003.

 今日は朔夜を迎えに行くだけでいいという内容のメールが届いていた。今日は金曜日だ。明日から僕の予定が立て込んでいることもあり、園山さんが配慮してくださったのだろう。


 僕はそれをありがたく思いながら、園山さんのうちのドアを開けた。リビングのドアを開いたとき、ソファの前に玖坂さんが蹲っているのが見えた。


「大丈夫ですか?」


 慌てて駆け寄ると、玖坂さんは震えながら僕にしがみついてきた。顔色が悪い。真っ青だ。僕はすぐに玖坂さんをソファに横たわらせた。


「なにか飲み物を淹れてきます。少し待っていてください」


 僕が声を掛けると、玖坂さんは頭を押さえながら小さく頷いた。今日はいつになく寒いし、偏頭痛だろうか? 玖坂さんはあまり体が丈夫ではなさそうだしと思いながらキッチンに向かった。カウンターに置かれているデジタル時計の下方に表示されている室温は10℃で、冷蔵庫並みだ。いつからここにいたのかはわからないけれど、また前のように風邪をひいてしまってはいけないと思い、僕は玖坂さんが好きそうなものを探した。


 カモミールティーを淹れ、玖坂さんに手渡す。玖坂さんは熱いものが得意ではないようだから、少しぬるめにしている。玖坂さんはそれにふうっと息を吹きかけて、啜った。


「少しは落ち着きましたか?」


 玖坂さんが小さく頷く。さっきよりも少し顔色が戻っているようだ。一体なんだったのかと気にはなったけれど、玖坂さんに尋ねたところで正確な回答は得られないと思う。玖坂さん自身、戸惑っている様子だったからだ。


 僕は玖坂さんを刺激しないようにと、玖坂さんの斜向かいにあるソファに腰を下ろした。


「あ、あの」


 震える声で、玖坂さんが話しかけてきた。


「いろいろと、すみませんでした。あの、ヘンなこと、言っちゃって‥‥」


 僕はなにも言わなかった。口を挟むと玖坂さんは言葉を引っ込めてしまうだろうと思ったからだ。まだ湯気があがる紅茶を啜って、玖坂さんの言葉を待つ。


「オレ、ときどき、ああやって感情がコントロールできなくなるんです。自分でもよくわからない気持ちが渦巻いてきて、怖くなって、八つ当たりしちゃって‥‥。


 でも、あのとき、――。片倉さんと会うときめたとき、俊平くんになにも言ってもらえなかったら、きっと、ずっと逃げていたと思うんです」


 「だから」と、玖坂さんが間を置いてつぶやくように言った。玖坂さんの肩が震えている。玖坂さんはきっと、ただ一言言いたいだけなんだろう。それに気付いたけれど、僕は敢えて気付かないふりをした。僕は玖坂さんにそう言ってもらえる立場ではない。それに結果はどうあれ玖坂さんが一歩踏み出したことに意味があるのだから。


「僕はなにも。きっとそれは、玖坂さんが“答え”に手を伸ばしたからですよ」


 そうとだけ告げて、僕は立ち上がった。そろそろ洗濯物を畳もうかと思ったからだ。不意に抵抗を感じて、そちらに視線をやると、玖坂さんが僕の服の裾を掴んでいた。


 玖坂さんは俯いている。まるで言葉を模索しているかのように、唸ったり、首を横に振ったりと忙しない。僕は思わず笑いそうになるのを堪えて、玖坂さんが言葉を紡ぐのを待った。


「あの、ありがとう」


 かなりの間を置いて、玖坂さんが絞り出したような声で言った。


「それから、ヘンなこと言って、ごめんなさい」


 柾のいうとおり、僕より玖坂さんのほうが気にしていたようだ。涙目になっているのが見えて僕が狼狽えたとき、玖坂さんが震える声で「本当に、ごめんなさい」と言って、俯いた。


 泣いているんだろうか? なんだか急に罪悪感がこみ上げてきた。


「あ、あの」


 玖坂さんに声を掛け、震えている細い肩に触れると、玖坂さんは鼻をすすりながら顔をあげた。


「気にしないでください。僕も気にしていませんから」


「で、でも‥‥」


 その言葉の後に続くのは肯定ではない。気が済まないと言いたげな顔をしている。玖坂さんは舌足らずだし、園山さんの言うとおり意地っ張りなところがあるから、ここで僕が引いたところで解決に至らないだろう。


「じゃあ、ひとつだけお願いしてもいいですか?」


「え?」


 玖坂さんが不思議そうに首を傾げた。


「最後の土曜日、僕に時間を下さい」


「土曜、日‥‥?」


「はい。玖坂さんにお見せしたいものがあるんです」


 僕が言うと、玖坂さんは少しの間を置いて、小さく頷いた。


 玖坂さんには言っていないことがある。園山さんのうちに玖坂さんがいたことは、こうすべきだという導きなのではないかと思う。玖坂さんが踏み出すきっかけがどこにあるかはわからないけれど、これなら、きっと、――。




* * * * *




「今日はバイトのはずだろ?」


 僕が息を弾ませながらやってきたからだろう。千種が怪訝そうに言った。そのまま車いすから椅子に座りかえて、左手をぎこちなく動かしながら、膝にブランケットを掛けた。


「準備があるから、朔夜の迎えだけ」


 言って、息を整えるために深呼吸をする。明日から行われる千種の個展の準備だ。場所を提供してくださる市民会館のスタッフが、親切にも手伝ってくださるそうだから、実際にはそこまで手がかかる作業はない。けれど、千種が無理をして怪我をしないように、もう一人の幼馴染・諭と決めたことだった。


「気にすることないのに。諭だって手伝ってくれるし、準備は市民会館側がやってくれるよう手配してくれたのは旦那だぞ」


「え、柾が頼んでくれたの?」


「あれ、聞いてない?」


「うん、全然」


「ツンデレだからな、旦那。俊が一言甘えたらこれだ。愛されてるね」


「‥‥からかってるだろ?」


 千種を睨みながら言うと、千種は肩を震わせた。


 千種が旦那と呼んでいるのは柾のことだ。千種は僕と柾を夫婦扱いしているから、すぐこうやって茶化してくる。ルームシェアリングするということを伝えたら、「妊娠するなよ」と言われたくらいだ。


 千種は僕の幼馴染で、物心ついたころから一緒にいる。2年前の事故で左半身不随の後遺症が残ったけれど、あまり人に頼るのが好きじゃない。僕と同い年なのに大人びた雰囲気なのは、顔立ちとオーラのせいだと思う。


 僕みたいに歩けてもいろいろ危ないからと一人暮らし厳禁命令を下されたというのに、千種は車いすなのに一人で生活すると啖呵を切って、アトリエ兼自宅で生活している。たまにお父さんが帰ってくるけれど、それ以外はほぼ一人だ。


 僕と諭が交代で手伝いの名目でここにやってくるのは、頑固一徹江戸っ子のお父さんが、『千種が心配だ』と泣きながら諭のお父さんに訴えているのを見たからだった。もちろんそれを千種もみていたのだけれど、「心配しすぎだ」と軽くいなすだけで、絶対に八王子にはいかないと強く意思表示していたから、僕と諭はお父さんに協力することにしたのだ。もちろん千種には内緒だけれど、千種は薄々勘付いているような気がする。


「ごはん食べた?」


「うん、親父が弁当買ってきてくれた。昨日のおでんがあるって言ったんだけどな」


「心配なんだよ、お父さん。前の火傷のこともあるし、個展を控えているからあまり料理させたくないんじゃない?」


「あ、そうそう。個展の話だけどさ、俺が入院していた時のもらったあの絵を飾ることになった」


「ああ、あの?」


「俺のじゃないけど、俺がこうしていられる原動力みたいな感じでさ。あの人、元気になっていたら絶対にすごい画家だ。まるでナオさんの絵を見ているみたいだった」


 あの絵というのは、千種と僕が入院していた病院で、千種がある人にもらった絵のことだ。その人が誰なのか、どういう人なのか、僕は知らない。千種しか見たことがない人だ。小柄できれいな女性だったという手掛かりだけで、名前も、年齢も、どの病棟にいるのか、いまどうしているのかすらわからない。でもあの絵を千種がもらってきたことが、僕と千種の新たなターニングポイントになったことは事実だ。


「運営側が、俺が絵を描くきっかけになったものや、人をそのスペースで紹介すればいいんじゃないかってアドバイスしてくれたんだ。だからそうすることにしたんだ」


「じゃあ、おばあちゃんの水墨画も飾られるんだね。久しぶりに見るから楽しみ」


 僕がそう言って笑うと、千種は少し照れたように笑った。千種のおばあちゃんは、かなり有名な水墨画の絵師だ。千種は小さいころからおばあちゃんと一緒にいるのが好きで、知らないうちに絵の英才教育をされていたとよく言っている。幼稚園の頃から誰よりも絵が上手で、いつもなにかの賞をもらっていた。そんな千種の夢は、いつかおばあちゃんと一緒に個展を開くということだった。おばあちゃんは僕たちが小学生になる前に亡くなってしまい、それは叶わなかったが、間接的に千種の夢が叶うことになる。僕はそれがとても楽しみで、自分のことじゃないのに、胸が膨らんだ。


「ほんと、おまえのおかげなんだよ」


「え?」


「おまえがあの記事を見つけてくれなかったら、ナオさんや園山さんに会えなかったら、俺は絵を描くことを諦めていたんだ」


 初めて聞く千種の言葉に、僕は動揺を隠せなかった。


「そ、そんなことないよ。玖坂さんたちに依頼したのは千種のお父さんの上司の人でしょ? 僕はなにもしてないし、あの記事だってたまたま‥‥」


「偶然は必然なんだ。結果的に俊はきちんとリハビリを始めたし、俺だって絵を描き続ける決心がついた。どっちもナオさんと園山さんがいなかったら有り得なかった。それを見つけてきたのは俊だろ? だから、俺はお前に筆舌も尽くしがたいほどの感謝をしている。いや、それでも足りないほどだな」


 からかっているのかと思ったけれど、千種の目は本気だった。千種がこんな風に思っているなんて考えたこともなかったから、むず痒いような、恥ずかしいような、不思議な気分だ。


「千種のがんばりも大きいよ。誰がサポートしたわけでもアピールしたわけでもないのに、千種が描いた絵がパトロンの目に留まったんだから」


「そうかもしれない。でもそのきっかけを作ってくれたのがおまえだって言いたいんだよ。ほんと、自分のことになると途端に身を引くよな。悪い癖だよ。わかったら旬輔と仲直りしろよ」


「旬輔は関係ないよ。別にケンカしてないし」


「俺のこと意地っ張りだって言うけど、俊も大概意地っ張りだよ」


 笑いながら千種が言う。旬輔は、僕の6歳上、三番目の兄だ。兄弟の中で一番仲がいいと言われているほど、一度もケンカをしたことがない。僕の実家の跡取り修行をしていて、千種とも、そして諭とも仲がよかった。特に、諭の兄・啓と同い年だということもあって、僕たちの間では、なにかと旬輔のことが話題に挙がる。


 僕はテーブルに置いてある、その絵に視線を落とした。


 それは本当に不思議な絵だ。無機質なアスファルトに映る、二人の影だけが、物語を展開している。その絵は、実は二枚あって、片方はアスファルトに映る膝から下だけの影の絵。そしてもう一枚は、草原に伸びる一人の影と、川を隔てた先に映る影の絵だ。草原のほうの絵は、二人の影の色が違う。草原側にいる人の影は川に反射しているのに、川を隔てた先にいる人の影はない。それは影のつけ方によるんじゃないかと千種は言ったけれど、僕にはなぜか、そうは思えなかった。


「僕も、この絵がなかったら、リハビリがんばらなかったと思う」


 ぽつりと僕が言うと、千種が吹き出した。


「『人の気も知らないでぎゃあぎゃあ喚くな!』って怒鳴ってたもんな、秀輔に」


 くっくっと笑い、肩を揺らしながら千種が言う。一番リハビリに拒否的だったのは僕だった。千種が自分で左足を動かそうと必死になっている姿を見て、漸く自分もこのままじゃいけないと重い腰を上げたのだ。


「秀が心配するのは解るんだ。でも、僕でもきちんと一人でできるんだって、証明したい部分もある」


「だから、大学に?」


「千種は自分の夢に向かって行ってるじゃない。だから、僕もそうすることにした」


 千種は穏やかに笑って、「おまえらしい」と言った。そして僕を注視した後、右手を挙げた。


「がんばろうな、明日」


「うん」


 僕は昔からやっていたように、千種の右手を軽く叩いた。


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