Narrative

 ――あれから2年。僕は相変わらず、園山さんのところでバイトをしている。


 この2年で変わったことと言えば、これからの進路が決まったこと。僕は高卒認定試験を受けるために、集中して勉強を始めた。園山さんの家で手伝いをする対価として勉強を教わっている。


 僕になにかできることはないだろうかと考えて、予て気になっていた資格を取ることにした。僕が事故のせいでしばらく全く動けなかった時期に、ずっと僕を支えてくれたのは、千種のアトリエを作って下さった方からの言葉だった。事故は僕のせいだとずっと思っていたし、自分だけが動けるようになることに後ろめたささえ感じていたというのに、千種はアトリエを作ってもらえることも、僕が毎日病室に行くことも楽しみにしているんだと、その方が言っていた。そして僕にしかできないことがあるのだから、それを見つけて、人のためではなく自分の為に活かしなさいと、その人が言った。


 じつをいうと園山さんの手伝いを始めたのは、その言葉がきっかけでもある。園山さんが仕事から帰ってきたときに、少しでもすることが少なくなっているように。そうでないときっと倒れてしまう。多少おせっかいかもしれないが、千種のアトリエを作って下さったこと、そして対価であるにせよ嫌な顔ひとつせず僕に勉強を教えてくれていることに対する、精一杯の恩返しのつもりでいた。


 朔夜を幼稚園まで迎えに行って、園山さんの家に帰る。そして掃除をして、夕飯を作って、園山さんが帰るまで朔夜といる。この生活を始めた当初は、園山さんが忙しいから勉強を教えてもらう件はそれほど宛てにしていなかったのだけれど、短時間できっちりと要点を教えてくれる。おかげで三カ月もしないうちに、僕が五教科のうち唯一苦手としていた数学もある程度理解できるようになっていた。


 僕が高卒認定試験を受けると言ったとき、園山さんはとても嬉しそうだった。他人事なのに、まるで自分のことのように喜んでいるのを見て、どこか冷めていて素直じゃない自分の性格を恨めしく思ったほどだ。いつか自分の心の垣根を取り払って、なにも気にせずに園山さんたちと本音で話せる日が来ればいいと思うようにもなった。僕はもっと前向きにならなければいけない。それに、2年も付き合っている人に対して、未だ本心を隠しているなんて失礼だと感じている。


 ふと外を見たら粉雪がちらついているのが見えた。もう12月の中旬だ。今日は例年にはなく寒いせいでなんとなく膝が痛い。僕は右ひざを擦って、少し厚手のブランケットを膝に掛けた。


 今日は柾はデートだそうだ。昼過ぎに意気揚々と出掛けて行った。どこで誰と会っているのかは知らないが、いつもつけているトワレとは違うものだった。清かで心地よい香りのものだ。柾は意外とわかりやすい。たぶん今日のデートの相手は柾のお気に入りなんだろう。だとすると、今日はきっとご機嫌で戻ってくるな。そう思っていたのに、お昼に作り過ぎてしまったおにぎりをかじっていたら、柾が戻ってきた。ふと壁時計を見上げると、また19時にもなっていない。


 のそのそとリビングにやってきて、ところどころ雪の痕が見えるコートを脱いで、無造作にソファーの背もたれに掛ける。僕はそれを眺めながら、「デートはどうしたの?」と尋ねようかと思ったが、不穏な空気を感じてやめた。いつもの柾の表情じゃないと肌で感じたからだ。柾はそのままソファーに突っ伏し、足元に畳まれている毛布を広げて乱暴に頭までかぶってしまった。


 大丈夫? どうかした? なんて尋ねられるような雰囲気じゃない。かと言って放っておいたらこのまま一歩も動かないんじゃないかと思うほどの腐臭さえ感じる。僕はおにぎりを食べ終え、手を洗ってから、リビングに向かいながら柾を呼んだ。返事はない。ただ、大きな溜め息を吐いた後、毛布の中から大きな手が現れ、しっしっと僕を追い払うようなジェスチャーをして見せた。


「瞑想中です」


「迷ってるほうの?」


 敢えて突っ込んでみたが、柾から返事はない。遣る瀬無い、まるで嘆くような声が聞こえた後、ごそごそと毛布の海を掻き分けて、少しだけ顔をのぞかせた。毛布の中から覗く柾の表情は、やっぱりいつもとは違う。澤村さんに怒られたとか、園山さんとケンカをしたとか、そういう類のものではなく、いままで見たことがないものだ。悲壮感が漂っているわけではないし、あからさまに淋しげな顔をしているわけではない。いつもどおりを装っているが装いきれていないように窺える。


「いいの、ほっといて。傷心の柾斗くんのためにシーフードシチュー作って、ママ」


 ぼそぼそと言いながら柾の顔がソファーに吸い付けられるように落ちていく。最後のほうは声がソファーに吸収されて聞き取りにくい程だった。いままで見たことがない反応に戸惑ってしまって、どう反応したらいいのかが分からない。「いいけど」と答えたが、柾はなにも言わない。毛布の中から出ている手もピクリとも動かない。


「僕がいないほうがいいなら、本屋で時間を潰してくるけど」


 えっらい落ち込んでいるようだし、キープちゃんを連れ込もうにも僕がいたら邪魔だろうと思って提案したのだが、柾の手が僕のシャツを引っ掴んだ。行かなくていいということなのだろう。園山さんと喧嘩したわけでも、澤村さんに怒られたわけでも、キープちゃんと遊べなくて溜まっているわけでもない。


 じゃあなんなんだろう? と考えながら、柾の背中をポンポンと叩いてやる。柾は大型のネコ科の動物だ。慰めなければ立ち直った後で薄情だと言われるし、かといって慰めすぎると制裁される。駆け引きが必要だ。ここまで静かに落ち込んでいる柾を初めて見るから、めんどくさいという気持ちが湧かなかった。


「失恋したの」


 いままでにないほど弱々しい声で、ぽつりと柾が言った。失恋? 柾が? 有り得ないだろうと言いそうになって、とっさに自分の口を押さえた。


 少々自分勝手なところはあるけれど、女の子には優しいし、どこにそんなバイタリティーがあるんだと言いたくなるほどマメだ。柾ほどのスペックの高い男に尽くされても靡きもせずむしろ振ってしまうなんていう女性がいるとは思わなかった。逆にその人を一目見てみたい。動揺して背中を叩く僕の手が止まったからなのか、柾が聞いたことがないくらい情けない声で嘆いた。


「ないわー。初めてだわー」


 フラれる気持ちってこんな気持ちなのねと、沈んだ声が聞こえてくる。そんなことを言われても僕にはわからないとついうっかり正直に言ってしまったが、柾は咎めるどころかはんとやさぐれたように笑った。


「そうよね、おまえロールキャベツ男子だし、モテ男だもんね」


 いわゆるギャップ萌えってやつよねと、柾。このパターンは初めてだ。本当にショックを受けているらしい。


「べつに失恋した気持ちがわからないって言ったわけじゃ‥‥」


「あー、あー聞こえない。やめてもう言わないで。ほっといて。いま辛いの。慰められると余計ダメなの」


 死んじゃうとまで言われたら僕はどうしようもなかった。毛布から覗いていた手がすっぽりと中に収納され、宛ら亀だ。目の前にある柾が模した山を見ながら、これは重症だと肌で感じた。


「年上のお姉さんに童貞奪われるだけじゃなくバックバージン奪ってやろうかこのやろう」


「ねえ、人を呪わば穴二つって言葉知ってる?」


 さらりと恐ろしいことを言ってのける柾にいつもの通り返したが、そのあとに言葉は続かなかった。いつもだったらすぐに切り替えて毛布を跳ね除けながら襲い掛かってくるだろうに、毛布の山はピクリともしない。嵐の前の静けさというわけでもなさそうだ。


 柾はこうなると面倒くさい。僕とルームシェアリングをし始めた当初に付き合っていた彼女に妙な嫉妬をされて一方的にケンカを売られたときもさらりとかわしていたし、あまり物事を荒立たせないというか、自分が引いて大人の対応をすることが多い。澤村さんや園山さんに対しては何故か違うが、それは柾なりの愛情表現なのだと思っている。つまりあの二人には盛大に甘えているのだ。


 とすると、この状況はどう受け取ればいいのだろう? 元彼女と別れたときも、お気に入りのキープちゃんに彼氏ができたときも意外にあっさりしていたというのに。すすり泣きが聞こえてきそうなほど腐ったオーラを放ちながら震えている柾なんて初めて見た。


 僕になにかできることはある? と尋ねてみたが、いつもの冗談めかしたセリフが来ない。本心では俺を嘲笑っているくせにとか、口先だけで慰めるなんてサイテーよとか、いじけきったセリフが飛んでくる。これはもうどうしようもないなと肌で感じた。


「エビとイカとホタテ多めでシーフードシチューを作るね」


 柾はなにも言わない。いつもなら腐っていてもよろしくのひとつくらい言うのにだ。これは柾のご機嫌取りに一役買ってくれるのは必殺タラバガニしかいないなと思いながらキッチンに向かった。




* * * * *




 柾はシーフードシチューを食べてくれたものの、それでもやっぱりいつもの元気がなかった。翌日にはいままで見たことがない程のクマをこさえて起きてきたし、せっかく早起きして柾の好きなピザを作ったというのに喜びもしなかった。柾のことだ。きっと2,3日もすれば元通りに元気になっていて、あれが食べたいだのこれが食べたいだのと僕を困らせるに違いない。そう思っていたというのに、かれこれ一週間以上柾は静かだった。


「最近柾の元気がないんです」


 ポジティブが売りだと自分でも言っている柾がここまで静かだと、さすがに心配になってくる。園山さんの家で勉強を教わった後でそれとなく呟いたら、園山さんは珍しいなと意想外な顔をした。


「当ててやろう、享に“るみ子”を奪われた」


 にやりと意地の悪い笑みを浮かべ、園山さん。園山さんが享と呼んだのは、二歳年上の柾の従兄弟であり、僕のリハビリの先生でもある、仙道享介(僕は享先生と呼んでいる)のことだ。


「あら、懐かしいわね」


 ぽかんとした僕をよそに、那珂さんが楽しそうに笑った。那珂さんは園山さんの幼馴染で、同じ会社で働いている女性だ。派手な顔立ちで、肩まで伸びた髪にゆるいパーマを掛けている以外はほぼなにもしていないそうだが、それでも目を引く。ナチュラルメイクで、服装もいつもシンプル。けれどさりげないところにアクセントをつけていて、センスの良さを窺わせる。園山さん曰く、那珂さんは竹を割ったような性格だけれど、派手な見た目で判断されるのを嫌がっているらしい。ちなみに、那珂さんは享先生と付き合っている。


「あの、“るみ子”って?」


「俊は知らないか? 冬季限定で三重県にある森喜酒造場で作られる日本酒、その名もるみ子の酒。大阪都民ならば一度は御目にかかりたい、遊び心をくすぐってくれる逸品だ」


「それってもしかして、開けた瞬間中身がほとんどなくなるほど爆発するっていう‥‥?」


 聞いたことがある。柾が仕事で三重県に行ったときに手に入れたもので、うちに保管ができないからと、享先生の家に預けていると言っていた。園山さんはそうだと言った後、思い出したように笑った。


「いやー、あれはいいぞ。ものすごいテンションが上がる。落ち込んだジュニアに見せてやったら一瞬でお祭り野郎に早変わりすること請け合いだ」


「でも、それを享先生に奪われたんなら、テンション上げようがないですよね?」


 園山さんははたと動きを止めた後、それもそうだなと苦笑を漏らした。


「るみ子を奪われたんじゃないなら、女にでもフラれたか?」


「本人はそう言ってましたけど」


「女にフラれたくらいで落ち込むようなヤツじゃないわね」


 寧ろありえないわと那珂さん。じつは僕もそう思っていたのだけれど、それは僕の勝手な思い込みで、本当は柾にも悲哀の感情があったのだとこの数日で実感した。女の子なんて星の数ほどいるとか、キープちゃんはキープちゃんだからこそ意味があるとか、柾は女性を自分の遊び道具くらいにしか思っていないのではないかと思う発言を繰り返していたから、園山さんや那珂さんにこう言われても仕方がない。


「じゃあ男か?」


 さすがは関西育ちというべきなのか。園山さんがさらりと那珂さんの発言に乗ってきた。


「可能性はなくもないわ。俊と住むことになったときなんて、それこそ大量の花びらをまき散らかさん勢いで喜んでいたし」


「気をつけろよ、俊。アイツは両刀遣いを公言しているから、油断をすると火傷をするぞ」


「火傷どころじゃすまないでしょ、体格差を考えなさいよ、殺されるわ」


 那珂さんがそう言ったら、園山さんはえげつねえなと含み笑いをした。二人が二人とも柾をすごい目で見ているなと、少し同情したくなったが、柾の日ごろの行いがこういうイメージをつけてしまうのだと思う。


「あの、両刀遣いって?」


 僕が尋ねたら、那珂さんと園山さんが一瞬居た堪れないような顔をした。


「い、いや、いいんだ。俊は知らなくていい」


「そうよ、世の中知らなくていいこともたくさんあるんだから」


 那珂さんと園山さんが口々に言う。あまり好い言葉ではないのだろう。柾が両手利きだからかと思ったけれど、そういう意味合いではなさそうだ。


「それより、アイツは一週間くらい前から一度もバイトに来ないぞ。しばらくいけないっていう連絡はあったけど」


「そうなんですか? この一週間、ほぼ毎日どこかに出ていますけど」


 柾がどこでなにをしているか、考えたことがなかったけれど、最近の行動は妙だから、なんだか心配になってくる。僕は数学の問題集を閉じて、顎を触った。


 柾と知り合ってから、あんな顔を見たのは初めてだった。どこか淋しそうにしていても、すぐに摩り替えてじゃれてくるし、マイペースだし、僕なんて真似が出来ないほどのポジティブだ。それを演じているようには見えなかった。いつもならそうする。けれどそれができないほどショックなことがあったのだと考えるのが妥当ではないか。そう思っているのだけれど、柾がそれほどショックだと感じることがなんなのか、僕には想像ができなかった。


「大阪にいるご両親に居場所がばれたとか?」


「俺は全力でフォローしているから、それはないと思うよ。ジュニアと社長は顔だけは似ているかもしれないけど、性格が似ても似つかないし、あの二人が親子だと気付く人のほうが少ないよ」


「そんなに違うんですか?」


「そうだな。ナオと俺くらい違うよ」


 ナオと言われて、どきりとした。2年前、とてもお世話になった人の名前だ。園山さんはポジティブで、できないことでもやってみようとする。でもあの人は自分に自信がないから、本当はとても優れた才能を持っているのに引いてしまう。引っ込み思案で、大人しくて、けれど馴れるといろんな表情を見せてくれる。僕はその人にいまも憧れを懐いている。


「どうした、顔が真っ赤だぞ?」


「えっ?」


 僕は思わず両の頬に手を宛がった。かなり熱い。名前を聞いただけでこうだ。実際会ったら恥ずかしさでどうにかなってしまうかもしれない。那珂さんと園山さんが声を上げて笑った。


「なんの連絡もないけど、片倉氏の後ろに隠れてさりげなくでかい仕事をやってのけてるんじゃないか?」


「運だけはいいものね。まさかあいつがCJのデザイナーになるだなんて思ってもみなかったけど」


「英語で通訳してやらないまだに日本語が理解しきれなかったりしてな」


 有りうると那珂さん。那珂さんと園山さんと玖坂さんは小さい頃から仲がいいのだと聞いている。2年前に玖坂さんが言っていた。本人には口が裂けても言えないけど、自分を引っ張ってくれる友達は大事だよ、なんて言いながらも顔が赤くなっていて、あまりの可愛らしさに笑いそうになってしまったのを覚えている。でもその言葉は僕の心に沁みた。沁みて、とても痛かった。


「まあ、ジュニアの性格上、あんまし触れないほうがいいぞ。立ち直った時に復讐されるのがオチだ」


 着かず離れずが一番だなと園山さんがアドバイスをくれる。僕はそうですねと頷いた。


「そう思って、敢えて触れていません」


「懸命だな」


「そうね。柾斗のことよ、そのうちケロッとして、新しい女の子でも捕まえてるでしょ」


「女じゃないかもしれないしな」


「そうそう。アイツは猫よりも気まぐれなんだから、あんまり深入りしないほうがいいわよ」


「そうします」


 半分は那珂さんの言うとおりだ。そのうちケロッとして、失恋なんてなかったことになっているだろうとは思う。そうは思うけれど、やはり違和感は拭えない。けれど僕よりも那珂さんや園山さんのほうが柾との付き合いが長い。その二人がそう言うのだからと、自分の気持ちを軌道修正することにした。考えても仕方がないし、解決するわけじゃない。


「今日の夕食も、柾が好きなものを作ることにします」


 僕が言ったら、園山さんと那珂さんが顔を見合わせた。なにか変なことでも言っただろうか? そう思っていた僕をよそに、那珂さんがやや呆れたような表情で、僕の肩に手を置いた。


「本当にいい嫁ね、あんたは」


「えっ?」


「そうだろ? それなのに、こんな健気な俊をほったらかして、あの野郎はなにやってるんだろうな」


「さあ。享介でも見たことがないらしいから、首でも吊ってるかもしれないわね」


「‥‥お、お前、未来の義弟にさらりととんでもねえことを言ったな」


「あら、ヤツがそういうタマじゃないのはあんたが一番よく知ってるんじゃなくて?」


 うふふと不敵な笑みを浮かべながら、那珂さんが言う。相変わらずこの人は顔に似合わず荒々しいことを言うなと思い苦笑する。そのあとで、園山さんと那珂さんから茶封筒を渡され、僕はその中に驚愕した。柾がたまに行っている、高級スペイン料理店の優待チケットだった。こんな高そうなものはもらえないと断ろうとしたけれど、二人が口をそろえて「ヤツのテンション暴落は厄介だし面倒だから」と言われてしまい、ありがたく受け取ることにした。




* * * * *




 それから一か月くらい経った、一月下旬。朔夜が風邪をひいて今日は幼稚園を休んでいると園山さんから連絡があったから、僕は少し遅れてバイトに行った。いつものように合鍵を使って鍵を開け、玄関でブーツを脱いでいた僕の耳に、園山さんの慌ただしい足音が聞こえてきた。


「ど、どうか、されたんですか?」


 かなり焦ったような顔をしている。ブーツを脱ぎ終えた僕が上り框を上ったのを見計らったかのように、園山さんが僕の腕を掴み、リビングまで引っ張っていった。


 なにやら怒られるんじゃないかと思うほどの、険しい表情だ。状況が掴めない僕をよそに、園山さんはソファに腰をおろし、僕に向かいのソファに座るよう指示した後で、言った。


「俊、今日から朔を俺の部屋に寝かせることにした」


 僕には意図がよく理解できず、はいと力のない返事をした。いつもは二階にある園山さんの部屋の隣で朔夜を寝かせている。朔夜がもう一人で眠れると言い始めたのをきっかけにそうしたのは、つい数日の前の話だ。


「夜泣きでも、しました?」


 園山さんはいやとそれを否定した後、難しい顔で額を押さえた。夜泣きでなければおねしょだろうか? いつもはマットレスが汚れないように防水シーツを敷いているが、洗濯をした後に敷き忘れていたのかもしれない。


「いや、なんていうか‥‥。そうだな」


 いつもの園山さんらしくない、歯切れの悪い物言いだ。まるで適当な言葉を探しているように見える。


「そうだ、あれだ。ヤツを拾った」


「ヤツ?」


「ほら、俊がこの世で最も嫌う、あれだ」


 そう言われて背筋がぞくぞくっとした。あれか? ヤツか? ヤツが二階の、朔夜の部屋にいるのか? 想像したら体から一気に血の気が引いていくのがわかった。


「だから、部屋の掃除も換気もなにもかもしなくていい」


「な、鳴きませんかっ?」


 僕にとっては死活問題だ。あの声を聞くのだけでもいやなのだ。


「ん、たまに暴れるかもしれんが‥‥いや、なんとかする。それより、そろそろ受験勉強に本腰を入れなきゃいけないだろう。だからしばらくはうちに来なくていい。朔も隣に預けられるようになったし、仕事が終わったら俺が直々にアパートに行くから」


「えっ? でも」


「いや、いい。ヤツの存在で俊の集中力が下がっても困るからな」


 そう言われて僕は苦笑してしまった。確かに上にヤツがいると思うだけで鳥肌が立っているくらいだ。声でも聞こえようものなら集中どころではなくなってしまう。


 ふと違和感を覚えた。園山さんが少し戸惑っている様子で指でテーブルを叩いている。いつもにはない。あまり見せない表情だ。


「朔がなにか言うかもしれないが、聞き流していいからな。押し付けられてな、断りきれなかったんだ」


 すまんと申し訳なさそうに園山さんが言う。理由すら聞かないでくれと言いたそうな表情だ。なにか訳ありのようだ。聞かないでくれと言われた手前尋ねるわけにはいかないけれど、なんとなく気にはなる。僕はわかりましたと返して、夕飯を作る準備を始めた。


*****


 バイトが終わって、アパートに戻った時、僕は柾にそのことをそれとなく話してみた。園山さんがヤツを飼うなんていうことが本当にあるのだろうか。僕がそれを疑ったのは、朔夜が喘息だからだ。どんなに毛が抜けにくい種類でも少しは抜けるし、皮膚片を吸い込むとよくないだろう。いくら断りきれなかったとはいえ、奴に対しても朔夜に対しても無責任なことはしそうにない人だと僕は思う。柾はふうんと言った後、したり顔で顎に手を宛てた。


「女のにおいがする」


 こいつは僕の話を聞いていたのだろうか。はっ? と軽蔑の眼差しを向けながら言ってやるが、柾は禁欲生活はつらいのよと園山さんの身を案じるかのように言っている。


「園さんはきっと女を囲ってるんだ。でなければヤツを拾ったというのは大嘘で、ダッチワイフを置いているとか」


「おまえと違って園山さんは誠実だ」


「なによ、まだ怒ってんの? 俺が新しい恋に生きるようになったことを、むしろ褒めてもらいたいくらいだわ」


「ふざけんな、こっちは心配したっての」


 明るく言う柾を突っぱねるように言い捨てる。立ち直るまでは気を遣って好きなものを作ってあげたというのに、漸く立ち直ったかと思えば、アパートにキープちゃんを連れ込んで致しているし、なんだか踏んだり蹴ったりだ。柾の立ち直りが早いのは知っていたし、そもそも柾に心配してほしいと言われたわけではなく、僕が勝手に心配していただけなのだからと柾から言われたが、身も蓋もないセリフに怒りを通り越して呆れた。園山さんや那珂さんの言うとおりだ。心配して損をした気分だ。


「当面柾の好きなものは作らないからね。今日は海鮮うどんすきだけど柾にはエビをあげないから」


 僕は怒っているんだといった雰囲気をにおわせ、語気を強めて言ってやる。柾はあっそうと余裕の笑みを浮かべた後、ふんと鼻で笑って見せた。


「俺の力に勝てるとでも思ってんの?」


 気炎を上げ、まるで僕に脅しをかけるかのような声色で柾が凄んでくる。力で勝てないのは分かっている。力尽くでもエビを食べようとすることも知っている。僕はただしだと柾に指を突き付け、その脅しには屈しないとばかりに目を眇めた。


「エビはすべてつみれの中だ。そしてそのつみれには柾の嫌いな魚肉ソーセージが混じっている。食えるものなら食ってみろ」


 見る見るうちに柾の顔から闘気と覇気が薄れていく。やがて苦い顔をした柾は、聞いているこっちが悪いことをしたかのような嘆息をつき、項垂れた。これは柾の作戦だ。よくやる手だ。僕にこれはもう通用しない。


「そんなに怒らないで、俊ちゃん。チューしてあげるから機嫌なおして」


 ほらきた。僕は馬鹿じゃないのかと柾を突っぱねた。恋人同士でもあるまいし、そんな陳腐なセリフが通用するわけがない。


「許してほしかったら今後キープちゃんと遊ぶときには僕にきちんと知らせておいて。人の情事を目撃するのはこりごりだ」


「興奮したくせに」


「あっそう。エビ食べたくないんだね。わかった」


「あっ、うそうそ! 誓う、今度からはキープちゃんを連れ込んだら連絡するから!」


 柾は鼻声で嘆きながら僕に抱き着いてきて、背中に頬ずりをしてくる。正直気持ちが悪い。神様仏様俊平様なんて心にもないことを言いながら抱きしめてくる。こういうのも柾の魂胆だと分かってはいるが、これ以上このやり取りを長引かせていると海鮮うどんすきが冷めてしまう。僕は柾へと振り返って視線を落とし、「絶対だからね」と念を押した。




 エビが食べられると分かった後の柾はいつも通りの柾だった。僕に対してだけ横柄でエラそうな態度を崩さない。もう慣れたけれど、それは柾が僕に甘えている証拠でもある。お調子者で、お祭り騒ぎが大好きな反面、信用するに値しない相手や自分の嫌いな相手にはとことん辛辣な部分がある。人当たりもよくて誰に対しても紳士に思われがちだが、心を許していない相手に対してはそっけないし、なにより言葉数が少ないのも柾の特徴の一つだ。女の子には誰にでも優しいが、男相手だとすぐに態度を変える現金な部分もある。


 一口で言えば依存しない。相手とは一定の距離を保ち、自分を曝け出さないし、相手のことも気にしない。気まぐれだけれど、気がついたらそこにいて、慰めてくれることもあれば、叱咤されることもある。猫みたいだと形容するのが言い得て妙だ。そんな柾があそこまで落ち込んでいたというのは、やはりただ事ではないのだと思っている。あまり詮索するのはよくないと思っているから触れないが、あの後から柾の帰りが遅くなることが増えた。


 学部が異なればキャンパスも異なるけれど、監視がしやすいからと僕の志望大学と同じ大学を選んだくせに、柾は少しも勉強をしているようには見えない。いまだってスマホを片手に誰かと連絡を取り合いながら、スポーツチャンネルでセリエAの試合を観戦している。軽薄な見た目と性格とは裏腹に驚くほど勉強ができるのだとは知っていたけれど、園山さんのうちに行く以外は勉強に耽っている僕との対比に少々嫉妬を懐いてしまう。僕が恨めしそうに睨んでいたのに気付いたのか、柾がこちらを向いた。


「勉強は捗っているかな?」


 清々しい笑顔を浮かべ、ただでさえ質の良い声を少し張り、気取ったように尋ねてきた。僕はそう見える? と投げやりに返す。やはり数学は嫌いだ。園山さんのおかげでわかるようになったとはいえ、柾から借りたこの問題集はちっともわからない。


「さっきのエビの仕返しだろ?」


「あーら、なんのことかしら? それより、園さんにバイトのこと話したの?」


 柾が言うバイトのこととは、志望大学に合格したら3月末でバイトを辞めるという話だ。僕が頷くと、柾はふうんとどこか含みのある言い方をして、少しだけ目を細めた。


「お前が決めたんなら、それでもいいけど、べつに」


 言葉尻に妙な余韻を残して、柾はまたテレビに視線を戻した。柾の言いたいことがわからないほど子どもではない。けれど僕は柾ほど器用ではないから、勉強に手伝いにと両立できる気がしない。入試前からそんなことを提案するのは気が引けたのだけれど、入学が決まった直後に言うのは急すぎて申し訳ないかなと思い、話すに至った。


 少し薄情かなとも思った。言葉を選ぶべきだったんじゃないかと、自分の短慮を恥じている部分もある。やってみなければわからない。柾からも、園山さんからも、いままで何度もかけてもらった言葉だ。学校生活が始まってから考えるという手もあった。おろそかにするつもりでやらなければいいんじゃないかと園山さんが言ったが、僕はそうは思えない。


 僕の判断が正しいのかどうか、現時点ではなんとも言いようがない。だけどどうしても、もしという仮定や想定の言葉を使いたくなかった。園山さんの手伝いをするのを決めたのは僕だ。だからいつ辞めてもいいというわけではないが、自分で決めたからこそ中途半端にしたくなかったし、なにより僕が大学に通い始めた後のことで、園山さんや朔夜に迷惑をかけることだけはしたくなかったのだ。


 ここで考えていても、なにも始まらない。僕は柾が用意したクロック&キッチンタイマーを睨んだ。問題集の目安時間まであと5分を切っている。これが解けなきゃ大学でも勉強についていけないぞと自分を奮い立たせて、残りの時間目いっぱいまでまったく分からない数学と格闘することに徹した。

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