002.

 朔夜が夕ごはんだと呼びに行っても、玖坂さんは降りてこなかった。園山さんも戻ってこない。


 夕方に書類を取りに帰ってきたけれど、ちょっと遅くなるからと継いで、急いで行ってしまったからだ。そう言えば携帯も今日は持ってこなかったし、さっきから園山さんに連絡をしても連絡がないのだ。何事もなければいいけどと思いながら、朔夜をお風呂に入れて、寝かせる準備を済ませた。


 23時を回ってもまだなんの連絡もない。さっきまで眠っていたのに、なにかを察したのか朔夜が目を覚まして、離れてくれない。なんの連絡もないのは初めてだからだろう。朔夜は泣きながら僕のパーカーを握ったまま離さなかった。


「園山さんが戻ってくるまでここにいるから、ね?」


 朔夜の頭をなでながら言ってみても、朔夜はなにも言わない。鼻をすすりながら僕の胸に顔を埋めて泣くだけだ。ポンポンと背中を叩いて、寒くないように毛布を掛ける。


「朔夜が泣いてたら、園山さんが心配するよ」


「でも、パパ帰ってこないもん」


「仕事が片付いたら戻ってくるよ。夕方、那珂さんがそう言ってた」


「ちーちゃんが?」


「3月は忙しいんだよ。柾だって、ちょっと前になかなか戻ってこなくて、やっと戻ってきたと思ったら夜中の3時を過ぎていたんだよ」


「柾兄が帰ってこなかったら、俊兄も寂しいでしょ?」


「まあ、どうせ戻ってくると思って寝てたけど」


「俊兄ひどい」


 朔夜が眉をひそめて怒ったように言う。柾の帰りが遅いのなんてデフォルトだし、帰ってこないとなると本当に忙しいかデートかのどちらかだ。そう言ってしまうときっと朔夜がそれじゃだめと怒るだろうから言わずにおこう。


「もう少し待ってみて戻ってこなかったら、もう一度連絡してみる」


「俊兄は? 柾兄に怒られない?」


「僕は大丈夫。それより、朔夜を置いて帰った方が怒られちゃうよ」


 そういうと朔夜はやっと安心したように頷いて、ぐすんと鼻を啜った。僕はぽんぽんと背中を叩いて、朔夜が落ち着くのを待った。


 我慢しているが、心細いのだろう。園山さんは最近帰りが遅いし、楽しみにしている週に一度の病院へのお泊りも中止になることがある。普通ならもっと喚いたり我が儘を言ったりするものだと思うけれど、朔夜は現状を子どもなりに理解している。


 どのくらい経っただろうか。朔夜の横で眠りそうになっていたとき、部屋のドアをノックする音が聞こえた。朔夜は眠っている。僕はこっそりベッドから抜け出して、廊下に出た。


 廊下には那珂さんがいた。園山さんの幼馴染の女性だ。派手な顔立ちに負けじと存在も派手だと園山さんがよく言っている。背が高く、美人で、さっぱりとした性格の人だ。柾の初恋の人らしい。


「大丈夫でしょうか、園山さん」


 音を立てないようにドアを閉めた後、那珂さんに尋ねた。本当は佳乃さんの体調が悪くなって、園山さんが戻ってこられないのだ。でも朔夜に言うときっと大泣きするから黙っていた。那珂さんはそれを察してくれたらしく、僕の背中をぽんと叩いて笑った。


「心配ないって。わたしもさっき様子を見てきたけど、佳乃はただ少し風邪気味なだけなのにって言っていたわ。まあ、病気が病気だけに用心したってところでしょう。


 聡一郎は今日病院に泊まるそうだから、朔夜はわたしが面倒見るわ。遅くなってごめんなさい。」


「いえ、大丈夫です」


「じゃあ、先に下に行っていてくれる? わたしから由樹に事情を説明しておくから」


 声を潜めてそう言って、那珂さんが玖坂さんがいる部屋をノックする。逃げるような足音が聞こえたのを不審に思いながら階段を降り始めた時、那珂さんが玖坂さんがいる部屋のドアを開けた。




* * * * *




 那珂さんに送ってもらった後、僕は柾が妙に静かなことでびくびくしていた。いまからピナツボ火山のような大噴火を起こして殴る蹴るの暴行を加えられた後に如何わしいことをされるんじゃ‥‥と身構えていた僕の予想を裏切って、柾はコーヒーを飲みながら手招きをした。


 いや、まだ警戒を解いてはいけない。柾のことだ、僕がソファに座った途端になにかするに決まっている。そう思いながら近づいたら、柾はどこか安心したように溜息を吐いて、僕になにかを投げてきた。慌ててそれを受け取ると、それは僕の携帯だった。


「大事なもの忘れていくなよ。俺が今日オフィスにいなくて状況を知らなかったら、おまえが帰ってきた瞬間にグズグズにしてたぞ」


「‥‥すみません」


「つか、ナニ落ち込んでんの? 確かに俺はお前の帰りが遅いといろいろやったけど、事情が事情なだけに怒らないって」


「うん」


「‥‥なに? なんかあったの?」


 不審そうに柾が訪ねてくる。僕はなにもないと言って、ソファに腰を下ろした。


 柾はあっそと短く言っただけで、特に詮索してくる様子もない。コーヒーを飲んでなにかの書類を眺めていたが、ややあって、勢いよくそれを閉じた。


「俊平くん、ちょっと」


 柾がちょいちょいとこちらを向くように指で指示する。柾は僕の顔をじいっと見つめた後、にやりと不敵な笑顔を浮かべた。


「あらかわいい」


 言って、柾が僕の頬を抓る。


「なにかショックなことがあったのかね? 当ててやろうか?」


 そうだなあと考えるように意地悪く言いながら、柾が僕の頬を指で何度も摘まむ。


「なんで学校に行っていないのか」


 図星だ。柾はにいっと片方の目を細め、僕の頬を引っ張るようにして指を離した。


「相手は園さん宅の居候か?」


 どきりとした僕を柾が笑う。僕はそんなに分かり易いだろうか? 割とはぐらかすのは得意なほうなのだが。


「先入観に囚われるようなやつはどうせそこまでのやつなのよ。ほっとけ」


 誇らしげに笑いながら柾が言う。玖坂さんを知らない柾に言われたくはない。うるさいとぼそりと言ったら、ぎゅっと唇を摘ままれた。


「そんなに落ち込むなら文句の一言でも言ってやりゃよかったじゃん。言えなかったのも、言わなかったのも、おまえの責任だろ。だったら落ち込むのは筋違いじゃない。どうせ反論しなかった自分に対する自己嫌悪ってわけでもないんでしょ?」


 僕は柾の手を振り払って、じろりと睨んだ。


「ほっといてよ」


「あらま、かわいくない。俺に対してはそういう態度とるくせに、園さんたちの前では猫かぶりやがって」


「うるさいな、どうせかわいくないよ」


「まー、ほんっっっとかわいくない」


 言いながら、柾が大袈裟に両手を開いた。


「学校行ってないって言われて傷付くなら、お兄様の言うとおり行ってればよかったじゃん。それでも高校行かずに大検受けるって決めたのは自分でしょ。だったら、自分の言ったことにだけ責任持てばいいし、人に言われていちいち傷付く必要ないじゃない」


「‥‥別に傷付いてないし」


「ママンに捨てられた子猫みたいな顔してるくせに、なに言ってんだか」


 柾が僕の頭をぽんと叩く。なんとなく解せない。傷付いてないなんて嘘だ。自分の中でどこかに甘えがあった。覚えてくれていると思っていた。そうじゃなかったからってしょげるのは筋違いだと解っている。いつもならこんな気持ちにはならないが、そのうちに腐臭すらしてきそうなほど気持ちが滅入ってしまって、まさに反論する気さえ起きなかった。


「あーなるほどね、そういうこと」


 暫く僕の頭をぽんぽんと叩いていた柾が、何かに気付いたような明るい声で言った。


「ぼくわかっちゃった」


 にやりと柾が目を細める。


「俊平くんの処世術が利かない相手ってことか。なるほど」


「どういうこと?」


「俊平くんにとってはどうでもいい相手じゃないってこと」


「は?」


「だってそうでしょ? 隣の部屋のおばちゃんから『学校は?』って言われた時、なんて返した? ものっそい笑顔で『通信制です』っつって嘘吐いたじゃない。あれ見て俺はビビったね。おまえは怖いと思ったね」


 演技派だのなんだのと柾が言う。


「絶対聞かれるに決まってるじゃない。おばちゃんたちは噂好きだし、男二人で住んでるって時点で噂されるのに、僕が学校に行ってないなんて知れたら、余計噂を立てられる」


「だから聞かれたら言おうって思ってたんだろ?」


「そうだよ。柾がそう言ったんだ」


 通信制と言えば週に一度か二度登校すればいいのだと僕に入れ知恵をしたのは柾だ。実際僕は事故をした後にそれも考えたが、特に勉強したいこともなかったから選択肢には入れなかった。この近辺だったらどこなら通信制スクールを取り入れているかも知っている。


 柾は僕がそう吐き捨てたと同時に吹き出した。


「なんで笑うんだよ!?」


「あはははっ、ウケるーっ! 自分で認めてんのが分かんないの?」


 チョーウケると柾が笑う。僕はなにを言われているのかが分からなかった。


「お気に入りの相手にはよく思われたい。それが人間の心理というものなのだよ、俊平くん」


「だから?」


 自分の声が尖る。柾はいつだって茶化す。たとえ僕が落ち込んでいようとも関係ない。おもしろければそれでいいを地で行くから、たまに腹立たしい。いまだって僕が怒っているのを見て楽しんでいる。趣味が悪い。というか意地悪だ。


「園山家の居候に親近感を懐いている。それも、ちょっとじゃなく、かなり」


 わかってないねと言いながら、柾が肩を竦める。そうじゃないと言い張ると柾はきっと余計にでもそう思うだろう。僕は違うと一言吐き捨て、立ち上がった。


「勝手に言ってれば? くだらない」


「そうじゃなけりゃ、なんでそんなのショックなのよ?」


「知らないよ、そんなの。お風呂入る」


 ここぞとばかりに茶化してくる柾を無視して、僕は着替えを取ってバスルームに直行した。


 僕が玖坂さんに親近感を懐いているのは当然だ。でもそれは一方的であって、玖坂さんはそうでもないかもしれない。僕のことを覚えていなかったくらいだ。柾が言っていたことなんて有り得ない。そう思いはしたものの、僕には自分の中にある感情の正体がわからない。悲しいとも、寂しいともつかない、不思議なものだということだけは確かだった。




 それから数日、僕はバイトを休んだ。正確には園山さんから数日休めと言われた。佳乃さんの体調のこともあるし、園山さんが2,3日仕事を休むからゆっくりしろと言ってくださったのだ。もしかして玖坂さんのことがあって気を遣ってくださったのだろうか? そう思いながら家でのんびりしていた。


 19時を回ったころ、柾が戻ってきた。戻ってくるなり魂が抜けそうなほど大きな溜息を吐いて、玄関に仰向けに寝転がった。


「そんなところで寝るなよ」


 僕が呆れたように言うと、柾はゆっくりと起き上がって、のろのろとソファまでやってくると、勢いよく突っ伏した。


「大丈夫?」


「チョー疲れた‥‥」


「園山さんが休みだったから?」


「それもあるけど、まーた仕事抱え込んでんの。アホだわ、あの人。人間の体は一つしかないんだってことを知らないぞ。一人の人間のスペックであれだけの量の仕事なんてこなせないって。それに加えて園さんには朔夜という小動物の世話まである。ほんとようやるわ、あの人。仕事の鬼だわ」


 信じられない、疲れたと柾がぼやく。僕はお疲れ様と言いながら、柾がよく飲んでいるコーヒーを淹れて、柾専用のマグカップをテーブルに置いた。


 僕がキッチンに戻ろうとすると、柾はなにかに気付いたらしく、僕の腕をつかんだ。


「おまえ、病院行ってる?」


 不審そうに柾が訪ねてくる。


「なんで?」


「足音が違う」


 さすがに耳がいい。僕がちゃんと行ってるよと告げると、柾はふうんとだけ言って、手を話した。


「享兄やんに聞いてみよう」


「すみません、嘘です、行ってません」


 慌てて言った僕を睨んで、柾は溜息を吐きながら起き上がった。


「サイテー。心配してやってるのに嘘つくなんて、俺の心を弄んだのね」


「如何わしい言い方するなよ。行く暇ないし、行ったってどうせ変わらないんだから」


「マッサージだけでも受けに行けばいいのに」


「そのうち行くよ」


 ぶっきらぼうに言ってのけると、柾は肩を竦めて、僕が淹れたコーヒーを啜った。


 柾がニヤニヤ笑っているのに気付いて、なんだよと言うと、柾は肩を揺らしながらマグカップをテーブルに置いた。


「珍しく引き摺ってるねえ。いつもの歯切れのいい切り返しが来ない」


「しつこいな。引き摺ってないし傷付いてない」


「ふうん、べつにそれならそれでいいけど」


 ニヤニヤ笑う柾が妙に憎たらしい。今日は柾の嫌いなソーセージとハム尽くしにしてやる。かなり規模が小さいけれどこれは復讐だ。僕は柾を無視してキッチンに向かって冷蔵庫を開け、ソーセージとハムを探した。




* * * * *




 翌日僕が朔夜を迎えに行ったとき、なんか変だなと感じたが、それは気のせいではなかったらしい。僕が帰ろうとしたときに、朔夜が真っ青な顔をして震えているのが見えて、触ってみたらものすごい熱かった。幼稚園で風邪が流行っていると言っていたから、もらってきたのかもしれない。


 園山さんは翌日大事な商談を控えていると言っていたから、柾に交渉して朝から一日朔夜の面倒を見ることにした。


 朔夜の熱はなかなか下がらなくて、前に病院でもらったシロップを飲ませても変わりがないことを報告したら、3日目に漸く柾が重い腰を上げてくれた。本当なら園さんが行くべきだとかなり怒っていたけれど、きちんと動いてくれるところが柾らしい。


 病院で検査をしたところ、ただの風邪だった。熱の上がり方から察するにインフルエンザではないなと思っていたけれど、熱が急激に上がらないインフルエンザもあるから、今度もし熱が出たらすぐにつれてこいと若干怒られた。


「朔坊、ええ子にしとったからなんか買ったろ」


 柾が朔夜の頭を撫でながら言う。注射をされるときに顔が引きつってはいたものの、特に騒ぐことなく大人しくしていたからだろう。朔夜は小さな咳をした後柾を見上げて、にんまりと笑った。


「アイス食べたい!」


「ベン&ジェリーズに行くか」


「バカ言うなよ、風邪ひいているのに表参道に連れて行くつもり?」


「俊ちゃんが車から降りて買ってくればいいじゃん」


「嫌だ」


「俊兄、おれハーゲンダッツのクリスピーサンドのチョコがいい!」


 僕のジャケットを引っ張りながら朔夜が言う。なんて聞き分けのいい子なんだと言いながら頭をなでると、柾は不満げに舌打ちをした。


「ハーゲンダッツよりベン&ジェリーズのほうがおいしいのに」


「甘いもの嫌いなくせに横やり入れるなよ。家の近くのコンビニに寄って。そこで買ってくるから」


 柾はへいへいと軽く返事をして、シートベルトを締めた。


 アイスを買って園山さんのうちに戻ると、朔夜は真っ先に手洗いとうがいを済ませ、クリスピーサンドの箱を開けていた。現金だなと柾が笑う。僕は朔夜の額に貼っていた冷えピタを取り換えて、朔夜にブランケットを手渡した。


「いい子だったってパパに言ってね」


「うん、伝えておくよ」


「パパがね、おれがいい子にしておかないとサンタさんが来ないって言うんだ。俊兄はいい子だから、サンタさん来たでしょ?」


「え? あ、う、うん。プレゼントはもらったよ」


 柾からだけれど。心の中で呟いて、「朔夜にはまだしばらくはプレゼントが届くと思うよ」というと、朔夜は満面の笑顔を浮かべて、頷いた。


「だから、アイス食べたら寝るの。そうしたらなおちゃんがまた、絵本読んでくれるって」


「絵本?」


「うん、時々読んでくれるんだよ。なおちゃん、すっごく上手なの。幼稚園の先生みたい」


 嬉しそうに足を揺らしながら、朔夜が言う。ずいぶん調子が戻ってきたんだなと思いながら、朔夜の頭をなでる。すると朔夜ははにかむように笑って、クリスピーサンドを頬張った。


「柾、コーヒーでいいでしょ?」


 そう尋ねると、柾はああと短く返事をした。園山家のコーヒーは、インスタントじゃない。コーヒー豆をドリップ式のコーヒーメーカーに入れ、豆を挽くところから始まる。本格的でおいしいから、柾が同じ機械を買うと言って実際に買ってきたほどだ。数分もすればよい香りが漂ってくる。ぼくはコーヒーを注ぎ分けて、コーヒーカップを柾に手渡した。


 柾はそれを無言で受け取り、ソファに腰を下ろした。


「これだけ寒けりゃ、いくら元気な朔坊でも風邪ひくよな」


 言いながら、朔夜の頭をポンポンと叩く。朔夜はクリスピーサンドを食べ終えていたらしく、口をもぐもぐと動かしながら頷いた。


「柾兄も気を付けてね。柾兄が風邪ひいちゃったら、俊兄が困るんだよ」


「薬飲まなーいってごねるからね、俺」


「だめだよ、お薬飲まなきゃ! 柾兄、悪い子だったら、サンタさん来ないよ」


「はーい、いい子になるようがんばりまーす」


 柾が適当に相槌を打って、笑いながらコーヒーを啜る。子供は嫌いだと言っているくせに子供にモテるあたり、本気で子供が嫌いなわけではないのだろう。


 とりあえず食器を食器乾燥機に入れ、バスタブを洗い、洗濯物を仕分けておこうとごそごそ動いていたら、しばらくして車のエンジン音が聞こえてきた。


 時計を見上げるとまだ17時前だった。園山さんが戻ってくるには早い。


 誰か来たのだろうかと思っていると、鍵を開ける音のあと、ドアが開いた。


「パパだ!」


 朔夜がソファから飛び起きて、玄関に走って行った。


「早退でもしてきたのかね、園さん」


「うん、珍しいね」


「朔坊のことをお前に預けっきりなのが申し訳ないって思ったんだろ、きっと。仕事が一段落ついたんだと思う」


「別に気にしなくていいのに」


「園さんの性格上気にするんだよ。お前になにかあったら俺がバイト禁止令出すしね」


 勝ち誇ったような顔で柾が言う。それが大元だろと突っ込むと、柾は肩を竦めておどけるように「そうかもね」と笑った。


「仕事は大丈夫なんですか?」


 朔夜を抱っこしてリビングに戻ってきた園山さんに声をかけると、園山さんは薄く笑ってプリュス鞄を壁に立てかけた。


「知耀が帰れってうるさいから早退した。チームを信じない俺は上司失格だとさ」


「あははー、言えてるー。知耀さんチョー怒ってたもん。いつかグズグズにしてやるわって言ってた」


「うわ、すっげえ寒気がする」


「パパ、風邪ひいたんじゃないの? あったかくして早く寝なきゃ!」


 園山さんのネクタイを引っ張りながら、朔夜が横槍を入れる。柾はそれを聞いて笑うと、コーヒーを飲み下して立ち上がった。


「じゃあ可哀想な園さんのために“ともゑ”のカツ丼を配達してもらおう」


「お、マジで?」


「柾斗くんの交友関係なめんなよ。専門の時の同級生が“ともゑ”の一人息子だから言えば持って来てくれるわけさ」


 はっはっはと某閣下のように笑って、柾がメールを打ち始めた。


「茶碗蒸しつきな」


「オッケー」


 柾がローラの真似をしながら言って、携帯を閉じる。


「上にグレムリンがいるんでしょ? だから二人前にしといた。子ども用はないから、朔坊と二人で一つを食べればいいかなって」


「そりゃどうも。でもあいつ、食うかな?」


「食わなきゃ園さんが食えばいいじゃん。あ、ちなみに家にも届けるよう言っておいたから、ぼちぼち帰ろうや」


 柾がショルダーバッグを肩に掛けながら言う。今日は夕飯を作らなくていいから楽ができそうだ。


 柾に引っ張られるままに車に乗り、園山さんのうちから市民会館に抜ける道の三叉路に差し掛かったあたりで、後部座席からビニール袋の音が聞こえるのに気付いた。なんだろうと思い振り返ると、朔夜の薬が置きっぱなしになっているのが見えた。


「あ、薬渡してなかった」


「なにやってんだよ。次の信号で折り返すから、行って渡してこい」


 面倒くさそうに柾が言う。僕は小さく頷いて、自分だって忘れてたくせにと口の中で呟いた。


「あ、なんかいまチョーむかついた」


 言いながら柾が僕の頬をつねる。


「いたいって」


「いまなんか思ったろ? そう言う波動って伝わりやすいのよ。気を付けないと」


 にやりと笑って、柾が言う。僕は柾の手を振り払って、視線を逸らした。


 そうこうしているうちに、園山さんのうちの前に着いた。僕は朔夜の薬を持って、園山さんの家に入った。


 玖坂さんと顔を合わせづらいということは特にないけれど、玖坂さんのほうがなんとなく距離を置いているように思えてならない。リビングに入ると園山さんと朔夜はいなかった。きっと二階の部屋にいるのだろう。そう思って階段を上がっていたら、廊下に園山さんがいるのが見えた。


「園山さん」


 声をかけると、園山さんは驚いたように振り返って僕を見た。


「ああ、俊か。どうした?」


「帰り際に朔夜の薬をお渡しするのを忘れていて」


「そういえば、もらってなかったな。ただの風邪だって?」


「はい。でも今度は熱が出たらすぐに来るように言われました。熱が急激に上がらないインフルエンザもあるからって」


「あー、そういえばインフルが猛威を振るう時期だな。忘れてた」


 そう言って苦笑すると、園山さんは「リビングに行こう」と促した。


 考え事をしていたからあまりはっきりとは聞こえなかったが、玖坂さんがなにかを怒鳴っていたような気がする。もしかして、僕はとんでもないタイミングで、空気を読まずに話に割って入ってしまったんじゃないだろうか。


 僕の不安を的中させるかのように、リビングに行ってからも、園山さんはどこか居心地が悪そうにしている。僕が柾を待たせていることを告げようとしたら、園山さんが僕を呼んだ。


「さっきの、聞こえてた?」


「え?」


「いや、聞こえてないならいい」


 園山さんにしては歯切れの悪い言い方だ。玖坂さんが怒っている声がしたのは聞いたけれど、なんて言っていたのかははっきりわからない。話の筋を辿るとなんとなくわかるけれど、それは推測にすぎない。僕は柾を待たせていることを伝えて、リビングを後にした。




 翌日、朔夜の熱が下がっていると言ったら幼稚園に行くとごねまくったからお迎えよろしくと園山さんからメールが入ったと、柾から教えられた。自分の鞄を探って携帯を探したけれどどこかに落としたらしい。ソファに寝転がっている柾を見る。柾は僕の視線に気づいたらしく、少し顔をあげてにやりと笑った。


「朔坊の部屋にでも忘れたんじゃない? 今日はハイテンションだぞ、朔坊」


「だろうね」


「逆に俊平くんはテンション低くない?」


「別に。いつも通りだし」


 僕の言い方がおかしかったのか、柾は肩を震わせながら寝返りを打った。


「やっだー、乙女なんだから」


「そんなんじゃないって言ってるだろ」


「はいはい、拗ねない拗ねない。自分が言ったんじゃない、“前の玖坂さんとは違う気がする”って。案外向こうも気にしてるかもね」


「え?」


「誰だってチョー怒ってるときとか、余裕がない時は、いつもは思ってもいないことを口走ったりするものじゃない? まあ、大半はそう思っているからこそ出る言葉だけどね。でも、玖坂由樹が言ったそれは、どっちかっていうと素朴な疑問かもしれない。向こうが俊平のことを“あのときの男の子”って覚えている保証はどこにもないじゃん。‥‥つか、わかんないと思うよ。お前チビだったし、車いすだったし、表情とか違うじゃん」


「‥‥そうかもしれないけど、玖坂さんならってわずかな期待をした僕がバカだった」


「うん、ばかね。チョーばか」


「もーうるさいな! いいだろ、別に!」


「前の玖坂由樹ならきっと気にしなかったよ。でも、いまは? 昔と違うんだろ? 昔のような余裕がないのかもしれないし、単に覚えていないのかもしれない。でも、そうじゃないかもしれない」


「それ、屁理屈って言うんだよ」


「そうだよ、屁理屈。適応規制だってそうじゃない。あれだって立派な屁理屈だ」


「適応規制? つまり、玖坂さんは僕に原因をすり替えているってこと?」


「可能性がなくはない。だって片倉に会うように勧めたの、おまえだろ?」


 そう言われて、僕はぐうの音も出なかった。たしかにそうだ。勧めたわけではないが、会わないほうがいいとは言わなかった。なるほどなと思いながら、僕はコートを羽織った。




* * * * *




 幼稚園に朔夜を迎えに行ったら、柾の予想通りにハイテンションだった。


 家までの道中、今日はなにして遊んだとか、先生がなんの話をしてくれたとか、機関銃のように話す朔夜を見ながら、ずっとうちにいるとやっぱり寂しいんだろうなと思った。


 園山さんの家の前まで来たとき、ガレージに車が停まっているのが見えた。書類でも取りに帰ったんだろうか? そう思いながら鍵を開けると、朔夜は急いで玄関のドアを開けて、靴をそろえ、走ってリビングに向かった。


「ただいまー、パパ!」


 リビングのドアを張りあけながら、朔夜。こんな時間に園山さんがいるのが珍しいからなのか、妙にテンションが高い。


「おかえり、朔」


 園山さんが朔夜を抱き上げながら言う。朔夜はえへへと笑って、園山さんに抱きついた。


「すみません、少し遅くなりました」


「いや、こっちこそ済まなかったな。昨日はあれから携帯が繋がらなかったから、今日は来ないかと思った」


「パパ、俊兄が携帯忘れて帰っちゃったんだよ。オレの部屋にあったもん」


「だから探してもなかったんだ」


「携帯忘れるよって言ったのに。柾兄に怒られそうになったらオレに言って、オレが怒ってあげるから」


 朔夜の言葉に、僕は思わず苦笑した。もしかしたら一昨日くらいから携帯を忘れていた可能性があるからだ。妙に静かだったのは、携帯そのものがなかったからなのか。


「足の調子は?」


「今日はいつもよりいい方です。ちゃんと装具もしているので、大丈夫です」


 そうしないと柾から頭突きを食らうだろうし、膝の痛みを我慢しながらあれこれできるほど辛抱強い方じゃない。それよりも僕には気になることがあった。


「玖坂さんの様子は、いかがですか?」


 少しの間を置いて園山さんに尋ねた。気のせいでなければ、玖坂さんは涙声だった。昨日は本人がいる手間踏み込まなかったが、今日は二階にいるのだろうから、多少尋ねても大丈夫だろう。


「あー、うん、まあ、いつもどおり」


 園山さんが言い淀んだ。僕が普段あまり踏み込んだことを尋ねないからかもしれない。苦い顔をして頭を掻いている。いつもならそうですかで済ませてしまうところだ。でも僕はこの蟠りを解消しておかなければならない。


「最近すれ違っているから、ちょっと気になって」


 すれ違っているというのは、語弊がある。言ったあとでそう思った。


「まあ、僕も、ちょっと、避けてしまったというか」


 たどたどしく言ったからだろう。園山さんが苦笑を漏らした。避けてしまった。意図的にだ。自分でもわからない。たぶん、柾に言われるように、防衛本能が働いたんだと思う。


「俊が避けるのは仕方ないだろ、あの鳥頭が余計なことを言うのが悪い」


「でも、それはこれから僕が多くの人にかけられるだろう言葉です。いままでもそうでした。だから慣れていると思っていたけど、思い込み、だったんでしょうね。正直ショックでした」


「言いたいヤツには言わせておけばいい。そいつらがなにを言おうと、俊がいままで積み重ねてきた努力が消えるわけじゃない」


「ありがとうございます。いつもなら大丈夫なんですけど、玖坂さんだったから、ですかね」


 たぶんそうだ。玖坂さんは僕のことを分かっているとどこかで思っていた。実際そうではないし、覚えていない‥‥というか、分かっていなかった。それが僕の甘えだった。自分の中にそういう思いが少なからずあるということが判明してよかった。僕はそう言ったが、それは完全なる強がりでしかない。本当に自分は素直じゃないと思う。


「でも、単なる思い込みなのかもしれないんですけど、なんとなく、分かるような気がするんです。


 自分が“いま立っている場所に達するまで”にあった様々なことを知らない人から掛けられた言葉は、すごく痛かった。気を使ってくれているのも、頭では解っていても、すごく悔しかったし、憎らしいとさえ思ってしまったりして」


 ほんの少しの間を置いて、ゆっくりと、静かに、言葉を紡いだ。


「そういえば、俊は暫く人が嫌いだと言っていたな」


「いまも、あまり好きではありません」


 どちらかというと僕は一人でいることのほうが好きだ。人から干渉されたくないというか、必要以上に気を遣われたくない。関わるのが怖い。そう思っているうちに嫌いになっていたというのが正しいかもしれない。僕は割とみんなと一緒に馬鹿騒ぎするのが好きだったほうだ。あの事故以来こうなってしまった。いや、自分で壁を作って、そうしてしまった。そこはいい加減改め、一歩進まなければならないところだ。だから僕は玖坂さんに必要以上に構っていたのかもしれない。僕にきっかけを与えてくれた人に手を差し伸べることはなによりの恩返しだし、もしかすると、また新たな道が啓けるんじゃないか。そんなふうに思って、勝手にやったことだ。それなのに、勝手にショックを受けて、勝手に沈んでいた。自分で自分が分からない。なにも玖坂さんがすべてを覚えているという確証などなかったはずだ。


「好きじゃないけど、人を嫌うことで、苦手とすることでそこに滞(なず)むのは、よくない。


 でも、みんな自分勝手なんです。頑張れって。やればできるって。解決する方法を教えてくれないのに、結果だけを求めてくる。どう頑張ればいいのか、どうやればできるのか、その過程が分からないからもがいてるのに、そこは置き去りにして、自分の気持ちばかり押し付けてくる。


 その結果にたどり着く術を持たない自分を恥じるべきだったのに、周りの人を、特に大人を拒絶することでそんな自分を見ないようにしていました。逃げていました。


 でもそれは、許すとか、許さないとか、できるとか、できないとかの問題じゃないんですよ。だって、そこに行き着くまでの道が、自分にはわからないんですもん。やりようがない。やる術がない。だったらいっそやらないほうがいい。それが当時の僕の結論でした」


「でも、がんばったからいまがあるんだろう?」


「改めて考えたら、結局僕は、なにに腹立たしく思っていたのか、その気持ちをどこにぶつけていいのかが分からなかったんです。


 千種のことも自分のせいだってずっと思っていました。だからリハビリもしないし、周りの大人が言うことに耳も貸さない。だって、僕にしか分からない気持ちを、まるで解ったような口調で諭してくるんですよ。おなじ目にあったことがないからわからないだろって言いたかったけど、言わなかった。ただの癇癪だって、自分でも解っていたので」


「先生とか、看護師とか?」


「ええ。僕と兄との温度差はかなりありましたね。僕は手術もリハビリもしたくない。兄はしろっていう。


 どうしようもない状況に置かれているのは自分なのに、兄だけじゃなく周りも挙って言うんです。がんばれとか、このままじゃいけないとか。がんばろうとは思うんです。でも、身体が思うようにいかない。


 一度動かなくなった足をもう一度動かすようにするのって、想像以上の労力を要するんですよ。一生懸命やっているはずなのに思うように行かない。知らない間に周りの時間だけが過ぎてしまっているようで、自分だけが取り残されているように感じて、とても腹立たしくなる。感情がコントロールできなくなる。


 募る苛立ちや、やり場のない得体の知れない感情を、誰かにぶつけないと、自分だけが惨めな思いをしているように思えてなりませんでした。兄に、そして従兄弟に。そうしているうちに、自分自身が勝手に線引きをして、勝手にハードルを上げていることに気付いたんです。


 兄たちの言う頑張れは、僕が思っているような頑張れではなかった。僕は自分で自分の首を絞めていたんです」


「そのときの状況が、いまのナオと被って見える‥‥ってわけか。


 いうても、俊の場合は命に危険があったわけだから、ナオの勝手な引きこもりとは次元が違うぞ」


「そうでしょうか?」


「全然違うって。ナオは俊ほど考えてもいないし、ガチで当り散らしているだけだ」


「もしそうなら、僕はそのほうが羨ましいです」


「マジか? めんどくさいぞ、いちいち取り合うコッチが疲れる」


「僕はそんなふうにしたくても、言える相手がいませんでしたから。玖坂さんにとって、園山さんがそういう相手なんじゃないですかね」


「俊にもガンガン言ってるぞ、アイツ」


「あ、そういえばそうでしたね」


 僕が笑うと、園山さんは少し呆れたような顔で「おまえらしくていいけど、怒れよ」とつぶやいた。


「話を蒸し返すようで悪いが、先生は俊に早く良くなってもらいたかっただけなんだと思う。そりゃ弟にしてみりゃ鬱陶しかったかもしれないけどな。


 でもたぶん、俺が先生の立場でも、俊に早くリハビリしろとか、手術しろとか、いろいろ言っていたかもしれないぞ」


「そう、でしょうか」


「そりゃ言うだろ、ふつう」


「園山さんの場合、『動きたくなったら動けばいい』とか言いそうな気がするんですけど」


「‥‥あー、言うかも」


 園山さんが苦笑する。正直な話、僕は誰にリハビリをしろと言われてもしなかった。自分ができないことを解っているのにすすめられるのが腹立たしかったからだ。でも、享先生や柾は「したくなればすればいい」って言ってくれて、決して強制しなかった。気が済むまでごねればいいって柾は言ったし、享先生はやってみてだめならやめればいいって言った。二人ともほかの人たちとは全く違う視点から僕を見てくれたことが嬉しくて、だから僕は二人がああいうからと自分の気持ちをごまかしてリハビリを始めた。本当は、自分の気持ちを解ってくれたのが嬉しかったからなのに、それは誰にも言っていない。


 柾の言うとおりだ。玖坂さんもきっと、現状を打開する方法を模索しているのだけれど、それが分からなくて周りにあたっているだけだ。そう考えると、昔の僕と変わらない。攻略法も見えてくる。


「園山さん、僕は玖坂さんときちんと向き合いたいです」


「え?」


「玖坂さんがこのうちに来た時に二階には行くなって言ったのは、玖坂さんが昔と違うからですよね? でもいまは、少しずつだけど状況が変わっていると思うんです。僕にはなにもできないかもしれないけど、やっぱり僕は、玖坂さんの力になりたいです」


 そう言うと、園山さんはどこか渋い顔をして、顎に手を宛てた。


「キレるとすごいけどいいのか?」


「経験済みです」


「いや、あれ以上」


「柾で慣れてます」


 園山さんは「あいつは猛獣化するからな」と笑いながら、数回頷いた。


「わかった、任せる。ただし、アイツがなにか訳の分からんことを言ったらすぐ報告しろよ。とっちめてやるから」


 小声で言って、園山さんが僕の頭をポンポンと叩いた。僕はその言葉にホッとした。特になにか方法があるわけではないけれど、僕が柾や享先生にしてもらったみたいに、ただそばにいるだけで、なにかが変わることだってある。僕はそう心に決めて、もう一度頷いた。

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