先月の中旬からまた園山さんのうちに行き始めた時には、もういなかった」


「ふうん。まあ、そのうち戻ってくると思う。そうしたらきっと、園山さんの会社で働くようになる」


「そうかな?」


「決まってるだろ。あの二人じゃないと出来ないことがあるんだよ。現にナオさんも園山さんも、ほかのコーディネーターじゃ気付かないことに気付いていたし」


 一緒に働くんじゃなけりゃ、俺がナオさんにくっついて技を盗みたいくらいだよと、千種が付け加えた。


「もしまた戻ってきたら、連絡するよ。お互いの刺激になるかもしれないし」


 そう言うと、千種は満足そうな笑みを浮かべた。


 僕はそろそろ帰るねと告げて、千種の部屋を後にした。


 千種のアトリエを園山さんと玖坂さんが作ってから、二年が経つ。それからまったく接点がなかったし、活動されている形跡を辿れるのは雑誌だけだった。千種の言うとおり、去年の個展以降活動をされている様子はなく、どこを拠点にしているのか、どんな仕事をしているのかさえ分からなかった。玖坂さんは昨今にしては珍しくSNSツールで近況報告をしない。去年の白鳥画伯の個展だって、まさにゲリラ的だったと千種が形容する。だから偶然とはいえ、また玖坂さんと出会えるとは夢にも思わなかったのは、僕も同じだ。


 あの公園の桜の木の下で玖坂さんに出会ったとき、表情の乏しさと雰囲気で、はじめは他人の空似かと思った。でもすぐに玖坂さんだと判った。あの桜の木を見る目が、優しさに溢れていたからだ。


 何故あそこにいたのか、何故あんなに落ち込んでいたのかは、聞いていない。玖坂さんに会えたと実感すればするほど、そんなことよりも玖坂さんと再会できたことが嬉しかった。そういうときっと、玖坂さんは苦い顔をして『そんな大したことじゃないのに』と言うだろう。僕にとっては人生が大きく転換するほどの出来事だったから、玖坂さんが思っている以上の影響があったことは間違いない。


 玖坂さんは、公園に息吹いている桜の花びらのように、余韻も残さずいなくなってしまった。


 5月中旬ともなれば、きれいに咲いていた公園のつつじは散って、いよいよ梅雨らしい季節になってきた。遊具のない、自然公園のような雰囲気を持つこの公園を通るたびに、玖坂さんのことを思い出す。


 入学式を終えた後、僕は園山さんにお礼をしに行った。そのとき玖坂さんはリビングのソファーで泥のように眠っていた。昨日からこうだと園山さんが笑っていたのを思い出す。肩を揺すっても、朔夜が上に乗っても起きないくらいだった。


 そんな玖坂さんを見て園山さんは、『長いこと抱えていた不安がひとつ減って、安心したんだろう』と言っていた。事実、その日の朝に見たものよりも、ずいぶんと穏やかな表情になっていたように思う。玖坂さんが大阪に帰ってしまったのはそのあとだ。


 園山さんの希望で、4月半ば頃から再び家政夫のバイトを始めたときには既にいなかった。元々いろんなところを飛び回るアクティブなヤツだったからと園山さんが言われていたから、あまり心配はしていない。でも、会えないと判ると気になって仕方がなかった。


 大阪に戻った理由は園山さんも知らないそうだ。いつもとおなじように会社に行ってくると声をかけて家を出て、本人も普通だったのに、家に戻ったら誰もいなかった‥‥と侘しそうに言われていた。


 『あのヤロウは猫より猫らしいから、恩なんて微塵も感じていない』と不満そうに漏らしていたのをみると、園山さんは本当に玖坂さんのことが心配でたまらないんだろう。


 そういえば、いつか柾が言っていたが、玖坂さんの気持ちが緩やかになるにつれて、園山さんも落ち着きを取り戻していたように感じていた。幼馴染だから。日本に戻ってきてからできた初めての友達だから。園山さんはそう言っていた。玖坂さんにとって、園山さんはどういう立場の人なのだろう? 幼馴染だと言っていたのは何度か耳にしたことがあるが、それ以外の形容をすることは滅多にない。僕たちがそうだったように、園山さんと玖坂さんの関係性にも少しずつ綻びの兆しが見えるといいのだけれど。


 僕はなにを余計なことを考えているんだろう。僕が口を出すことでも、心配することでもないのに。柾と一緒にいるうちに、柾のお節介がうつったのだろうか。なんて自嘲しながら、広場に出る五段ほどの階段を降りたときだった。


 玖坂さんと再会したベンチに、人影が見えた。月明かりに映し出されているのは、見覚えのある、懐かしいとさえ思う人だ。


 少し髪が伸びただろうか? やわらかそうな猫毛も、整った顔も、小柄な身体つきも変わらない。でも、散った桜を見上げる表情は、以前よりもスッキリしているように思えた。


 僕と玖坂さんの間を冷たい風が吹きぬけていく。


 マフラーに手袋までしている完全防備ですら少し寒いというのに、玖坂さんはニットセーターとジーンズ、それにワインレッドのマフラーだけという軽装だ。この寒い日に手袋すらしていない。


「こんばんは」


 おひさしぶりですと継ぎながら、話しかける。


 玖坂さんは一瞬間驚いたような顔をして、こちらに視線を向けた。まじまじと僕を見つめてくる。本当に、まじまじと。まさかもう忘れたのだろうか? さすがに三度目はショックだぞと思いながら様子を窺う。


 じいっと僕を見つめて、記憶を辿るように視線を彷徨わせる。もう少しで声を掛けそうになった時、漸く玖坂さんが軽く両手を合わせた。


「俊平くん」


 いまのは絶対に名前か顔か、どちらかを忘れていただろうと突っ込みたかったが、僕は苦笑しそうになるのを押さえ、頭を下げた。


 園山さんが玖坂さんを形容するのに、鳥頭とよく言っている。それはあながち間違いではないかもしれない。僕と玖坂さんが会わなかったのは、たったの一か月半だ。一か月半でこの反応なら、二年も会わなかったらわからなくても仕方がないように思えてきた。園山さんがよく言う「ナオだから」も、「ド天然だから」も、この人の性質に対する諦めからの台詞なんじゃないかと秘かに思う。


「どこかに行かれていたんですか?」


 少しだけ口元を緩めて玖坂さんが訊ねてきた。


 冷たい風が吹く。ふわふわと靡く髪を押さえ、鬱陶しそうに眉を顰めた。一ヶ月半前は結構ボサボサのままだったけれど、肩まで伸びている栗色のナチュラルパーマのような癖毛のある髪は、ヘアクリップで綺麗に纏められている。


「千種の家に本を返しに行っていました。少し話し込んでしまって」


 公園の時計はもう22時を回る頃だ。今週の初めに、週末は寒波が戻ってきて雪が降るなんて気象予報士が言っていたが、本当にそうなるんじゃないかと思うほど寒い。暖かい気候に慣れていたせいもあるのだろう。ひゅうっと甲高い音が鳴って突風が吹くたびにより強い寒さを感じる。


「ところで、玖坂さんはどうされたんです?」


 ベンチの背凭れに凭れかかっている玖坂さんに訊ねる。玖坂さんは僕にちらりと視線を向けたものの、うーんと少し考えるような声を出した。


「家出? っていうの?」


 足をぶらぶらさせながら、ぽつりと玖坂さんが呟く。


 僕が思わず聞き返すと、眉間に皺が寄った。


 僕は信じがたいセリフに我が耳を疑った。家出だなんて、そんなアクティブな発言を聞いたのは初めてだ。いつも自分からはあまり話さなかったし、ぼんやりしている感じが拭えなかった。


 けれど表情に感情が乗っているというとおかしな表現だけれど、一ヶ月半前とは明らかに違う。


 どこからの家出なのかと聞いてみたかったが、そうすると話が長くなりそうだった。ここにいるということは、園山さんのうちに来ていたという可能性は高い。なにも荷物を持っていないし、キャリーケースらしき影も見当たらないのだ。


 外はかなり空気が冷たい。この独特なにおいは、気象予報士の予想どおり雪が降り出しそうなことを暗示させる。


「もうじき雪が降るみたいですよ。それなのに、そんな薄着で出歩いたらだめですよ」


 吐き出した息はすぐに白く変わってしまう。こんなにも冷たい風が吹いている。風邪をひいてしまってもおかしくないだろう。


「送りましょうか?」


「いい」


「いい、って」


「帰らないから。絶対に」


 そう言って、玖坂さんは横においていたボトル缶を手にとって、一口すすった。


 それは玖坂さんお気に入りのミルクティーだ。ボトル缶飲料にしてはきっちりと紅茶の味が出ていておいしいのだと力説していた。けれどこんなに寒ければ既に冷えてしまっているだろう。身体を温めるにはふさわないはずだ。


 不意に、園山さんが言っていたことを思い出した。『ナオは頑固だから、一度言い出したら聞かない』、と。事実、玖坂さんは頑なな態度を崩そうとはしない。なるほどそのセリフは適当だと思った。


 もう5月中旬だ。肌寒いとはいえ、今週と同様の暖かさであればもう少しここで話すという選択肢もあっただろう。ほんの2,3日前までは、夜でも七部袖のTシャツで外をうろつけた程暖かかったのだ。気候の不安定さだけは全く掴めない。


 ヒュウッと高い音と共に冷たい風が吹きつけてきた。玖坂さんが小さなクシャミをする。ボトル缶を持つ手が震えている。一体どのくらいの時間ここにいるのだろうか? 僕は羽織っていたコートを脱いで、玖坂さんの肩に掛けた。


「隣に座っても?」


「どうぞ」――と、訝しげな顔で、玖坂さん。『園山さんの差し金なら話は聞かない』とでも言いたいのかもしれない。疑わしい視線を向けられている。苦笑が漏れたが、こんな顔をされたら仕方がない。


 玖坂さんの隣に腰を下ろし、どう水を向けるかを考える。園山さんのところに送るというのは選択肢としては間違っているし、かと言ってホテルを捜すというのも、いまからだと骨が折れる話だ。


 玖坂さんがずいっと僕の方に手を伸ばしてきた。腕にはぼくのコートが掛かっている。


「俊平くんが風邪ひいちゃう」


「これもコートです」


 言って、自分が着ているダッフルコート風のニットカーディガンの裾を引っ張りながら言う。ニットカーディガンとはいえ目が詰まっているし、メリノウールとかいう素材で作られているらしい。柾からのお下がりだ。身長が伸びる前に着ていたと言っていたが、かなり綺麗に使っていたことが窺える。


 玖坂さんの手が伸びてきた。僕のおなか辺りを撫でる。


「あったかい」


「僕の防寒は完璧です」


 寒いのも暑いのも苦手ではないから、いつもはここまで厚着をしていないのだが、今日ばかりは気象予報士と柾の言葉を信じてよかったと心底思う。玖坂さんは僕の方へと伸ばしていた腕を引っ込めて、もそもそとコートを着始めた。裏地付きのメリノレザーコートだから相当暖かい。正直少し暑かったから、前を開けっ放しにしていた。これも柾からのお下がりだ。玖坂さんには袖も丈も長すぎるが、手袋さえしていないから、防寒のためには丁度良いかもしれない。


 ぱらぱらと小雨が降ってきた。頬に当たったそれは相当冷たくて、玖坂さんが体を竦ませる。


 そろそろ22時を回ろうかというのに、それもこんな、いまにも雪に変わりそうな小雨がぱらつき始めた吹きさらしの公園のベンチに座っているなんて、自殺行為もいいところだ。それとなく玖坂さんの様子を窺うと、レザーコートに身を包んで気持ちよさそうに目を細めている。


「これから、どうされるんです?」


 玖坂さんは体全体を暖めるかのように、足まですっぽりとレザーコートの中に埋まってしまった。しまった。猫に炬燵を与えるようなものだったかと内心思う。体が少し震えている。このままいけば風邪をひいて、園山さんから文句を言われるパターンにまっしぐらだ。


「特に、考えてない。俊平くんは帰ってもいいよ」


 これ借りてもいい? と、玖坂さんが訊ねてくる。僕は苦笑しながら首を横に振った。玖坂さんの眉間に皺が寄る。不満を露わにして、唇を尖らせた。


「いくらなんでもここで一夜を明かすなんて、そんな無鉄砲なことはしないよ」


 そこまで考えなしじゃないと、玖坂さんがやや声を尖らせた。よっぽど寒かったのだろう。そう言いつつも、僕にコートを返す素振りを見せない。


「この辺りの地理、分かりますか?」


 僕は意地悪だ。玖坂さんがこの辺りの地理を把握していないことを解っていながら尋ねた。案の定玖坂さんはかなりの間を置いた後首を横に振った。


「インターネットカフェに行きたかったけど、スマホ置いてきたし、所持金もこれだけ」


 ごそごそとデニムのポケットからダミエ柄のミニウォレットを取り出して、その中身を手のひらに乗せた。70円しかない。僕は自分の目を疑った。


「いつもカードしか使わないから、お金持ってなくて」


 ぐうっと玖坂さんのおなかが鳴った。さすがにこれだけじゃコンビニでおにぎりを買うことさえできない。ボトル缶のミルクティーが130円だから、200円あればコンビニでコーヒーとドーナツが買えたんじゃないかとふと思ったが、この辺りの地理に疎い玖坂さんがわざわざ園山さんのうちを通り過ぎてまでそのコンビニに行かないだろうし、かと言って表通りを隔てた向こう側にある別の系列のコンビニがあることも知らないだろう。あそこはこの半年くらいの間に出来た。元々はお好み焼き屋だった為、駐車場も広く、人の出入りが多い。この公園からも、千種の家からも、そちらのコンビニのほうが近い。けれど僕が困った時以外こちらのコンビニを活用しないのは、嫌になる程人が多いからだ。


 また玖坂さんのおなかがぐうっとなる。玖坂さんはおなかを撫でて、冷たいミルクティーを飲み干した。ぺろりと唇を舐める。ふうっと息を吐いて、空を仰ぐ。ぽつぽつと降り始めた雨に目を伏せたあと、ぶるぶると頭をふるった。


「俊平くん、帰っていいよ。本当に風邪ひいちゃう」


「それはこっちの台詞ですよ」


 玖坂さんの唇はすっかり青くなってしまっている。顔色だっていつも以上に白く、寒さのせいで頬が真っ赤だ。こんな状態の玖坂さんを放って家に帰ることはできない。きっと玖坂さんは僕が帰った後もここにいるか、どこか適当に暖を取れる場所を捜して彷徨うのだろう。ろくに地理も分からずそんなことをしたら、また警察沙汰になりかねない。


 玖坂さんがクシャミをした。さっきよりも震えている。


「よかったらうちに来ませんか?」


 つい、言ってしまった。玖坂さんは弾かれたように顔を上げて、まじまじと僕の顔を見てくる。


「断っておきますが、園山さんから“泊めてやれ”とは言われていませんよ」


 玖坂さんのその表情の意味に気付いて、敢えてそう言ってみる。僕の読みはどうやら外れてはいなかったらしい。


「‥‥ほんとうに?」


 訝るように玖坂さんが言った。


「“人に迷惑を掛けるから戻ってこい”って言われるんじゃないでしょうか。園山さんの性格なら」


 そう言うと、玖坂さんは納得と言わんばかりの表情になった。園山さんと幼馴染というくらいだから、きっとあの人の性格を熟知しているんだろう。


 それでも、玖坂さんは踏み切れない様子で、逡巡するように、僕と地面とに交互に視線を流していた。


 特になにを言うわけでもない。もしかすると玖坂さんは断る理由を探しているのかもしれない。


 ぐうっと玖坂さんのおなかが鳴る。玖坂さんは両手でおなかを押さえたけれど、おなかまでもがそうしろと言っているかのようにぐるぐると鳴りやまない。


「行っても、いい?」


 おそるおそる。そういう表現がぴったり合うほど不安げに玖坂さんが言った。僕はもちろんと頷いた。玖坂さんが少し嬉しそうに表情を緩めた。玖坂さんがベンチから足を下ろし、すっくと立ち上がる。僕はそれを見届けてから、ベンチの背もたれに腕を掛け、左足に荷重をかけるようにして立ち上がった。


 公園の時計は22時10分を過ぎたところだ。バスはもうない。電車で二駅だが、アパートまで結構な距離がある。ゆっくり歩いても23時までには戻れるだろう。そう算段して、玖坂さんを誘った。

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Si vis amari,ama. 草刈絢衣 @kusakari_aya

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