Evidence

 千種の個展が開かれてからは、正に怒涛の一週間だった。


 ずっと立ちっぱなしだから足は痛いわ、疲れるわ、おまけに僕が足を捻ったことで柾の機嫌が悪いわで四苦八苦していた。僕は足を捻った原因を黙っていたというのに、園山さんがぽろっと言ってしまったことで柾がキレて、大喧嘩に発展し、いまに至る。


 僕は柾に殴られた頬を保冷剤で冷やしながら、右足の甲に湿布を貼った。


「暴力亭主だな、おまえ。そんなんじゃモテないぞ」


「女の子には手ぇ出さない主義だし。そもそも俊平からやってきたんじゃん」


 不貞腐れた様子で柾が言う。


「そっちがむかつくこと言うからだろ」


 柾を睨みながら言うと、柾が舌打ちをして立ち上がろうとした。それを園山さんがまあまあと言いながら制して、溜息を吐いた。


「だからって怪我させることないだろうが。戌為先生に言いつけるぞ」


「言えば? こっちだって俊平の右ストレートおもっくそくらったっつの。肋骨折れてたらどうすんだよ。ふざけんなチビ」


「話聞かずに勝手にキレたのはそっちだろうが!」


「ああん!? だいたい俺はこういうことになるから個展前後は休めっつっといたのに、勝手にバイトに行ったのはおまえじゃねえか!」


「まあまあまあ、落ち着けって。俺がきちんと朔夜には言い聞かせたし、もう二度と怪我とかないようにさせるから。穏便に済まそう」


「穏便に!? 俊平の主治医はお兄様の下僕なんだから、俊平の状態を逐一リークするに決まってんじゃねえか! 怒られんのは俺なんだ!」


「園山さんにあたることないだろ、大体柾はいつも横暴なんだよ!」


「養ってやってんだから当然だろうが!」


「三食まともなもの食わせてくれたら家賃いらないっつったのはどこの誰だよ!?」


「俺ですけど! でもお前が原因で怪我しようがなんだろうが、俺がお兄様から監督不行き届きだって怒られんだよ! おまえはお兄様の恐ろしさを知らないからだなあ!」


「わかった、わかったから! 俺が一緒に行って謝るからもう落ち着け!」


 いまにも一触即発しそうな僕と柾の肩を押さえて、園山さんがうんざりしたように言った。


 僕はもう一度柾を睨んで、「園山さんがこう言ってるから引いてやる」と吐き捨てた。柾はふんと鼻で笑って肩を竦めると、僕の足をもう一度蹴った。


「柾斗、いい加減にしろ」


「あーもー気分悪い。手伝ってやんなきゃよかった。この恩知らずめ」


 言いながら柾はガシガシと頭を掻いて、出て行ってしまった。園山さんは大きな溜息を吐いた後、僕の頭をポンと叩いた。


「腹が立つのは解るけど、勝ち目がない相手に手を出すのは感心しないぞ」


「‥‥でも、あんな言い方しなくたって」


「俊はジュニアと付き合いが長いんだから、なんとなくわかるだろ? 別に自分が怒られるのが嫌なんじゃなくて、いろんな意味で心配してるんだから」


「単純に怒られるのが嫌なんですよ」


「そうだとしても、ジュニアの言うことを聞かなかった俊にも原因があるんだから、売り言葉に買い言葉ってやつだ。おまえらしくないやり方だったな」


 僕は釈然としなくて、答えなかった。柾の言い分も解らなくはない。だけど玖坂さんのことまで引き合いに出すことはないと思う。


 そう思ったらだんだん腹が立ってきて、僕はテーブルを支えに立ち上がった。


「どこ行くんだよ? 安静にしてろって言われただろ?」


「千種のところです」


「歩いていく気か? 乗せていくよ」


「いいです、歩いていきますから」


「いやいやいや、俊、落ち着け。ほんとに落ち着け。お前は怪我したばっかで、安静だって言われて、しかもジュニアを本気で怒らせてるんだぞ? 大事な用なら俺が乗せていくし、そうじゃなければメールか電話で済ませる方法もあるだろ?」


「僕はああまで言われて黙っていられるほど人間ができてませんから」


 園山さんを振り切っていこうとしたら、園山さんが僕の肩をつかんで、ぐるりと体を反転させた。そして僕の肩に手を置いたまま俯いて、深々と溜息を吐いた。


「こうしよう。俺が戌為先生に謝る。だったらジュニアに被害がないだろ? 俊はジュニアの言いつけを破っての結果なんだから、大人しくジュニアの言うことを聞く。これで万事解決だ、円満に、穏便に」


「納得できません」


「納得するんだ。俊がジュニアの言うことを聞かなかったのは、俺が最近忙しくて朔夜に構ってやれないから、朔夜の機嫌が悪くならないようにする為だろ? それはありがたいと思う。でもジュニアの言い分は尤もだ。検診に行かなかったのも、ジュニアの言うことを聞かずにバイトに来たのも、俊が決めたことだ。結果、炎症が悪化していたし、足首を捻った。膝にも水が溜まっていたんだろ? ジュニアが怒るのも解らないでもない」


「‥‥そうかもしれない。でも」


 そう言いかけて、僕は首を横に振った。柾に言われても仕方がない。僕がちゃんと病院に行って、リハビリを受けていたら、もしかしたら怪我をしなかったかもしれないからだ。玖坂さんにも嫌なことを言ってしまうし、なんかもう散々だ。渋々「僕も悪かったです」と呟くと、園山さんはホッとしたような声で「よかった」と僕の頭をぽんぽんと叩いた。


「ジュニアにはきっちり仕返ししておくから、とりあえずちゃんと冷やしておけよ。明日も手伝いに行くんだろ?」


 僕が頷くと、園山さんは口元を綻ばせて、ソファに腰を下ろした。


「俊でも怒るんだな、初めて見た」


 言いながら、なにかを思い出したように笑う。僕が不満そうにしているのが分かったのか、園山さんは困ったように眉を下げた。


「悪い意味じゃない。ジュニアとは本当にいい関係なんだなって思っただけだ」


「いい関係?」


「アイツは飄々とした奴だから、基本的に腹が立っても適当にやり過ごす性質なんだ。でもそうしなかったってことは、そういうこと」


「そういうことって?」


「俊のことが大のお気に入りか、もしくは目に入れても痛くないほどかわいいってこと」


 僕が思い切り嫌な顔をしたからだろう。園山さんは豪快に笑って、僕の膝をポンと叩いた。


「安静に、な。ジュニアにも言われるだろうけど、2,3日休め。朔夜がごねたらお前のせいだって言い聞かせるから」


「でも、前みたいに朔夜が全力でギャン泣きしたり、ごねたりしませんか?」


「そうなったら、今度は佳乃に協力してもらうよ。いくら物分りが良くても、俺に似て賢くても、4歳児には理解できないみたいだし」


 園山さんの言葉に、僕は渋々頷いた。


 僕が無理をしてでもバイトに行ったのは、2週間くらい前に僕が4月から大学に通うので来なくなるということを伝えたときに、朔夜が今まで見たことがない癇癪を起したことがあったからだ。数日前にも風邪をひいていたこともあったのだと思うけれど、珍しくギャン泣きして、園山さんがいくら説得しても離れてくれず、結局朔夜が寝付くまでいる羽目になった。そうならないようにと予防線を張ったことが却って仇になったなと思いながら、僕は千種に「今日はうちに行けなくなったから、諭と二人で食べて」とメールを打った。




 翌朝、僕は柾の忠告を無視して、千種の手伝いをしに行った。個展を開くのは千種の夢だった。それを手伝いもせず、ただ家でじっとしているなんてできるわけがない。どうせ柾から苦言を呈されるだけだ。慣れている。それに本気で僕を外に出すまいとしているなら、監禁するなりなんなりするだろう。それをしなかったということは、つまり、そういうことだ。


 千種の家のリビングのドアを開く。僕にふたりの視線が集まった。


「どうしたんだよ、その痣」


 僕の顔を見るなり、千種が呆れたように言った。僕が来るとは思っていなかったのだろう。「旦那に怒られても知らないぞ」と、千種が言い聞かせるようにして言ってくる。僕はははっと空笑いをして、あくまでも柾の小言は気にしていないという体を見せた。


「本当に僕に手伝いをさせないつもりなら、手錠でつなぐぐらいのことはしてるよ」


 でもこのとおりと両手を見せる。僕の両手はフリーだ。千種は僕に苦笑を返して、諭を仰ぎ見た。


「諭、おまえもヒマなら手伝えよ」


「え、マジ? いいよー、誠心誠意をもって手伝う」


 にひっと悪戯っぽい笑顔を浮かべた後、諭はなんだか感慨深いような顔をしてはにかんだ。


「なんか、三人で一緒になにかをするって、ひさびさだね」


 諭は嬉しそうだ。僕たちはとても仲が良かったが、あの事故を機に少し関係性が変わってしまったようにも思える。僕と千種は学校へは行かず、諭は進学する予定だった学校に通っていたのだから、過ごした時間の密度はそれぞれ違って、それぞれが自分にとってプラスになるような経験ができたとは思っている。ただ、僕がなんとなく距離を置いてしまっている。劣等感だとか、そういう類のものではない。もっと別の、深いなにかだ。その気持ちの正体がなんなのか、未だにわからない。


 幼馴染に対してこんな感情を懐くなんて、僕は根性が捻じれているんじゃないかと思う。千種にも、そして諭にも、いままでどおりに接することがどうしてもできずにいた。だからだろう。諭がこんなことを言うのは。僕が三人でいることを敢えて避けていたのだ。


「昔はなにをするにも一緒にいたもんな。来なくてもいいのに着いて来たりしてさ」


「うっわ、ちーまでそういうこと言うのかよ? 俺、これでも一番誕生日が早いんだから、敬ってよ」


「あーはいはい。お兄ちゃん、とっとと朝ごはんの準備して」


 千種は諭を適当にあしらってみせた。どこか不満げな顔をしつつも、諭は言われたとおりにビニール袋の中身をテーブルに広げていく。おでんにおにぎり、コーラ、コンビニで買ったケーキまである。


「言ってくれたら作ったのに」


 ぼそりと僕が言ったからだろう。諭が横から「いいのいいの」と軽い口調で話しかけてきた。


「シュンペーちゃんを驚かせよう作戦なんだから、言ったら意味ないじゃん。はい、シュンペーちゃんのはこれな」


 諭がテーブルの上に唐草模様の包装紙で包まれた箱を置いた。この包装紙は見覚えがある。諭のうちの近くにあるおいしい和菓子屋のものだ。


「あそこの黄身しぐれは絶品なんだろ?」


 諭が僕の反応を窺うように笑っている。間食をほとんどしない、しかも実家で和菓子を食べまくっていた僕がおいしいといったのを覚えていたのだろう。ドヤ顔だ。褒めて褒めてと目で訴えてくる。


「きんつばは?」


「あるよ、人数分買ってある。シュンペーちゃんの好物は把握済みなんだから」


 へらりと笑って、諭。僕は「ふうん」と辛辣に返して、立ちあがった。


「お茶を煎れてくる」


「待ってよ! 座ってていいって! 今日は俺がやるから!」


 僕を椅子に無理矢理座らせて、諭がキッチンに向かっていった。一体なんなんだ。僕は相当呆れたような顔をしていたのだろう。千種がくっくっと楽しそうに肩を震わせるのが見えた。


「あいつは嬉しそうだな」


「そう見える? 僕には空回りしているようにしか見えないんだけど」


「俊と一緒にいられるのがうれしいんだよ。あいつなりにずっと我慢してたんだ」


「我慢? 諭が?」


「登下校も放課後も、四六時中一緒だったろ、俺たち。それがこの三年間、あいつはほとんど一人だった。あの性格だから、高校で友達がたくさんいたとは思うよ。でも、俺も、おまえも、どことなく諭とは距離を置いていた。立場が違う。あいつを巻き込みたくないし、負担をかけたくない。そう思っていたのは俺だけか?」


 千種が言った。いつもの落ち着いている口調だ。けれどそんな言葉は初めて聞いた。いままで口にしたことはないだろう。思っていても、お互いに秘めていた。諭に視線をやる。諭はキッチンでポットを捜したり、茶葉を捜したりとバタバタしている。それを眺めながら、僕は首を横に振った。


「僕、自分勝手かな?」


「お前がそうなら、俺もだろ。あの事故以来、自分のことばかりで、諭のことをちゃんと見てやってなかったもんな」


 うんと、僕は静かに相槌を打った。本当にそうだ。僕たちは千種の言うとおり、四六時中一緒にいた。千種が僕のうちで過ごすようになった時には諭まで泊まりに来たり、そうでないときは僕たちが諭のうちに泊まりに行ったりと、ほとんど毎日そばにいて、知らないことはなにもないくらい仲が良かった。それなのに、この三年間はちがっていた。まるで関係が変わってしまった。変えたのは僕たちだ。諭じゃない。僕たちの変化に気付いて、諭はそのうちにそれに順応してくれた。立ち入らないほうがいい部分には触れない。読まなくていい空気も読む。僕はそれに甘えてすぎていたのかもしれない。


「だから真っ先に諭に個展を開くことを報告したの?」


「いままでのような関係に戻るきっかけになればいいと思ったんだ。だから俊も、そろそろ諭の立場を理解してやらないとな」


 千種は片手でおでんの容器についたセロハンテープを器用に剥いでいく。手を出そうかと思ったが、やめた。千種が一人でいるときにはいつもやっていることだ。


「ここまで尽くしてくれる友人を大事にすべきだ」


「わかってるよ」


 僕は千種の言葉を遮るようにして言った。僕の声色には明らかに不穏の色が混ざっていた。千種もそれに気付いたのだろう。どこか寂しそうに笑って、僕の頭をポンとたたいた。


「いつか、自然に戻れる日が来る」


 そんな日は本当に来るのだろうか。僕は返事をしなかった。受け入れる自信がない。自然体でいられるほどの余裕がない。ふと玖坂さんのことが頭を過ぎった。もしかして、玖坂さんもそうなのだろうか。園山さんに辛辣なのは、僕と似たような理由なのだろうか? 得体の知れない感情が複雑に絡み合っていて、解こうと思っても解くことができない。自分は自然体でいたい。けれどできない。ふとしたことが引っかかって、苛立って、結局素直になれずにいる。僕とおなじような感覚を懐いてもがいているのは、玖坂さんも同じなのかもしれない。


「ちー、この茶葉つかっていい?」


 諭が若葉色の茶筒を手に声を掛けてきた。それを左右に振って、中身があるかを確かめている。


「その辺にあるのはどれでも使えるよ。急須はキャビネットの中にあると思う。耐熱ガラスのほうを使って」


「分かった、見てみる」


 さっきから何度もキッチンボードやキャビネットを開け閉めしていたから助け舟を出したのだろう。すぐに諭があった! と明るい声で言った。千種は楽しそうに笑みを深めて、おでんの容器のふたを開けた。出汁のいい香りが室内の乾いた空気と絡みあう。


「朝食は?」


「食べてきた」


「諭、俊は食べてきたって」


「マジか? じゃあもち巾着俺がふたつ食べよう」


「はっ? そこは山分けだろうが」


 千種が声を尖らせる。諭は不満げにいーじゃんと反論するかのように言った。食器を用意する音が聞こえてくる。僕は唐草模様の包装紙に包まれたその箱を手に取り、包装紙を除けた。和紙で作られた上品そうな箱が露わになった。蓋を開けると、卵の黄身の鮮やかな黄色が見える。やわらかそうな生地には無数の亀裂が入っていて、その亀裂から餡が覗いている。そのかおりから上品な甘さが想像できて、自然と口元が綻びた。


「そういや、柾ちゃんが言ってたよ。もう少しで念願の大学デビューなのに、シュンペーちゃんはドエムだから足を痛めたまま群衆の視線を浴びに行くつもりらしいって」


 マジなの? と、諭が訊ねてくる。諭はなにも考えていない。柾の台詞を真に受けて、僕をイラッとさせる天才だ。


「そういうつもりじゃないよ」


「えー? でもさ、シュンペーちゃんって人目を気にするタイプだから、ふつうは入学式までに怪我をしないように気を付けるものでしょ」


 諭を無視しようとしたが、それではいままでと同じだ。僕はふうっと息を吐いて、諭を呼んだ。


「単なるアクシデントだよ。なにもしようと思って怪我をしたわけじゃない」


「でもバイト休まなかったのはシュンペーちゃんじゃん。足が痛いっつってるのに行ったんなら、マジドエムだし」


 俺なら行かないよと、諭。


「こっちにはこっちの事情があるの。自分の感覚がすべてに於いて正しいと思うな、馬鹿諭」


「ちょっとー、馬鹿はないでしょ、馬鹿は。馬鹿だけど」


「馬鹿っていうやつが馬鹿なんだよな、諭」


「おおっ、天才かっ? そうそう、ちーの言うとおり。俺も馬鹿、シュンペーちゃんも馬鹿。馬鹿同士仲良くしようね」


 なんだか諭のペースに巻き込まれているような気がする。僕は諭を無視して、諭が淹れてきたお茶を千種の前に置いた。千種がいつも使っているのは、かなり軽い陶器でできたマグカップだ。普通のマグカップに入れられたお茶を諭の席に置く。もう一つのマグカップを手にして、まだ湯気が立っているそれを啜った。


「うっわ、無視だよ。チョーひどい。ちーは仲間に入らないの?」


「俺はそんな低レベルな争いに巻き込まれたくないからな」


 にやりと笑って千種が言う。諭はそれを見て悪戯っぽく笑った。


「なんだよ、いつも自分ばっかりするっと逃げるんだから」


 セリフと声色が一致していない。とてもうれしそうだ。僕はそれを横目に眺め、またお茶を啜る。千種の言うとおり、寂しかったのかもしれない。僕は距離を置きすぎた。いままでどんなふうに接していたかもわからない。人の気持ちというものは、こんなに簡単に誰かとの関係性を変えてしまえるものなのだろうか。そう考えると人の心理とはとても深く、こわいものだ。ぼんやりと考えながら二人の会話に耳を澄ませていた。




 朝食を終えた僕たちは、少し早めに市民会館に向かった。会館のオーナー・名波さんは僕たちに気付くと、柔和な顔立ちを一層柔和にさせて微笑んだ。


「ごめんなさいね、急用が入ってしまったので、今日は管理を彼に任せます。なにか困ったことがあれば、彼に声を掛けて下さいね」


 いつもはツイードのノーカラースーツをふくよかな体に纏っているが、今日はブラックフォーマルのスーツを着ている。割と派手なメイクも今日はどこか控えめだ。名波さんはその人の背中にそっと手を掛けると、穏やかに微笑んだ。


「お願いしますね、壱さん」


 壱と呼ばれたその人は、ロフストランドクラッチ(カフが付いた杖)を持っていた。僕がリハビリの時に使っていたものだ。首から下げたネームカードに名前が書いてあった。名波壱。会館のオーナーの関係者だろうか? 20代後半くらいの、黒髪で、爽やかな印象を持たせるヘアースタイルの男性だ。身長はあまり高くなく、細身で、チョークストライプのスーツがよく似合っている。


「よろしくお願いします」


 千種が真っ先に声を掛ける。彼は名波さんとおなじ、穏やかな笑みを僕たちに向けた。


「至らない節がないよう、代理を務めさせて頂きますね」


 丁寧な言葉遣いは、彼の誠実な性格を表しているようだ。優しげな目元を下げ、僕たちが使う部屋の方を手で示す。


「どうぞ」


 僕たちは言われたとおり、いつもの部屋へと向かった。30畳近いフリースペースには、所狭しと千種の作品が並べられている。千種が画家を目指した経緯と軌跡を他の方にも紹介したいと言われ、こういう趣旨になったのだそうだ。千種のおばあちゃんの作品も、そして入院中に千種がもらった作品もある。それはどの作品よりも目につく位置に置いてあった。千種の意向だ。この作品がなければ自分はここにいなかった。もう一度奮起するためにはこの絵が不可欠だった。落ち込んだ時、道に迷った時、千種はいつもこの絵と、ナオさんの絵を見て、自分を鼓舞していたのだ。僕にも分からない葛藤が千種にはあったことだろう。それなのに、それをほとんど感じさせず、ポジティブで柔軟な考えをする千種が羨ましくも思えた。


「あそこの絵葉書を書かれたのは、飛海さんですか?」


 名波さんの言葉に、千種はハッと弾かれたように顔を上げた。とんでもないと言いながら勢いよく首を振り、否定する。


「あの絵葉書は、俺が祖母とは違う、水彩画をやろうって決めるきっかけになったものです。母がイタリアに旅行に行ったときに買ってきました」


「naoって、書いてありますね」


 絵葉書に近付いた名波さんがぼそりと言った。絵葉書の右下には、筆記体でnaoと書かれている。女性のような、かわいらしい丸みのある字だ。


「はい。玖坂由樹さん、だったよな?」


 千種が僕に玖坂さんの名字を確認する。


「2年前、玖坂さんと園山さんにアトリエを作って頂いたんです。その時にこの絵葉書を書いたのが玖坂さんだと判明しました」


 千種の代わりに僕が説明をした。名波さんは「そうだったんですか」としか言わなかったが、穏やかそうな目元を下げ、嬉しさを滲ませていた。声色にすらその気持ちが含まれている。僕はそれを不思議に思ったが、訊ねることができなかった。




 9時半を過ぎた。個展の開始時間だ。市民会館では、複数の人の作品が展示される。今回は千種の絵と、老齢の女性が作った木彫りの食器だ。会議や講義の場として使用されることもある。そのせいか、開始時間前から多くの人が市民会館内を訪れていた。諭が表のプレートを架け替える。すぐに子供連れの女性がやってきた。


 僕はそれを遠目に眺めていた。なんとなく、このなりでは出て行きにくいからだ。柾に殴られた頬を擦りながら、短慮に動いてしまった自分を恥じた。


 いろんな人がやってくる。千種はそれに臆することなく、淡々と説明をしていく。個展の進行はさまざまだろう。市民会館側からこの方法を頼まれたのだそうだ。僕はそれを少し好ましく思っていない。本当に千種の絵を見に来たいのか、それとも雑誌に取り上げられたばかりの"障碍を乗り越えた画家”を見に来たいのか。普通にそう思ってしまう僕はやっぱりどこか歪んでいるのだろう。素直に喜べばいいのに、そうできずにいる。


「飛海さんに聞きました。君たちは幼馴染なんですね」


 突然声を掛けられて、肩が跳ねるほど驚いた。そんな僕に声の主が「すみません」とどこか気まずそうに笑った。名波さんだ。僕は会釈を返しながら、肯定の為にそうですと短く言った。


「飛海さんとは何度かお会いしたことがあるんです。その時に飛海さんが言われていました。これを機に自分と幼馴染の心境になんらかの変化をもたらすことができれば成功なんだ、と。勿論自分の絵を見てもらいたい気持ちもあるけれど、それよりも、ターニングポイントにしたいのだそうです」


 彼は強い子ですね。名波さんが言う。僕は頷いた。もう一度頷いた。


「どうして、千種だったんですか?」


 俯いたまま名波さんに訊ねた。


「それは、飛海さんが"話題作りに使われたんじゃないか”という疑念ですか?」


 どきりとした。思わず顔を上げ、名波さんを見た。名波さんは目元を下げると、僕の背中にそっと手を回し、ぽんぽんと叩いた。


「じつは俺も美大に通っていました」


 邂逅するように、誰に言うともなく名波さんが話し始める。確かにこの人にはそういう雰囲気があった。とても繊細で、独特な雰囲気を纏っているのだ。他とは違うなにかがあることは明白だ。


「一応は卒業をしました。でも卒業と同時に画家になることは諦めました。挫折したんです。才能がある人は五万といる。その中で突出したものを作れるのはごく一握りで、自分はそれに属してはいない。だから、自分以外の、そういう子どもたちをサポートできるような立場にいたいと思い、飛海さんを推薦したんです」


 なんとなく気まずかった。けれどどうしても僕には納得がいかなかったところだ。タイミングがよすぎた。雑誌に記事が載って、騒がれるようになって、そうしたら個展の話が舞い込んできた。一カ月先にはもっと大きな会社からもオファーが来ているのだと聞いている。


「世間というのは、冷たいようで暖かいし、暖かいようで尖った刃物のように鋭く抉るような視線を向けてくる。だから君がそういう気持ちを懐くのは無理もないと思うんです。飛海さんも最初はそう言っていました。自分が車椅子に乗っているから、話題作りの為に持って来いだからだろうって」


「千種がですか?」


「でもすぐに承諾して下さいました。自分が世間の目に晒されるのはこれから先もずっと同じ。同じ見られる立場なら、自分がどう足掻いてきたのかを見てもらいたいし、知ってもらいたい。あの事故をきっかけに自分たちの間に生じたものを、自分たち自身が見つめ直すきっかけにもなるだろう。前者は彼にとっては切欠で、その切欠を持って後者に臨みたいのだと思います」


 名波さんはそこまで言うと、ロフストランドクラッチを軸にして立ち上がった。


「幼馴染はかけがえのない財産ですよ。俺はいまでも支えてもらっています。この個展をバックアップして盛り上げたのだって、俺の幼馴染ですから」


含み笑いをしながら名波さんが言った。この人はとても顔が広いのだろう。僕は名波さんの言葉を受け取って、頷いた。名波さんが去っていく。僕はさっき千種から渡されたリーフレットの裏側を見た。協力、後援の欄に、Carpe-diemとの記載がある。他にもいくつかの会社の名前があった。よしみ書房は千種のことを記事にした出版社だ。さまざまな人に支えられてこの空間が出来ている。そうやって初めて理想や夢を実現することができる。このリーフレットが僕にそう言いきかせているようにも思えた。


 ポケットの中で携帯が震えているのに気付いた。園山さんからのメールだ。


『ジュニアからの外出禁止令が解けていたら、ナオに夕飯を作ってやってもらえないか?』


 僕はなんとなくもの悲しい気分になった。今日は3月30日だ。こういうメールのやり取りも、明日で終わってしまうのだ。


 柾が言っていたように、僕は園山さんとの関係を切ってしまってはいけないような気がする。辞めると言わず、休ませてほしいと言えばよかった。言葉を選んでいれば、こんな気持ちにならずに済んだのかもしれない。


 外出禁止令は解けていない。真っ最中だ。けれど柾は明日まで戻ってこない。僕が言いつけを守らないというのは、柾自身解っているだろう。勝手にしろと言われているような気さえした。僕は園山さんに『わかりました、いつもの時間に伺います』と返信して、携帯を閉じた。


「ごめん、夕方から用事が入ったから、お昼で帰るね」


 リーフレットの補充をしながら千種に声を掛ける。千種は少し意外そうな顔をしたが、「わかった」と頷いた。室内ではたくさんの人が千種の絵を眺めている。千種の絵だけではない。入院中にもらった絵も、玖坂さんが書いた絵葉書も、そしておばあちゃんが書いた水墨画もだ。つい10分ほど前、老齢の女性がこちらに寄ってきた。千種のおばあちゃんの同級生だったらしい。感極まったような表情で「おばあちゃんも喜んでいるよ」と声を震わせていた。


 絵の力というものは改めてすごいと思った。やっぱり玖坂さんをここに連れてくる判断をしたのは間違いじゃないと思った。明日、玖坂さんがここに来る。あの絵を、絵葉書を、そして千種を見て、どう思うのだろうか。立ち直るきっかけに、一歩を踏み出す力になれるだろうか。この独特な温かい雰囲気が、玖坂さんの心の壁を少しでも溶かしてくれたら、――。

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