002
――3月上旬。僕は無事に大学入試に合格することができた。4月から念願の社会心理学科で、様々な勉強をすることができる。逆にそれは、今月いっぱいで園山さんと朔夜とはあまり会えなくなることを意味していた。
大学で勉強をしながら、いままでのようにバイトをする自信がないという僕のエゴから生まれた疑念が、バイトを辞めるという結論に至らしめた。実際にやってみて、無理ならやめればいいと柾は言ったが、中途半端なことはしたくないという僕の意向を酌んでもらった形になっている。
今があるのは、園山さんのおかげでもある。僕がバイトをできる環境はかなり限られているから、2年間雇って頂けたことに感謝してもしきれない。
もし、いま、あの人に出会えたら、どんな顔をするだろうか? 千種のアトリエができたときのように、慈悲深い、穏やかな表情で、よかったと笑ってくれるだろうか?
そんなことを思いながら歩いていたら、園山さんのうちへの行き帰りで必ず通るいつもの公園のベンチで、とても懐かしい人によく似た人を見かけた。
その人は、冷たい雨が降りしきる中、公園に佇む桜の木の前にあるベンチに座って、ぼんやりと桜を眺めていた。なにをするでもなく、ただ、ぼんやりと。
感情を悟ることができないほど無表情だというのに、桜を見上げる目はとても優しい。憂いているようにも、愛おしんでいるようにも見える。僕がいま一番会いたい人に似ているからだろうか。僕は無意識のうちに、その人に傘を差しだしていた。
「風邪ひいちゃいますよ」
僕が声を掛けると、その人は弾かれたように顔を上げた。桜を見つめる目や容姿はその人――玖坂さんと似ていたが、まったくの別人のようにも見える。憔悴しきったような顔や纏っている雰囲気がそう錯覚させるのだろうか。
声を掛けたはいいものの、僕が知っている玖坂さんとは異なる雰囲気に怖気づいてしまった。雨が降る夜ということもあり、あたりを照らすものは公園の明かりだけだ。こう薄暗くてははっきりとは見えないから人違いをしてしまったかもしれない。そう思いはしたものの、その人から視線を逸らすことが出来なかった。
とてもさびしい目をしている。僕を見る目には驚きと不安が入り混じっているのに、その人もまた僕から視線を逸らさない。お互いがどう反応していいのかに逡巡し、硬直しているかのようだ。その均衡を崩したのは、その人の瞳だった。愁いに満ちているのにとても澄んだ綺麗な目をしている。不安げな目はまるでなにかの糸口をつかんだように淡い冀望を帯びたように見えた。
髪の毛から雨粒が滴っている。涙なのか、雨粒なのかわからないほど、顔も、服も、びしょびしょだ。
僕はショルダーバッグを漁り、おろしたてのスポーツタオルを取り出した。
「もうすぐ、雪が降るみたいですよ」
言いながらその人にタオルを差し出す。その人は不安げなのに安堵の色をうかがわせる瞳をそのままに、僕とタオルとを交互に見つめた。
あたりを観察して見たが、傘を持っている様子もない。今日は昼下がりからずっと雨が降っていたから、ここで考え事をしていて雨に降られたというわけではないだろう。
いつからここにいたんだろうか? 頬はすっかり白くなっていて、唇も青い。けれど少しも震えている様子がない。寒がりではない僕でも、厚手のコートを羽織っているほど寒い夜だというのに、セーターとパンツとのみという軽装だ。手袋とマフラーが近くにあるわけでもなさそうだった。
「あ、ありが、とう」
かなりの間があったものの、その人はおずおずと僕からタオルを受け取った。まるで感触を確かめるようにタオルに触れた後、その人はゆっくりと濡れた髪や顔を拭き始めた。よからぬことを考えているのだろうかと一瞬思ったけれど、もしもそうならこんな顔をしないだろう。驚きと、意想外な気持ちが入り混じったような、複雑な表情をしているその人に、僕は自分が持っていた傘を差しだした。
「傘、よかったら使って下さい」
「‥‥え?」
その人が心配そうな顔をした。こんなに雨が降っているのに、自分に貸したら僕はどうするんだと言わんばかりの表情に、思わず口元が綻びる。
「もうすぐ迎えが来るので、なくても大丈夫なんです」
言って、彼の手に傘を握らせた。
彼はどう表現すればよいのかわからないといった表情で、僕を見上げていた。なにも言わないのに、なにが言いたいのかがわかるような気がして、再度大丈夫だと告げる。
そして彼がなにかを言いかけた時、バス停の近くに停まった車がクラクションを鳴らした。柾だ。僕は彼に頭を下げて、柾が待っている車へと向かった。
その時、彼が急に、僕の袖口をつかんだ。なにを言うわけでもない。でも、まるで縋るような目に、僕はいままで懐いていた違和感の正体に気付いた。
この人はきっと、自分がいる場所から逃げ出そうともがいている。でもその方法が分からなくて、感情が定まらなくて、辛いんじゃないか。なんとなくそう感じて、話しかけようかと思ったが、柾が急かすようにクラクションを鳴らした。これ以上待たせたら置いて帰られるかもしれない。そう思って、僕は後ろ髪をひかれるような気持ちを抱いたまま、彼に頭を下げて、その場を後にした。
* * * * *
「そういや、おまえ傘どうしたの?」
アパートに着いて、車を降りようとしたとき、ふと気づいたように柾が言った。
公園で車に乗り込むときにはなにも聞かなかったのは、ただ単に気にしていなかっただけだったようだ。
「さっき、人に貸した」
「はあっ?」
柾が怪訝そうな声をあげる。それはそうだろうなと心の中で呟いて、僕は続けた。
「なんか、放っておけなかったから」
「赤の他人を放っておけないのに、おまえが退院してからずーーーーっと面倒見てやっている優しい俺様がお兄様にどやされるのはいいってのね? ああそう、そうなのね。サイテー」
「そ、そうは言ってないよ」
矢継ぎ早に言う柾にたじろぎながら反論すると、柾は眉間に皺を寄せたまま、車のドアを開け、運転席とドアの間に入れていたであろう傘を開いた。
「おんなしことやん。園さんにまで面倒かけたら犯すぞ、おまえ」
若干怒ったような口調で、柾。そう言いつつも助手席のドアを開け、傘を差しだしてくれる。なんだかんだ言っても面倒見がいいし、ほとんど不自由なく生活できるのは柾のおかげだ。
このまま本音を言わずにいると、きっと柾からは「まだ俺を信用できないのね」とか、「他に男がいるのね」とか、傍から聞いていたら固まるようなことを言われるだろう。言わずにおくつもりだったけれど、僕は意を決して、口を開いた。
「その人、玖坂さんだった」
一瞬、柾の顔が、僕が見たことのない顔になった。けれどすぐにその表情をすり替えて、「へえ」と短い返事がくる。
「かも、しれない」
「なんだそりゃ」
僕が助手席を降り、ドアが当たらない位置に来たのを確認して、柾がドアを閉めてくれる。ちらりと表情を伺うと、柾はいつものように飄々としていて、「いくら恩人に似てても俺なら貸さんわ」と鼻で笑っていた。
それから、アパートの部屋に行くまで、そして、僕がシャワーを浴びて戻ってくるまでの間、柾は無言だった。漸く口を開いたのは、夕食の時に使った食器を乾燥機に入れ終えた僕が、そろそろ寝ようかと布団をかぶったころだ。
「ほんとに、本人だった?」
「え?」
「さっき、言ってただろ。玖坂さんだった、って」
あまり見ない、真剣な目だ。僕は「わからない」と正直に答えた。
「二年前とは雰囲気が違いすぎて、なんとも」
「なんだよ、人のことテキトーテキトー言えねえじゃねえか」
ぞんざいに吐き捨て、柾が頭まで布団をかぶる。もぞもぞと布団の中で体を動かすと、少しして、また顔をのぞかせた。
「さっきの公園で、出会ったんだろ?」
「そう、だけど」
「なんか言ってた?」
「え?」
「いや。雰囲気が違うって、どんな感じに?」
「なんだろう? よく、わからない。僕の中のイメージとは全然違ったってことだけしかいえない」
「憔悴してる、みたいな?」
「いや、一概にそうとは言えないかな。まるで別人みたいに、表情がなかった。とても静かで、閉鎖的で、悲しげで、それでもどこかにつながりを求めているように思えて仕方がなかったんだ」
そこまでいうと、柾は「ふうん」と短い返事をして、また布団の中に潜っていった。
柾はなにが言いたいんだろう? 玖坂さんのことは、僕との会話でしか知らないはずなのに、どうして踏み込もうとしたんだろう? それが不思議で尋ねようとしたけれど、やめた。なんとなく、聞いてはいけないような気がした。
「無事に、帰れたかな?」
「ん?」
「玖坂さんに、似た人。まだ、あそこにいるのかな?」
外は霙が降ったり、冷たい雨が降ったりと、忙しない。こんな遅くまであそこにいたら、凍えてしまうかもしれない。僕の言いたいことが分かったのか、柾は大きなため息を吐いた。
「ほっとけよ。こんな雨が降ってるんだから、どうせにホテルか家にでも帰ってるだろ」
「でも、服とかびしょびしょになるほど外にいても、全然震えてる様子とかなかったんだよ。感覚がわからなくなっているというか、なんて言っていいかわからないけど」
雨が降り出したから宿泊先に帰るというなら、あんなにびしょ濡れになる前に帰っていると思うというと、柾は面倒くさそうに肩を竦めて、「頭冷やしたかったんじゃねえの?」と茶化すように言ってきた。
「様子を見てこようかな」
ぽつりと言った時だ。柾が「アホか」と尖り声をあげた。
「動物とか幼児じゃねえんだから、自分でどうにかするだろ」
両手を広げながら、やや苛立ったように言う。普通ならそうすると思うけれど、僕はなにかが引っ掛かって、そうは思えなかった。
「でも、放っておけないよ。もし、本当に玖坂さんで、事故に遭ったりとか、なにか危ない目にあったりとかしていたら‥‥」
「おまえなあ、自分のことも自分でよう仕切らんくせに、他人のことほいほい請け負おうとすなや!」
急に柾がイラついたように怒鳴った。その勢いに気圧されて二の句を継げなかった僕の足を蹴り上げて、柾がガシガシと頭を掻いた。
「おまえがやっていいのはうちの家事と、園さんとこの手伝いと、予備校通うだけっつってんだろ。これ以上とやかくぬかすなら、出てけ。出てってお兄様と暮らせよ」
「な、なんで急にそんなこと」
「は? 別に。お前が俺の言うこと聞かないのがムカつくだけ。わかったらとっとと黙って寝ろ」
柾の目が冗談を言っている目ではないことに気付いた。
横暴というか、なんというか。けれど実際は柾の言うとおりだ。日によって自分のこともきちんとできないことがあるし、他人のことを気にする余裕を持つのは必要でもそれを熟すことは難しい。それは解っている。だけどどうも腑に落ちないし、気にしないふりができなかった。
この気持ちは柾には解らない‥‥なんて言ったら、間違いなく窓から放り投げられるなと心の中で苦笑して、僕はせめてもの反抗で、無言のまま部屋の電気を消した。
***
また夢を見た。さすがにあれから2年経っているせいか、さほど寝汗も書いていないけれど、正直寝ざめが悪い。頭が痛い。ずきずきと痛む頭を押さえて、布団の上で跼る。隣には柾がいた。柾の腕が僕の肩にかかっている。それではっきりした。やっぱり、あのときとおなじだったのだろう。
少し違うのは、僕があの時のことを昇華しようとしていることだろうか。初めてあの夢を見た時とは違って震えてもいないし、気分が悪くて吐くほどでもない。僕は柾の腕を除けて、ゆっくりと起き上がった。
3月だというのに、柾は布団をなにもかけていない。薄着ではないにせよ、体が冷たくなってしまっている。
「柾、起きて」
柾を揺り動かすと、うーんと唸って体を丸めた。寒いのだろう。少し震えている。僕は柾に布団を掛けて、部屋の暖房を掛けた。
気になって仕方がない。僕はあの夢を見て、一体なにを口走っているのだろう。なにを喚いて、なにを嘆いているのだろう。そこに僕の秘めたる気持ちがあるのだろうが、自分では知る手立てもない。だったら柾に尋ねるのが得策だろう。
そう思ったが、柾はきっとしらばっくれるのだろう。過去に何度か聞いたことがある。どうしたらあの夢を見なくなるのか。どうしたら普通に生活できるようになるのか。柾には関係ないのに、まるで柾が悪いように縋り付いて泣いたこともあった。
あの時は柾に悪いことをした。なんとなく湧いてくる罪悪感を振り払うようにがしがしと頭を掻く。そのまま眠っている柾に視線を落とすと、大きな手が伸びてきて、パジャマの裾を握られた。
「わっ。起きたの?」
返事はない。その代わりにごそごそと柾が寄ってくる。
「寒い」
「そりゃそうだろ、3月なのに布団もかけずに野良寝したら寒いに決まってる」
ソファーからブランケットを引っ張り、柾の首元に掛けてやる。柾はまるで猫のようにそれにくるまり、ごそごそと頭まで布団を被っていった。
「もう大丈夫?」
柾が尋ねてくる。
「うん。ごめんね」
「そう思うならとっととカウンセリングにでも行けよ」
柾が布団の中からにゅっと手を出した。柾の左手は人差し指だけを立て、数字の一を表していた。
「いち?」
「特定の出来事が基因で一年以上同様の夢に悩まされる場合は心因性のなにかがある可能性が高い」
次に柾の中指が立った。
「俺も俊平も4月から大学生で、特にお前は実習先で一人で寝ることも多くなる。場合によっては俺もバイトが忙しくて戻ってこれなくなる可能性が高くなる」
薬指が立った。力なくその手が布団に落ちていく。
「柾斗くんは俊平くんが魘されるたびに呼び戻すのに疲れた」
もう勘弁してと柾が嘆くように言う。呼び戻すという表現に、僕は言いしれぬ感覚を懐いた。
「ねえ、僕はなにを言ってた?」
柾は答えない。寒いと言って、左手を布団の中にしまってしまった。まったく記憶がない。けれどなんとなくだけれど、状況の把握は出来る。手足の痺れ。頭痛や胸痛。倦怠感。夢の中で生じる首を絞められたかのような息苦しさと窒息感は、おそらく現実のものだ。僕は居た堪れなくなってきて、柾を蹴った。
「おい、ケンカ売ってんのか?」
柾が顔を出し、僕を睨む。
「二年もなにも言わずに面倒見ていたくせに、よく言う」
「だって前にカウンセリングに行けって言ったら、すげえ勢いで泣いたじゃん。俊ちゃんに泣かれた時の罪悪感ってハンパないんだから」
ぼそぼそと柾が言う。ある意味でトラウマよと継いだ後、柾はまた布団の中に引っ込んでいった。
僕は柾に泣いて縋った記憶があるが、どういう理由でだったのかは覚えていない。けれどそれ以降柾がカウンセリングに行けと言わなくなったような気がする。僕は柾の背中にぽんと手を置いた。
「ごめんね、柾。言いたいことは、分かってるんだ」
カウンセリングに行ったところで仕方がない。どうしようもない。たぶんそれはあの事故が基因となり、人とはどこか違う面で傷として残っている。それを他人に易々と晒したくはないし、あの事故の裁判は終わっているとはいえ、傍聴した人も少なくはない。カウンセラーの中にそういう人がいないとも限らないのだ。
どうせ掛けられる言葉は決まっている。自分は貴方の味方だから。話したいことがあったら自由に話して。そう言われても、僕には話したいこともないし、自発的にここに来たわけでもない。そもそも知りもしない人を味方だと思い込める人の心理を知りたい。そう突っぱね、壁を作り、初っ端でカウンセリングを辞めてしまう。いつもそのパターンだ。
いままでにも全く行かなかったわけじゃない。秀に紹介されたり、総合病院で過去に診察してもらった医師の元を訪れたり、これでも努力をした方なのだ。
「じゃあバイト辞めんな」
意外なセリフに、僕は驚いた。
「え? なんでバイトと関係が?」
「物事に打ち込んでいたら自然とそういう症状が減っていく。事実、バイトを始めてからお前が魘される回数は劇的に減った。でも、おまえの心理の中にインプットされたそれは、そう簡単に消えるものじゃない。もしかすると、人との関わりが無くなることで、打ち込むものが無くなることで、そういう症状がまた現れないとも限らない」
「考えすぎだよ。大学に行くんだから、人との関わりが減るわけじゃない」
「俺はそれが心配だっつってんの」
柾ががばっと体を起こした。なにか言いたげな顔だ。けれどどこまで言っていいものなのかと思案しているのだろう。その証拠に、こういう口調の時にはないほど視線が彷徨っている。
「同い年の人や、それ以外の"普通の”人と関わって、それが僕のストレスになるんじゃないかって、心配?」
柾はなにも言わない。けれど顔にそう書いてある。
「そんなもの初めから解ってるじゃない。結構スルースキルが備わってるから、大丈夫」
そう言いかけた時、珍しく柾が俯いているのに気付いた。勢いよく突っ込まれる。どんと音がしそうなほど強く布団に叩きつけられた。
「足のことを訊ねられても、あの事故を覚えているやつがいても、それでも平気?」
それは分かりきっていることじゃないかと思う。どうしていまさらそんなことを言うのか、僕にはわからなかった。
「もしかしたら、仲良くなったやつがドライブに行こうって誘ってくるかもしれないじゃん。おまえ人が運転する車に乗れるの? 俺が運転する車にだって去年くらいから漸く乗れるようになったくせに、本当に大丈夫なわけ?」
「心配しすぎだって。誘われたって断るし、人って意外と気付いても言わないものじゃない」
柾が大きく溜息を吐く。そうかと思うと脇腹を抓られた。
「じゃあなんで昨日はいつもと違ったんだよ? ちー坊の個展のことで色々と大変だったから? 手伝うって言ったことで周囲の目に晒されるのが怖いからじゃないのかよ」
やっぱり柾は鋭い。僕もそうじゃないかと思っていた。ひさびさに見た夢は、なんとなくいつもと違っていたのだ。
「わかった?」
「わかるわボケ」
柾がガシガシと頭を掻く。僕から下りてごろりと背を向けると、深い溜息を吐いた。
「バイトは辞めんなよ。完全に辞めるんじゃなくて、落ち着いたら戻れ。園さんや朔夜に頼られるのは嫌な気分じゃないだろ?」
「嫌だったら続けてないよ」
「じゃあ大学に慣れたら復帰しろ。自宅とは別の居場所を設けることは大事なことだ。どうせサークルにも入るつもりもないんだろ」
柾の言うとおりだ。サークルに入ることは考えていない。運動はできないし、必要以上に誰かとの関わりを求めているわけでもない。僕は僕が生きる為に大学に通うことを決意しているのだ。
「じゃあここは僕にとってなんなの?」
「ここは俊ちゃんと俺の愛の巣でしょ?」
躊躇うことなく言ったあと、柾の肩が震える、自分で言っておかしくなったのだろう。僕はそれにつられて笑った。
「愛の巣とか、馬鹿じゃないの?」
「言った俺自身馬鹿だなと思った」
くっくっと柾が笑う。柾の存在はとても心強い。きちんと考えてくれている。僕は曖昧な気持ちの狭間でいまももがいているのに。
「本当は、どうでもよかったんだ。学校なんて」
ぼそりと言った。柾はこちらを向かない。
「高卒認定試験を受けるように言ったのは、兄のほうが先だった。受けるつもりはなかった。どうせ他人の好奇の目に晒されるだけだし、動けるようになる保証もなかったし。
でも、柾は別の角度から僕に言った。勉強したいと思うことがないなら、自分がこうなりたい、こうしたいって思えるものに興味を持てばいいって。僕は入院中にいろんな本を借りて、心理学に興味を持ったから、じゃあそれを勉強してみようって、そう思った。
僕の為でもあると思ったんだ。それを勉強することで、自分で自分が置かれている状況をきちんと知りたいって。そうすればもしかすると、あの夢も見なくなるかもしれないって。その時に学んだことで、もしかすると追々誰かの助けになるかもしれない」
「他の人にはない、俊平の経験を使って、か?」
「うん。柾の言うとおり、事故に遭ったことはある意味でメリットだと思ってる。デメリットの方が大きいし、それをメリットとして活かすには長期戦になるのも分かってる。
でも、不安の傍らに必ず安心と希望がいるんだ。その不安に打ち克ったら、園山さんや、千種が笑ってくれる。喜んでくれる。いまはそれでいい。その積み重ねがたぶん、トラウマの払拭につながるんじゃないかって、そう思ってるんだ」
「それなら、いい」
柾はごろんと仰向けになった。
「腹減った」
遠慮がない。昔は僕がうなされた翌日にはごはん作らなくていいとか言って、気にかけてくれていたのに。それを思い出したらおかしくて、吹き出した。
「昨日ポトフを作ったのがあるから、そろそろ食べられると思う」
「なに笑ってんのよ?」
「なんでもない」
柾がいままでより対等に見てくれるようになったような気がするなんて、口が裂けても言えない。一生馬鹿にされそうだ。僕は起き上がって、柾の朝食を用意するためにキッチンに向かった。
***
その翌日、僕がバイトに行こうと準備をしていたら、不機嫌そうな面持ちでバイトから戻ってきた柾から、通りすがりに右足を蹴られた。なんに対する無言の抗議なんだろうかと膝を擦りながら考えていると、大きなため息の後無造作に髪を掻いて、言った。
「おまえ、今日からバイト禁止な」
「えっ!?」
思わずあがった僕の抗議に対する柾の返事は、射るような視線だった。
「俺の言うことがきけねえわけじゃねえよな?」
不機嫌そうに柾が言う。どっかりとソファに腰をおろし、足を組みながら言うその姿は、宛らマフィアだ。さすがラテンの血を引く男だなと思っていると、柾が焦れたように舌打ちをした。
「なんで急に? 理由次第では従わない」
「理由? 俺が園さんとケンカしたから、貸してやらない。それだけ」
「はあっ?」
昨日のことはなんら関係ないらしい。内心ほっとするも、この理由で納得できるわけがない。そう抗議しようとした僕の目の前に立ち上がってきたかと思うと、柾は無言で僕の腕をつかんだ。
「言うこと聞かないでいくっつーんなら、俺にも考えがある」
「な、なに?」
この状況こそが蛇に睨まれたカエルというヤツかと思うほど、身動き一つ取れなかった。柾の威圧感はいつも以上で、抵抗したら100倍返しくらいされるだろうと肌で感じた僕は、絶対になにかされると解っていながらも、敢えて問い返すだけにとどめる。
もし柾がなにかとんでもないことを言い始めたらどうしよう。ふとそう思った時、突然視界が回った。
勢いよくベッドに伏せられて、思わずうめき声があがる。それなのに、柾はものすごく楽しそうな声色で、言った。
「俺チョーむしゃくしゃしてるし、気分転換に俊平くん犯して、動けなくするっていう画期的な方法を思いついたのよね」
「ま、まだ行くともなんとも言ってない!」
「やーだ、おまえ認知症? ちょっと前に『納得しない』って見栄切ったじゃないの。だから、おまえにも、園さんにも、ずたずたになるほどの復讐してやろうかと思ってね」
言いながら、柾が僕の腹の下に手を伸ばして、器用にベルトを外し始めた。
全身の血の気が引いていくのを感じながら、僕はせめてもの抵抗とばかりに、柾を睨んだ。
「い、如何わしいことしたら、夕飯作らないからな」
「へえ、この状況で俺に指図しちゃうわけね、おまえは」
『なんだ、そのレベルの低い脅しは』と付け加えながら、柾が僕のズボンを脱がしにかかる。
「やめっ、園山さんへの復讐だったら、僕は無関係じゃないか!」
「だーかーらー。さっき言っただろうが。これ以上ガタガタ抜かしがやったら、バックバージン奪うどころか、男娼並みに開発してやっからな」
か、勘弁してくれっ。必死で柾に謝ったけれど、柾は僕が謝れば謝るほど楽しそうな笑みを浮かべて着々と僕の服を脱がして準備を進めていく。ああ、ここで柾に頭突きでもかまして逃げようとしたら、最後までされること必至だな。僕は諦念の溜息を吐いて、せめてこれ以上柾の怒りを買うまいと抵抗をやめた。
ふと柾の手が止まった。恐る恐る振り返る。柾は不満げな顔をして僕のズボンから手を離すと、音を立ててベッドに腰を下ろした。
「つまんない。もっと抵抗してよ」
半分ずりおろされたズボンを整えながら柾を睨む。柾は少し唇を尖らせた後、仰向けになった。
「あと一言でも俊平が園さんを庇うような発言をしたら、その時こそ犯してやろうと思ってたのに」
言わなくてよかったと心の底からホッとする。柾の不機嫌はそれだけじゃないと肌で感じた。いつもと香水の香りが違うからだ。柾はなにかあると香水の香りを変える。気分転換を図ろうとしているのだろう。周りには身だしなみだからとかなんとか言っているが、そうじゃないことは知っている。柾は以前一番よく使っていた、心地よい香りがほのかに香る香水を一切使わなくなった。たぶん、なにかとても嫌なことがあったんだろうと推測している。僕は無言のまま両手を広げた。
「なによ?」
怪訝そうな眼差しで柾がみてくる。
「甘えたい年頃かと思って」
柾は素直に突っ込んでくるかと思ったが、代わりに僕を襲ったのは柾の足蹴りだった。思わず床につんのめりそうになる。
「間に合ってまーす。今日はどうしても行かせたく‥‥いや、行ってほしくなかったの」
声色を変え、柾。既にぼろが出てますけどと突っ込んだが、柾はおかまいなしだ。
「はいはい。それはそうと、園山さんには僕が行かないことを伝えてあるの?」
「暫く貸さないって言いきって戻ってきたから、知ってる」
期限付きじゃないのかと苦笑する。ならば柾が早く機嫌を直してくれないと、本当に"しばらく”園山家に行けなくなってしまうだろう。それはそれで困る。
「じゃあ今日はアヒージョにしようかな。材料なら買ってあるし、バケットもある」
「マジで?」
柾が体を起こす。
「俺が機嫌を直したらバイト禁止令が早く解けると思ってるでしょ、俊ちゃん。世の中そんな甘いもんじゃないのよ」
言いながら柾がにやりと意地の悪い笑顔を浮かべる。そう言いながらもあからさまに顔がにやけているじゃないかと突っ込みたかったが、僕は敢えてなにも言わない。起き上がり、シャワー浴びてくるとリビングから出て行こうとする柾の背を見ながら、目を細めた。
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