003
柾から下されたバイト禁止令が解けたのは、日曜日のことだった。柾は朝から機嫌が悪そうに出て行ってしまい、僕がバイトに出かける夕方になるまで帰ってこなかった。メールをしても返事もない。
仕方がないから、バイトに出かけるとメールを打っておいたものの、朔夜の「帰っちゃダメ」攻撃を受けて、早2時間。既に21時を回っているのに気付いた時には、柾からの着信が3件以上入っていて、帰ったら回し蹴りを一発や二発食らうどころじゃ済まないなと思うと、溜め息が出た。
「俊兄、びょうき?」
朔夜が僕の膝の上で寝転がりながら尋ねてくる。
「なんでもないよ。柾に怒られるかなあって、考えていただけ」
「えっ!? 柾兄が怒ってきたら、オレが守ってあげる!」
「じゃあ帰っちゃダメってごねるなよ。俊が怒鳴られるのはほぼおまえのせいだっての」
朔夜の額にでこピンを食らわしながら、園山さん。朔夜は不満そうに園山さんを見上げて、口を尖らせた。
「だって、昨日俊兄来てくれなかったんだもん」
「仕方ないだろうが。悪いな、俊。ジュニアに怒鳴られるのは俺の責任でもあるし、付き合うよ」
「え、いや。大丈夫ですよ、慣れていますし」
「急にバイト禁止令下されたら俺も困るんだよ、ホントに。だから俺からも謝っておかないと、機嫌損ねたらまた禁止令を出されかねんからな」
それに関しては同感だと空笑いを返すと、朔夜がリュックサックを背負って、立ち上がった。
「ママのところに行くんでしょ!? オレ、車に乗ってるね!」
言って、朔夜は軽快な足音を立てて、玄関に向かっていった。
今日は佳乃さんの病院に泊まる日だ。いつもならご機嫌の朔夜も、数日僕が来なかったと言ってかなり機嫌が悪かったが、やっぱりお母さんに会えるとなると機嫌が戻るらしい。漸く帰れるとホッとした僕の頭に園山さんがぽんと手を置いた。
「悪いね、あのわがまま息子が無理を言って」
「い、いえ。僕も、すみませんでした。柾に携帯を取られていて、連絡できなかったんです」
「うん、そんなことだろうと思った。養われの身はつらいな」
「園山さんと、ケンカしたって言っていましたけど」
それとなく話を振ってみると、園山さんは困ったように笑って、頭を掻いた。
「仕事のことで、少し。ケンカって言っても、意見が食い違っただけで、そこまでじゃない。それなのにあの野郎、いつか痛い目に合わせてやる」
ぼそりと園山さんが呟く。聞かなかったことにしようと苦笑を漏らした時、園山さんが時計を見上げた。
「そろそろ送ろう。ちょっと朔夜の着替えを持ってくるから」
「あ、はい」
園山さんがリビングを後にする。僕は淹れてもらったコーヒーを啜りながら、園山さんが降りてくるのを待った。
5分ほど経っただろうか。階段を下りてくる足音が聞こえてきた。
園山さんのものにしては小さい音だ。
誰だろうと不審に思いながらリビングのドアに視線を向けた時だ。ドアを開いたのは園山さんではなく、パジャマ姿の、小柄な人だった。
僕の見間違いでなければ、あの公園であった人じゃないか? 癖のある柔らかそうな猫毛も、独特な髪の色も、見覚えがある。
その人が驚いたように目をまんまるくさせているのに気付いて、僕は「お邪魔しています」とだけ声をかける。そのワンフレーズを言い終えるが早いか、その人は脱兎の如くリビングのドアを閉め、階段を駆け上がっていった。
なにか驚かせるような事でもしただろうか。もしかすると、園山さんから出かけると言われたから、夜食でも取りに来たのかもしれない。それでいるはずがない僕の姿を見たから驚いた‥‥というのが、自然な流れか。
そういえば、ココアやクッキーなんていう、園山さんが飲食しそうもない甘ったるいものがここ最近増えている。それは、さっきの人に食べさせるためだったのかもしれない。
僕が悪いことをしたなと思いながら、マグカップにココアを淹れていると、今度は園山さんの足音が聞こえてきた。
「悪いな、俊。いまへんなのが降りてきたけど、気にしないでやってくれ」
「あ、いえ。僕も驚かせてしまったみたいで」
「どうせ、ヨトウムシみたいになにか漁りに来たんだろう。アイツはマックロクロスケだとでも思って、無視していればいいからな」
そこまで言うかと苦笑すると、園山さんは僕がトレイにココアを置いているのに気付いたらしく、「それは?」と尋ねてきた。
「いつも、夜になったらココアを飲まれているんですよね? 時々シンクにココアが入ったマグカップが置いてあるから、勝手にそう思っていたんですが」
「ああ、アイツな。ついでに、なにか持って行ってやるといいよ。甘いもの好きだし。ドアの前に置いておいたら、勝手に食べているから」
「わかりました」
そう言われて、僕はバスケットの中に入っていたバウムクーヘンを八つ切りにして、お皿に乗せた。
「持って行ってきます」
「ああ、車で待ってるから」
僕はショルダーバッグを背負って、トレイを持ったまま階段を上り、彼がいる部屋の前に立った。数回ノックしたが、返事がない。少し警戒されたかなと思いながら、声をかけた。
「あの、驚かせてしまってすみません」
やはり返事はない。
「ココアを淹れておきました。あと、お夜食にバウムクーヘンも。廊下に置いておくので、よかったらどうぞ」
言いながら、トレイをドアの入り口に置く。部屋の中からはなにも聞こえなかったが、気配だけは感じた。
「それと、食べられたら、また廊下に置いておいて下さい。明日、僕が洗いますから。
勝手なことをしてすみません。お邪魔しました」
そう伝えて、僕は手すりをつたいながら階段を下りた。
さっきの人は、あの公園で出会った人なんだろうか? 別人とは言い難いけれど、なんの確証もない。他人の空似なのかなと思いながら階段を降り切った時だ。僕の目に飛び込んできたのは、あの日、僕があの人――玖坂さんによく似た人に貸した、あの傘だった。柾が勝手につけた猫のマスコットに似たものもついている。コンビニで買ったものだし、同じものを持っている人はたくさんいるだろう。でも、――。
ここで考えていてもらちが明かない。そう思って、僕は傘をそのままに、玄関を出た。
車の助手席に乗り込むと、園山さんが「ナオは出てきた?」と尋ねてきた。
「いえ、無言でした」
「はは、そうだろうな。あの野良猫、誰に対しても警戒心旺盛だからな」
「‥‥あの」
「ん?」
「いえ、なんでも、ないです」
いま、ナオって言いましたよね‥‥とは、言えなかった。なんとなく、聞いてはいけないような気がしたからだ。
本当に玖坂さんだったら、園山さんなら教えてくれるはずだ。ヤツを飼い始めたと言われた日から、なにも聞いていない。これ以上の詮索はよしたほうがいい。そう感じて、僕はそれ以上あの人の話題には触れなかった。
* * * * *
あの雨の降る夜、あの公園で出会ったのは、そして園山さんのうちに居候していたのは、やっぱり玖坂さんだった。それが発覚したのは、僕が自分の傘に似た傘を園山さんのうちの玄関で見かけた数日後のことだった。
やっぱりそうだったという高揚感と、それとはまた別の、それを打ち消すような感情とが混ざり合い、不思議な気分だ。玖坂さんと再会できたことは嬉しい。でもそれ以上に、あの時とはすっかり変わってしまっている玖坂さんに驚いているというのが本音だ。
玖坂さんではない、似ている人だと思った。でもそうではなく、あれは玖坂さんだと確信していた部分もあった。あの公園にある桜の木を見る目は、あの日の玖坂さんそのものだった。表情も、声色も、なにもかもが違っていたけれど、それだけはおなじだった。
僕にとって、玖坂さんの存在はとても大きい。あの人無くしていまの僕は存在しない。そうとまで言えるほど、大事な人だ。
だからこそ、自分の傘を園山さんのうちの玄関で見かけたあとに、園山さんのうちに居候をしているのは玖坂さんではないのかと尋ねなかった。園山さんがナオと呼ぶのは玖坂さん以外いないことを知っていたけれど、敢えて追求しなかった。
玖坂さんがなにか大きな傷を抱えていると一目でわかったからかもしれない。玖坂さんの性格上、それを人に気取られまいとする。そして玖坂さん自身の変化に気付いていながらも、玖坂さんには悟られまいとしている、園山さんの配慮に気付いたからだ。でも結果的にその配慮がふたりの間に溝を作っていた。なにも聞かないほうがいいだろうと傍から見ていて感じるほどだったから、玖坂さんは少々居心地が悪かったかもしれない。
多少間誤付いてはいたけれど僕とは普通に話してくれたのに、園山さんには辛辣な態度をとるらしいのは、そういう理由なのではないかと僕は思っている。
「悪かったね、あの傘が俊のだって気付かなかった」
そう言いながら、園山さんが僕の前にコーヒーカップを置いた。乳白色のなかに濃い黒が注がれていく。僕がいつも砂糖やミルクをいれずにブラックで飲むことを知っているからか、園山さんは「少し濃いめかも」と声を掛けてきた。
「あ、大丈夫です。柾が淹れるエスプレッソで慣れたというか‥‥」
園山さんが苦笑しながら、自分の前に置いてあるカップにもコーヒーを注いだ。
「あっれは苦いな。ブラック党の俺でも苦い。俊はよくあんなものを飲めるな」
それには僕も苦笑した。柾が淹れるエスプレッソは、どう考えてもカフェで飲むそれよりも濃い。イタリア直送のコーヒー豆がどうのこうのと無駄に拘るからなのかもしれないが。
「正直に言って、最初は戸惑いました。なんか、玖坂さんじゃないみたいで」
コーヒーを啜り、かなりの間を置いてから、僕。言おうか言うまいか迷ったが、なにも言わずに傍観している気はさらさらない。
「それに、僕のことを覚えていないみたいです」
はっきりとそう言われた。僕は忘れたことなんて一度もなかったから、正直に言えば少しショックだった。
「俊のことを?」
僕は素直に頷いた。園山さんはなにも言わない。ぽかんとしている。けれどやがてコーヒーを吹き出しそうになって、慌てて口元を拭った。
僕のほうが驚いた。園山さんはよく笑う人だが、僕はおかしなことを言ったつもりなどない。園山さんはティッシュケースからティッシュを数枚引き出すと、それで口元と手を拭いながらもクックッと笑っている。
「まあ、仕方がないだろうな」
なにが仕方がないのだろうか? 僕は首を傾げた。
「ナオに悪気はないんだ」
「いえ、べつに、気にしているわけじゃ、ないです」
歯切れの悪い言い方だった。気にしている。そう言えば気が済むのだろうが、園山さんの手前言い辛い。柾に聞かれていたら、ロシアよろしく分厚いにゃんこの毛皮はいつ脱ぐの? なんて、したり顔で言われるだろう。自分で気にしていないと言いながら、そのセリフは気にしていることを肯定しているようなものだなと思った。思ってもいないのなら、わざわざそんなことを口にしない。
「僕が勝手に恩義を感じているだけだし、玖坂さんは仕事で来られていたんだから」
だから仕方がない。そう言いかけた時、園山さんが肩を震わせながら笑っているのが見えた。なにがそんなにおかしいのかが解らなくて、僕はきょとんとして園山さんを見ていた。
ひとしきり笑ったあと、園山さんは腹が痛いと言いながら目じりに溜まった涙を拭って、僕の方へと目を眇めた。
「気付かないと思うぞ」
言って、園山さんが右手を翳し、自分の肩のあたりに持ってきた。
「このくらいの身長だったし」
「そんなに小さくありませんよ」
園山さんがいくら背が高いとはいえ、中学生の頃の僕の身長がソファーに座った成人男性の方くらいまでなんて、いくらなんでも低すぎる。そう言う意味合いで突っ込んだのだが、園山さんは楽しそうに目元を下げた。
「俺だって、俊があの時の子だって気付かなかったんだ。面影はあったが、ジュニアに教えてもらってようやく得心がいったくらいだし」
「僕、そんなにわかりにくいほど変わってますか? そもそも、園山さんに失礼な態度をとった覚えがなくて。いや、自覚がなかっただけかも」
入院していた当時、僕は自分の体が動かないもどかしさから、兄や従兄弟たちには結構きついことを言っていた。だから辛辣なことを言ったけれど、自分が覚えていないだけなのかもしれない。そう思ったが、園山さんはそうじゃないよと言った。
「あのときと較べると身長も伸びているし、声も違うだろ。前みたいに車椅子でもないし、印象はかなり違う。それに、ただでさえナオは人の顔を覚えるのが苦手なんだ。分からなくても仕方がない」
「そう、ですか」
「だけどまったく覚えていないなんてことはないと思うよ。ド天然だし、脳の回路が繋がるまでは、ピンとこないだろうけど」
そう言われて、僕はなんとなく釈然としなかった。玖坂さんが天然ボケなのは知っているけれど、覚えていないとダイレクトに言われてしまったばかりだ。けれど逆の立場で考えたら、僕だって玖坂さんじゃないかと思いながらも、本人だと確信するまでに時間を要した。つまりそれは、園山さんの言う印象の違いが招く錯覚なのだろう。僕は園山さんが煎れて下さったコーヒーを啜って、妙な気持ちを鎮めた。
「本当は、もっと早く俊に伝えようと思っていたんだ」
不意に園山さんが、改まった、いつもよりも静かな口調で言った。それは玖坂さんが園山さんのうちに居候をしているということについてなのだろう。園山さんはコーヒーを啜った後、それをカップソーサーに戻して、ソファーの背もたれに凭れ掛かった。
「俺も戸惑ったんだ。半年‥‥いや、9か月ぶりくらいに見たナオは、いままでと違っていた。最初は俺のことだって誰なのかわからなかったくらいで、ひどく混乱している様子だったな。俺が俊に、ヤツを飼いはじめたといった日があっただろ?」
僕は鮮明に覚えている。頷き、話の続きに耳を傾ける。
「あの前の日に警察に保護されたらしいんだ。通報とかじゃなく、偶々だったみたいで。冷たい雨が降る中だし、深夜だったし、見つけてくれた警官には頭が上がらないよ。
一旦病院に連れて行ったものの、入院の必要がないからって言われたらしく、それで俺のところに預けられることになったんだ」
「警察から、直接ですか?」
いったいどんなコネクションがあるんだと思う。園山さんだからいろんなコネクションを持っていても不思議ではないが、さすがにそれはないだろうと自嘲する。
「警察に幼馴染がいるんだよ。たまたまそいつが出勤だった日で、見つけたのはそいつのチームだった。だから拾得物よろしく押し付けられたんだって言っていたぞ」
「そうだったんですか」
「最初から俊やジュニアに相談していればよかったんだと、いまでは正直後悔してるんだ。
警察からは轢き逃げとかそういう事件性は極めて薄いけれど、自殺未遂の線が濃いなんて言われたし、ナオにどう接すればいいのかを俺自身が解らなくてさ。
改まった関わり方をすれば、ナオはそこに違和感を懐く。かといっていつものように尻を叩くように接しても、響かなければ意味がない。心ここに非ずというか、どこかに感情を置き去りにしてきたんじゃないかってほど無表情なナオなんて、いままで一度も見たことがなかった。だからこんなナオを俊に見せたら、少なからずショックを受けるんじゃないかと思って、黙ってたんだ。
それで、とっさに小学生でもつかないような嘘をついてしまった」
すまんと、園山さんが言う。
「いえ、それに関しては、本当じゃなかったので全く気にしていません」
むしろ本当に園山さんがヤツを飼いはじめたのではなくてよかったと本気で思っているくらいだ。
「本当に悪かった。
あの野郎は1ナノ程度も覚えていないみたいだけど、時々泣くわ喚くわ大変だったんだ。だから知り合いに相談して、近所の心療内科に連れて行ったり、出来るだけナオを刺激しないような環境を作ってみたり、いろいろやった。
でもなにも改善しなくて、最低限のものしか食わないし、毎日ぼんやりして、ベッドに横たわっているだけだった。そんなとき、ナオが昔描いた絵を朔が俺の部屋で見つけてさ。それをナオに見せに行ったらしいんだ。そうしたら、ナオが急にふらふら出て行ったらしくて」
「それで、僕と公園で出会ったんですか?」
そう尋ねたら、園山さんが静かに頷いた。そんな経緯があったのかと思う。
「その絵って、どんな絵なんですか?」
「あの公園の桜の絵だよ。まだ一本桜になる前のね」
「あの桜の木、元々一本だったんじゃないんですね」
「前はあの近辺にもう5,6本ほど植樹されていたんだ。でも、あそこが公園になる前にあった屋敷を取り壊したときに、業者のやり方が悪かったのかなんなのか、桜の木が枯れたり、腐ったりしてしまって、結局あの一本になったんだって」
「知りませんでした」
「俺も知らなかったよ。ナオがそう教えてくれるまで、ずっと一本だけしかないんだと思ってた。あの公園は元々誰かの屋敷の敷地だったらしい」
「あんな広大な土地が、ですか?」
「らしいよ。区に寄付をする代わりにあの桜の木を残してほしいっていう遺言があって、それを尊重してあの樹が残っているって、ナオが言っていた。なんでナオがそんなことを知っているのかは知らないけどな」
そう言われて、僕はそれ以上なにも言えなかった。あの公園は、玖坂さんの思い出の公園だと、以前出会った時に教えてもらった。あの桜の木はとても大事なもので、毎年あの桜の絵を描くっていう約束をしている、と。それが誰との約束なのかとは聞かなかった。玖坂さんの目が、大事な人との約束なんだと語っているように見えたからだ。
「そもそもさ、警察も警察なんだよ。ナオを病院に運んだあと、ものすごい熱があったから、もしかしたら風邪をひいて熱があったせいで行き倒れていたのかもしれない‥‥なんてさ。自殺未遂なんていう突飛な案を出してくる前に疑うのはそっちだろうって言うね」
「あの悪徳警官が」と、園山さんが声を尖らせる。園山さんが言うのは、園山さんたちの幼馴染のことだろう。
「傘も差さずに、あのくそ寒い中を徘徊するなんて、通常の精神状態ならできないっていうかやらないことだから、自殺未遂だって思われても仕方がないかもしれない。でもそんなのをさ、入院させるならともかく、人のうちに押し付けるか? 朋の野郎、俺に押し付けたうえで『俺の勤務は不規則だし、知耀には任せられないし、園のうちに居候っていう選択肢以外ないな』なんて言うんだぞ。無責任極まりない。挙句飯を食わないって状況報告をしたら、『ウィダーとかカロリーメイトとかメイバランスとかでも流し込めば?』なんて言うんだ。‥‥まあ、参考にさせてもらったけどな」
なるほど、高カロリー栄養食で攻めたのか。ほとんど食事をとらなかったと聞いていたから、よく生きていたなと不思議だったのだけれど、そう言われて納得した。もちろんそれだけで済ませたわけではないだろう。あれこれ試行錯誤の上に玖坂さんを見守ってきたのだから、園山さんが玖坂さんのことを必要以上に気にかけてしまうのは当然のことだ。
「その時に較べたら、いまは随分落ち着かれたみたいですね」
「まあ、な。口答えをする元気は出てきているみたいだし。前に較べると少しずつは食べているから、改善の兆候だと思っているよ」
「改善、ですか」
「あれがなんなのか、正直なところ理解しかねる。あの虚脱状態を改善する薬もいくつか処方されたけど、結局飲ませてないしな」
「そうなんですか?」
「ナオの性格上、落ち込んでも2,3日でけろっとしているのがデフォルトなんだ。悩むだけ悩んで、いつのまにかその悩みを噛み砕いて、飲みこんで、克服している。だから、時間が解決してくれると思った。でも、そうじゃなかった」
俊はどうすればいいと思う? と、園山さんが尋ねてくる。どうすればいいかなんて、僕にはわからない。なにがきっかけで玖坂さんが落ち込んでいるのかも判らないのに、安易な言葉を投げかけるのは、却って玖坂さんを傷つけかねないからだ。
「僕も、時間と共に、少しずつ、自分の気持ちと心の狭間にある壁が融解するのを待つしか、方法がないと思います」
それは僕の体験でもあるが、自分が置かれている状況を、自分自身が徐々に飲みこみ、理解していくしかない。周りのフォローが必要なこともある。でも、それが逆に鬱陶しく思うときもある。それが自分に近しい人間であれば、余計に。
「でも、僕は玖坂さんの力になりたいです。玖坂さんはそんなつもりなんてなかったのかもしれないけど、僕がリハビリをがんばろうって思えたのは、玖坂さんのおかげだから」
「それは助かるけど、朔の面倒を見るだけでも大変じゃないか?」
「朔夜はよく言うことを聞くいい子です。たまにわがままを言いますが、寂しいからだと理由がわかります。それに、朔夜も玖坂さんのことを心配しているんです。じつは、『なおちゃんがごはん食べないからニュウインしちゃうかも』って言って、何度か泣いたこともあったし」
「そうなのか? 知らなかった」
「パパの元気がないのはなおちゃんの元気がないからかもしれないって、結構気にしていたんです。だからその桜の絵を見つけたのかもしれませんね。朔夜は玖坂さんが絵を描いてくれるって言って、喜んでいましたし」
「でもナオが描く絵って、リアルトトロとかだろ? リアルぷーは正直引いたぞ」
「や、さすがにそれは子どもの前では描かないかと」
玖坂さんは才能の無駄遣いをよくしている。僕があの公園で玖坂さんと話をしていた時も、桜の絵を描きながらも、余白にかわいらしい猫のイラストや、妙にリアルな猫の絵を描いたりしていたのを思い出して、リアルぷーさんの衝撃度はかなりのものだろうと想像した。
「玖坂さんが元気になったら、朔夜も喜ぶと思うんです。僕になにができるかって言われると、なにも思いつかないんですが、それでも、力になりたい」
それは僕からの恩返しのようなものだ。玖坂さんが僕を覚えていないとしても、僕は玖坂さんから数えきれないほどのことを学んだ。園山さんは僕の心中を酌んでくれたらしく、解ったと頷いた。
「ああ、そうだ。ナオが一日一食食べに降りてこなかったら、俊のうちにレンタルに出すって話をしてるんだよ。もしあいつがごねてそうなったら、頼んでもいいか?」
「レンタル、ですか?」
「そうでも言わなきゃ、食べるのが面倒くさいとか、おなかがすいてないとか言って、本当に食べないからな」
勝手に巻き込んで悪いがと園山さんが言う。玖坂さんなら本当にそう言いかねないし、そう言われたら意地でも一食は食べるような気がする。僕だけだったら即答するけれど、ひとつ大きな障害がある。相談した瞬間に象ですら怯むほどの怖いオーラを発して却下されそうな気もするが、実際に言ってみないと解らない。
「柾の了解を得られるかは解りませんが、話してみます」
「うん、頼むよ。正直、期待してるんだ。俊がナオの殻を破ってくれるんじゃないかって」
「僕が?」
「俺の勘だ。ナオは基本的に警戒心が強いんだが、俊には割と抵抗なくいろいろ話しているみたいだからな」
俺の勘は当たると、園山さんが自信あり気に言う。
「それに、いろいろと持て余している節があって、正直に言うとナオの対応に困っていたところだ」
言って、園山さんがコーヒーを啜った。持て余しているというのは園山さんの本音だろう。この人の性格上、そして二人の間柄を加味して考えると、玖坂さんが多少落ち込んでいるだけなのであれば奮起させる方法など何通りも知っているはずだ。けれどそれをしない、或いは出来ないというのであれば、僕の想像通りなのではないか。
僕は少し考えて、僕の膝を枕にして眠っている朔夜の頭を撫でた。
「分かりました。さすがに今日は機嫌が悪くて、相談どころじゃなさそうですが」
「なにかあったのか?」
「わかりません。ケンカをしたわけじゃないんです。だけど出勤前に着たメールを見てから、ものすごく不機嫌そうで。僕がアパートを出たときも、ドアを閉めた瞬間に鍵を掛けられました」
「あはは、すげー想像がつく」
「笑い事じゃないですよ。電話してもメールしても無視するし、今日は家に入れてもらえそうにないんですから」
「しょうがないな、あいつにそこまで惚れられたおまえが悪い」
僕がぼやくように言うと、園山さんは穏やかに笑った。まるで柾のことを知り尽くしているとでも言わんばかりの表情で、僕は少し恥ずかしくなった。
園山さんは柾と付き合いが長く、多面的で複雑な柾の内面をよく知っている。もちろん知らない部分もあるのだろうが、園山さんの包容力に甘えているのか、柾も結構地を出しているところがあった。柾は大事なことは面と向かって言えない性格でもあるから、余計に気まずい。僕が黙っていると、園山さんがなにかに気付いたように顔を上げた。
「お迎えが来たみたいだぞ」
「え?」
僕が尋ねたのとほぼ同時に、玄関のドアが開く音がした。どかどかと乱暴な足音が近づいてくる。この足音は柾だ。なんだか嫌な予感がする。そう思ったとき、リビングと廊下をつなぐドアが勢いよく開かれた。
「お帰り、ジュニア」
「‥‥ごめん、マジでおまえの存在を忘れてた」
「ええっ!?」
「一山片付きそうだったから集中してたら、リツカさんから『俊くんのお迎えはいいの?』って言われて気付きました。ごめんなさい。すみません。三食抜きは勘弁してください」
特に悪びれた様子もなく、柾が言う。園山さんは「そんなことだろうと思った」と呟いて、僕に近づくと、眠っている朔夜を抱き上げた。
「お迎えが来たことだし、帰って休め。膝はよく冷やしておけよ」
「だ、大丈夫ですよ。ちょっと転んだだけだし」
「言ったろ? 俊が来れなくなると困るんだって。ジュニア、俊の膝を後で見てやってくれ。玄関先で盛大にこけたからな」
「なにやってんの? マジで間抜けー。こけるとかありえなーい」
「うるさいな、思った以上に足が上がらなかったんだよ」
「やだー、おじいちゃんみたい」
まるで茶化すように言った後、急に体が宙に浮いて、僕は思わず声を上げた。
「ちょ、ちょっと、柾!」
「無理すんな。お兄様に怒鳴られるのは俺なのよ。どうせ夜だし、園さん以外誰も見てないじゃん」
「くっ、男に姫抱きされる屈辱がおまえにはわかるまい」
「わかんないねー。190センチ弱の男を姫抱きできる相手をお連れになったらよいんじゃなくて?
じゃあ園さん、託児所代わりにしてごめんねー。おやすみー」
「仕事に集中するのはいいが、俊のことは忘れるなよ」
「はいはい、わかってますって。気をつけまーす」
語尾を伸ばしたいつもの口調で軽く言って、柾がずんずんと玄関に向かっていく。玄関で僕を下ろし、靴と鞄を持たせた後、また軽々と抱き上げられた。
「歩けるってば!」
「最近リハビリもサボってるらしいじゃない。どうせまた筋肉がガチガチに固まってるんだろ」
分かったように言って、柾が器用に玄関のドアを開ける。僕は恥ずかしさのあまりそれ以上口答えができず、柾に抱かれた状態で園山さんの家を出た。これじゃ自分でなにも出来なかったときに戻ったみたいだ。妙な苛立ちと焦燥感が頭を支配していく。ふっと体が浮いた。柾が僕を助手席に乗せたのだ。僕が妙な気持ちに駆られているのを悟ったかのようなタイミングだった。
「ほら、ね。俺の不安的中」
「え?」
柾の不安? きょとんとする。車のシートは冷たいが、車内は随分暖かい。暑がりの柾がここまで暑くする理由はひとつ、僕の足を気にしてくれていたのだろう。
「なんで?」
僕は訊ねた。釈然としなかったからだ。柾は夜遅いということもあってか、静かに助手席を閉めた。車の後ろから回り込み、運転席に乗り込む。そうかと思うとシートベルトを掛け、ちらりとこちらに視線を寄越した。
「珍しく装具がなかった」
ドヤ顔で柾が言う。
「それはたぶんここ」
と、柾が僕の膝を叩く。その通りだ。今日は寒いし、なんとなく膝が痛い。いつもはサポーターだけだったが、長時間歩いたり、作業をするときにつけるように言われている装具を付けていたのだ。機嫌が悪かったくせに、そういうところは目ざとい。僕はお節介と小声で柾を非難した。
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