002.

 夕方、僕は買い物を終えて、園山さんのうちに向かった。自分がいま住んでいるアパートからここに来るよりも、千種の家から来た方が近いのだ。スーツは千種の家に置かせてもらい、着替えてきた。


 千種の家は市民会館からも近い。東側。筋違いで、徒歩5分もかからない位置にある。園山さんのうちは市民会館から西側に位置しているが、路地を変えるとファーマーズマーケットがあったりと、利便性が高い。コンビニだってすぐ近くにある。


 合鍵を使い、玄関の鍵を開ける。僕がドアを開けた時、ちょうど階段から降りてきた玖坂さんと遭遇した。玖坂さんは僕を見るなり驚いたように目を見開いた。


「こんにちは」


 視線を彷徨わせながらなにかを言いたげにしていたけれど、俯いてしまった。


「こ、こんにちは」


 消え入りそうな声でそう言って、玖坂さんはそそくさとリビングへと向かっていく。なにか言いたいことがあったのだろうか。夕飯に食べたいものがあるのかもしれない。靴を脱いで、玖坂さんの後を追う。すると玖坂さんはリビングのドアの前でぴたりと足を止め、振り返った。


「あ、あし」


「え?」


「足、大丈夫なの?」


 前より引き摺ってると、玖坂さんが僕の右足を指差した。さすがに鋭いなと、僕は思わず苦笑した。


 玖坂さんが高校の時に看護を専攻していたというのは意外だった。血や傷口を見たらひっくり返りそうなイメージしかなかったからだ。玖坂さんにはいろいろな知識があるだろうから、ここでごまかす意味がない。


「大丈夫じゃないです」


 素直に告げると、玖坂さんは眉を寄せて、顔をあげた。


「‥‥怪我、ひどかった?」


 そう言ったあとで、玖坂さんが僕の頬に触れた。


「どうしたのっ!?」


 慌てたように玖坂さんが訊ねてくる。僕は思わず苦笑した。


「いや、これは。ちょっと、ケンカで」


「保護者さんとっ?」


 玖坂さんは涙目だ。自分の両頬に手を宛がい、どうしようどうしようと狼狽えている。自分のせいだとでも思っているのだろうか。半分以上は僕が柾に突っかかったせいなのに。


「ちょっと腫れているだけだし、すぐ治りますよ」


「でも」


 不安げに顔を上げている。両側に下ろされた手がきゅっと結ばれていく。


「仲直り、できた?」


 玖坂さんが気にしていたのはそこだったらしい。僕は困ったような顔のまま笑った。


「戻ってきたら、謝るつもりです」


 玖坂さんがホッとしたような顔をする。


「黙っていればいいのについ余計なことを言っちゃって、怒らせちゃいました。玖坂さんや朔夜のことで怒られたわけじゃないんです」


 本当だ。言わなきゃいいのに、どうせ思うように動かないんだからとか、自分でもろくなことを言わないと思う。人体はほぼ水で構成されているから、自分にとっていい言葉を掛けなければ余計に体調が悪くなると主張している学者に聞かれたら、だから君の足は動かないんだよととくとくと説教されそうなことを言い放った。結局僕が引っかかっているのはそこなんだ。思うようにならない。それで妙な焦燥感がある。やらなきゃいけないという強迫観念に駆られる。それじゃ意味がないのに。


「サポーターは?」


「今日はちゃんと両方付けてますよ」


 いつもは面倒だからと膝しかつけていないが、今日は足首をサポートするものも着けている。玖坂さんはうんうんと頷いて、リビングのドアを開けた。


 リビングはとても冷えていた。玖坂さんはいままで2階にいたのだろう。勝手知ったるように壁に設置されたパネルを操作し、床暖房を入れる。玖坂さんはソファーの背もたれに掛けていたポンチョを被り、ソファーに腰を下ろした。


「朔夜くんが心配していたよ」


「朔夜がですか?」


「俊兄が来ないって。聡一郎からはお前がいらんことするからだって怒られて、オレからも怒られて、しょげてた」


 玖坂さんが朔夜を怒ったのは意外だった。きっちりするところはきっちりしているらしい。僕が数日来なかったというのに、部屋の中は随分きれいだ。朔夜がいつも読んでいる本がきちんと本棚に入っている。


「いっぱいお手伝いしたら俊兄が来るかもしれないって言って、必死で片付けてましたよ。聡一郎が読みかけの本を置いていたら、すぐに本棚に直したりとかして」


 くすくすと玖坂さんが笑う。


「片付けから戻ってきた聡一郎が本が消えたって驚いていたのを見て、一人前に説教してました。『パパがいつも置きっぱなしにするからいけないんだ』とか言って。自分だっていつもお気に入りの本を山積みにしてるのに」


 その光景が目に浮かぶ。ダイニングのテーブルの上には大抵ぷーさんの絵本シリーズがずらりと置かれている。寧ろ園山さんのほうが小奇麗にしているイメージが強い。僕がいつも朔夜に言っていることを園山さんに言ってみたのだろう。


「御心配をおかけして、すみませんでした」


「い、いえ。オレはなにも」


「処置が適切だったからと言われました。まあ、原因は捻挫だけじゃなかったんですけど。炎症の程度を甘く見ていました」


 素直に告げると、玖坂さんは居た堪れないような顔をして、『痛みがあるときは安静にして下さいね』と、病院の看護師に言われたことと同じことを僕に言った。


「気を付けます。そういえば、新しい紅茶を買ってきたんです」


 リビングのテーブルの上に置いたエコバッグから、啓にもらった紅茶の缶を取り出した。玖坂さんはそれを見て、不思議そうに首を傾げた。


「友達の店で扱っている、すごく評判のいい茶葉らしいですよ」


「オレも好きだろう、って?」


「はい」


 玖坂さんは紅茶をよく飲んでいるし、イギリスにいたのならコーヒーよりも紅茶派だろう。しかもこのアッサムの茶葉は、啓の友人のツテでイギリスから直輸入の代物だ。以前少し分けてもらったものを置いていたら、ほぼ毎日飲んでいたから気に入ったんだろうと園山さんが言っていた。


「淹れましょうか?」


 僕と缶を交互に眺める玖坂さんに尋ねる。


「お、お願い、します」


 玖坂さんはかなりどもりながら頷いた。


 僕は玖坂さんをソファに座るよう促し、キッチンに向かった。お茶請けとして買ってきたメープルハニーのスコーンをお皿に乗せ、紅茶と共に玖坂さんに提供した。


 洗濯物を畳み終え、バスルームの掃除を終えて戻ってくると、玖坂さんはスコーンを食べ終えていて、ソファに座ったままブランケットを羽織っていた。評判通りおいしかったようで、満足そうな顔をしている。


「いまおやつを食べたばかりですけど、夕飯はなにがいいですか?」


「え、えっと。ラーメン」


「え? いや、楽でいいですけど、それじゃ元も子もないですよ。ラーメンばかり食べさせるなって園山さんから言われていますし」


 そう言って苦笑を返すと、玖坂さんは少し眉を下げて、首を傾げた。


「じゃあ‥‥オムライス」


「苦手なものはありますか?」


「え? えっと‥‥。グリーンピースと、‥‥ニンジン?」


「鶏肉は大丈夫ですか?」


「う、うん。平気」


「わかりました。じゃあ、少し待っていてくださいね」


 僕は笑いを堪えながら、キッチンに向かった。


 ニンジンとグリーンピースが嫌いなんて、朔夜みたいだ。それならミックスキャロットは使えないだろうし、材料がかなり少なくなってしまう。どうせならみじん切りにして混入してやろうと考えていると、玖坂さんがカウンター越しにのぞいた。


「でも、ニンジンは甘かったら食べられるよ。前に俊平くんが作ったニンジンのグラッセ、おいしかったもん」


「じゃあなるべくわからないようにしておきますね」


 そう告げると、玖坂さんは小さく頷いた。


 僕がオムライスとポタージュを作っている間、玖坂さんは暇なのか、ソファとカウンター前を行き来していた。音や気配でわかる。テレビを見るか、本を読むか、暇つぶしの方法はいくらでもあるだろうに、なぜか玖坂さんは僕の様子を観察していた。


「結構本格的なんですね」


 オムライスをお皿に盛りつけていると、カウンター越しに玖坂さんが話しかけてきた。まるで朔夜みたいな行動がおもしろくて、僕は思わず笑ってしまった。


「なっ、なんで笑うの?」


「すみません、つい」


 玖坂さんが不満そうな顔をする。玖坂さんに他意はないのだろうけれど、いろんな意味で可愛らしくて、つい顔が綻んでしまうのだ。


「お待たせしました」


 玖坂さんが席に着いたのを確認して、オムライスとポタージュスープを運んだ。ありあわせで作ったから味の保証はない。玖坂さんがわあっと声をあげるのを聞きながら、僕はナプキンの上にスープ用のスプーンとオムライス用のスプーンを置いた。


「どうぞ」


「あ、は、はいっ、いただきます」


 玖坂さんの肩が驚いたようにはねた。そのあと、玖坂さんはなにか言いにくそうに視線を彷徨わせて、かなりの間を置いた後、僕のパーカーの裾を掴んで、数回引っ張った。


「一緒に食べないの?」


「え?」


「どうせ、二人なんだし」


 玖坂さんの意図が解って、僕は頷いた。


 玖坂さんはいつも一人で部屋でご飯を食べるか、そうでなければ園山さんや朔夜と一緒だった。こんな風に、誰もいないリビングでご飯を食べるのは初めてなんだろう。慣れないと言いたげな雰囲気が伝わってくる。僕は玖坂さんに促されるとおりに、自分の分もテーブルに運び、席に着いた。


「ごはん作るの、上手だね」


 オムライス用のスプーンを手に取りながら、玖坂さんが言う。


「得意じゃないけど、好きなんです」


 僕がそう答えると、玖坂さんは意外そうな顔をして、「そうなんだ」と返してきた。


 得意じゃないというのは本当だ。作るのは好きだけれど、切り方がなってないとか、味付けがどうとか、いつもおじいちゃんから言われていた。普通に考えたら何十年も作り続けている人と同じ味を出せるわけがないのだけれど。柾や園山さんたちからは謙遜と言われるけれど、僕の中では謙遜ではなく、事実なのだ。


 玖坂さんに冷めないうちにどうぞと促すと、玖坂さんは嬉しそうに口元を綻ばせて、頷いた。




 眩しくて目が覚めた時、僕は目の前の光景を疑った。


 どうも園山さんのうちでそのまま眠ってしまったらしい。朔夜が使っているお昼寝用のピローが頭の下に置かれているのに気が付いて、あたりを見回すと、向かいのソファに玖坂さんが眠っているのが見えた。


 携帯で時間を確認すると、7時半前だった。玖坂さんはまだ眠っている。朝食を作っておけば、玖坂さんはそのうちに目を覚ますだろう。僕はなんとなく重怠い体を起こし、キッチンに向かった。


 玖坂さんは甘いものが好きだ。サンドイッチも甘いスクランブルエッグが入ったものを好む。以前僕がフレンチトーストを朔夜用に作っていたら、涎を垂らしそうな勢いでじっと注視していたのを思い出した。今日はフレンチトーストにしてみよう。卵は昨日買ってきたものが残っている。冷蔵庫を開け、材料を取り出す。生クリーム。卵。ココナッツオイル。メープルシロップ。大抵のものが揃っている。玖坂さんがここに来てからは甘いものをよく買うからなのか、近所のマーケットで『奥さんが退院されてよかったですね』と声を掛けられるんだと、園山さんがぼやいていたのを思い出す。


 シンク下に収納されるタイプのキッチンボードから大きめのバットと泡だて器を取り出す。バットに砂糖と生クリームを混ぜたものを入れ、予め切っておいたパンを浸す。パンが浸る間に洗濯機でも回してこようと思い立ち、バスルームに向かった。


 どのくらい経っただろう。焼きあがったフレンチトーストをお皿に乗せ、ミルクを温めていた。そろそろ千種の家に行かないといけないと考えていると、玖坂さんが唸る声が聞こえてきた。カウンター越しにリビングを覗く。玖坂さんがソファの上でもぞもぞと体を動かしているのが見えた。


「おはようございます」


「お、おはよう、ございます」


 僕が声を掛けると、玖坂さんが驚いたように答えた。目を擦りながらあたりを見回している。玖坂さんの寝起きをよく見るわけではないけれど、なにかいつもとは違うような気がした。


 少しして、玖坂さんは小さく首を横に振って、体を起こした。そしてソファに座り直して、ブランケットを膝に掛けた。少し肌寒いだろうか。室温は21度。昨日暖房を掛けっぱなしにしていたからか、空気が乾燥している。玖坂さんは喉に違和感があるのか、2,3度小さな咳をした。


「すみません、途中で寝てしまったみたいで。記憶がなくて」


 空笑いをしながら、玖坂さんの前にフレンチトーストが乗ったお皿を置く。玖坂さんは少し困ったような笑みを浮かべ、首を横に振った。


「お、オレが、服を掴んだまま眠っちゃってて」


「え、そうなんですか? それ以前の記憶もちょっと曖昧なんですけど」


 言いながら記憶を辿る。一緒にオムライスを食べて、食器を食洗機に掛けたのまでは覚えている。そのうちに玖坂さんが食い入るようにイタリアン特集を見ていたから、今後の参考にと見ていた。そのあとの記憶がない。普段落ち着いてテレビを見る習慣がないものだから、ソファーに座って寝落ちしたのだろう。恥ずかしい。


「朝食を食べ終えたら、シンクに置いておいてください。夕方また来ます」


「あ、あのっ」


 玖坂さんが僕のシャツの裾を掴んだ。言い辛そうに俯いている。


「夕方のこと、だけど」


 まるで声を絞り出すようにして、玖坂さんが言う。最後のほうは尻つぼみになっていた。夕方は来なくていい。寂寞につつまれたその言葉は、玖坂さんの本心なのだろうか。僕は侘しさを懐いた。今日で最後。大学に通い始めてから、その生活に慣れるまで、どのくらいかかるかが分からない。ひょっとするとさほど変わらず、すぐにでも復帰できるかもしれない。でも、そうじゃないかもしれない。全くここに来なくなるわけではない。でも、いつものように僕が世話を妬けるのは、今日が最後になるかもしれないのだ。次に僕がここに来るまでには、玖坂さんは立ち直って、園山さんのところから出て行ってしまっているかもしれない。


「あの」


 僕があまりに無言だったからだろう。玖坂さんが声を掛けてきた。


「ち、違うんですっ。来てほしくないって言うわけじゃなくてっ、あのっ、えっと」


 玖坂さんが狼狽えながら必死に言葉を捜している。うーうー言いながら両手を頬に宛がって、ソファーの上で蹲る。そうかと思うと、顔を真っ赤にさせて、上目づかいで僕を見た。


「なんか、モヤモヤする。よくわからない。なんて言っていいのか、わからない」


 得体の知れない感覚に悩まされているのは、僕だけじゃないようだ。僕は玖坂さんのはす向かいのソファーに腰を下ろした。


「玖坂さん」


 玖坂さんが顔を上げた。不安げに僕を見ている。僕は意を決して、自分の言葉を伝えることにした。


「玖坂さんには伝えていませんでしたが、僕、ここに来るのが今日で最後なんです」


 玖坂さんは驚いたような顔のまま固まった。信じられないとでも言わんばかりの目だ。目が潤んでいくのが分かる。


「お、オレが、変なこと言ったから?」


 潤んだ声のままで玖坂さんが言う。僕は首を横に振った。


「4月から大学に通うんです。お金をもらっている手前、中途半端なことはしたくない。慣れないことを始めるのでもしかすると急に休んでしまったり、疎かになったりするかもしれない。だから僕の希望を徹してもらいました」


「大学に?」


「はい。本当は言葉を選ぶべきだったと反省しているんです。辞めるんじゃなくて、休ませてもらう。大学に慣れたら復帰する。そのほうが僕にとっても、園山さんにとっても、複雑な感情を懐かなくてよかったかなって」


 園山さんはきっと、僕から玖坂さんに伝えると思っていたのだろう。けれど僕は言わなかった。今日まで黙っていた。玖坂さんの反応からは、園山さんが玖坂さんに伝えていないことが窺える。それはそうだろう。僕は自分のことは自分でするスタンスでやってきた。こういうところを園山さん頼みにするタイプではない。そこはきっちりしておかなければ気が済まない性質だ。でも玖坂さんには言えなかった。何故だか理由は分からないけれど、言えなかった。


「また、ここに来る?」


 まるで縋るような目だ。目を逸らせなかった。確かなことは言えない。そうとだけ伝えた。今日が最後だからこそ、自分の気持ちをきちんと言っておかなければならない。そうしなければ後悔するだろう。他のどの気持ちよりも、蔑ろにしてはいけない。僕は玖坂さんを呼んだ。


「以前僕に時間を下さると約束をしたのを、覚えてますか?」


 玖坂さんはきょとんとした。どこか慌てた様子で2,3度頷き、カレンダーを確認する。


「最後の、土曜日」


「今日です」


 玖坂さんはかあっと顔を赤らめた。分かりやすい。忘れていたか、日付けを勘違いしていたかだろう。僕は苦笑して、外に視線をやった。


「今日はすごく天気がいいです。こういう日には最適な日です」


「最適?」


「僕が時間を取ってほしいと言ったのは、一緒に行きたい所があるからなんです」


「い、行きたい、ところ?」


「はい。ぜひ見て頂きたいものがあります。そのためには外に出る必要がある。前に朔夜を迎えに行ったときのことを、覚えていますか?」


「は、はい」


「あのとき、どんな感じでした?」


「どんな、って。あの。思ったよりは、怖くは、なかった、です」


 たどたどしく玖坂さんが言う。あれから何度か一緒に朔夜を迎えに行った。朔夜がふざけて物干し竿で遊んだのは、玖坂さんが僕と一緒に迎えに来たことが嬉しかったのかもしれない。


「じゃあ大丈夫ですね」


「俊平くんは、なんでオレが外に出ることにこだわるの?」


 ほんの少し不満を懐いたような顔で玖坂さんが言う。こだわっているように見えたのは間違ってはいない。千種の個展に向けて、玖坂さんが一人でも外に出られるよう仕向けてきたからだ。


「春だからです」


「‥‥だから、なんで?」


 玖坂さんの眉間に皺が寄る。僕の言っていることの意味が解らないと言わんばかりの表情だ。


「春になると動物達は冬眠から醒めてきます。鬱屈した洞穴の中から出てきたとき、冬眠していた動物たちは先ずなにをすると思います?」


「オレ、冬眠していたんじゃないですよ」


「でもそれに近いって園山さんが言われてましたよ」


 玖坂さんが思いきり眉をひそめて、舌打ちをして、どこかの言葉でぼそりと呟いた。玖坂さんでもこんな反応をするんだと笑いそうになる。


「さっきの話、だけど」


 少しの間を置いて、玖坂さんが話しかけてきた。


「オレが冬眠していた動物なら、日の光に当りたくないからもう一度入り口にふたをします」


 予想通りの玖坂さんの答えに、僕は思わず笑ってしまった。


「僕なら、背伸びをすると思います。ずっと狭いところにいたんですもん。太陽の光も心地良いし、外の空気も一層美味しく感じるだろうし」


「‥‥ふつうは、そうでしょうね」


「だから、春になると少しだけ解放的になると言われているみたいです。開け放つほうじゃなくて、自由になる、という意味のほうの。


 冬は寒くてなかなか窓も開けられないけれど、暖かくなったら少しでも外の空気に触れたいし、鬱積していた部屋の中のものも、外に出したくなります。


 布団を干したり、冬物のコートをクリーニングに出したり。そんなことをしながら徐々に春の装いに変わっていく。ほんの少し、気分も変わる」


「こころの、クリーニング‥‥ってこと?」


 玖坂さんの問いは実に的確だ。解放的になるのは様々な理由があり、心理的にそうなりやすい傾向にあるのだと以前本で読んだことがある。おそらく玖坂さんもその本を知っている。表現しているフレーズが全く同じだからだ。僕は壁時計を見上げて、時間を確認した。


「いまが8時だから、13時ごろに、市民会館近くの公園にどうですか? 道がわからなかったら迎えに来ます」


「ひ、ひとりで、大丈夫」


 玖坂さんがとぎれとぎれに言う。あまり乗り気ではないのが分かったが、本当に嫌なら嫌だと言うだろう。


「じゃあ、13時ごろに」


「あ、あの、場所は?」


「公園に来たらすぐにわかりますよ」


 そう告げると、玖坂さんは少し困ったような顔をして、頷いた。


 この近くに公園はひとつしかない。それに、目立った建物も市民会館ひとつだ。迷いようがないと思う。僕は玖坂さんに「では、あとで」と声を掛けて、リビングを後にした。


 玖坂さんと少しずつ打ち解けてきているのは確かだ。けれど決定的に違うと感じていた豊かな感情を取り戻すには、あれしかない。それでだめなら打つ手なしだ。うまく行くかどうかは解らないけれど、僕には大きな賭けに出る以外の方法が残されていなかった。なんだかすごくどきどきする。千種にばれないように平静を装わなくては。僕は大きく深呼吸をして、園山家のドアを開いた。


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