002
あの日朔夜くんを預かってから、いつか園山さんがパンクするんじゃないかと気になっていた。
無理にでも手伝うといえばよかったのかもしれないけれど、柾が許してくれないだろうから強くは言わなかった。膝が痛くならない保証も、朔夜くんの面倒を見きれるという自信もない。もしまた膝が痛くなって病院に行くことになったら、秀から文句を言われるのは僕ではなく、柾だ。
どうも秀は柾のことをよく思っていないらしく、辛辣な態度しかとらない。だから柾が僕に無理をさせたがらないという悪循環なのだとわかっている。それがわかっているから、強くものを言えないのがもどかしくて仕方がない。間接的にでもいいから、なにかできることはないだろうか。考え事をしていて上の空だったせいで、夕飯のおかずになる予定だった肉じゃがを煮詰めすぎてしまった。まずはこれをどうしてくれようかと眺めていた時、外から子どもが泣きじゃくる声が聞こえてきた。
この近所に小さな子どもが住んでいた記憶はないけれどと思いながら、ジャガイモをひとかけら口に放り込む。聞き覚えのある足音と共に、その子どもの泣き声が近づいてくる。それを不審に思いながら玄関のドアへと続く廊下を覗いた。ガチャガチャとやや乱暴に鍵を開ける音が聞こえた後、勢いよくドアが開いた。柾だ。見覚えのある子どもを左の小脇に抱えている。さっきの泣き声は朔夜くんだったのかと僕が納得するよりも早く、朔夜くんが泣きながら僕の方に走ってきた。
「ママー!」
柾が前に言っていたギャン泣きをしながら、僕に抱きついてくる。意外に声がでかいことに驚きつつも朔夜くんを抱き上げ、うんざりしている柾に視線をやる。すると柾はブーツを脱ぎ捨てた後、「ギャーギャーじゃかーしゃあ、しばくぞボケ!」と朔夜くんに向かって怒鳴り始めた。
「まあまあまあ、落ち着いて。相手は子供なんだから」
朔夜くんは柾の方を見ようともせず、僕にしがみつきながらぐすぐすと鼻を啜っている。さすがの柾でもこんな子ども相手にキレないだろうと思っていたけれど、柾は苛立ったような表情をそのままに、大きな手で朔夜くんの頭を鷲掴みにした。
「こんのくそガキャア。園さんちから家まで大声でギャーギャー喚きやがって。おかげで二回も職質されかけた」
息の根をとめてやろうかと言いながら、柾が朔夜くんの頭を掴む手に力を籠める。余計泣くだろと突っ込み、柾の手を払いのける。柾は不満そうに朔夜くんを睨んで、肩を竦めた。
「俺、マジで子ども嫌い」
「わかったから。で、なんで朔夜くんがうちに連行されてきて、柾が二回も職質されかけた状況になったわけ?」
柾から朔夜くんを奪い取りながら言う。朔夜くんは僕の胸に顔を埋め、ぐすぐすと鼻を啜りながら泣き始めた。ぽんぽんと背中を叩き、宥める。柾はそれを横目で睨み、不満げな顔を隠そうともせずにソファーに勢いよく腰を下ろした。
「インフルエンザ」
「えっ?」
きょとんとした僕をよそに、柾はどこかの言葉でぼそりとぼやく。たぶん、悪罵だ。ガシガシと頭を掻いてソファーの背もたれに凭れ掛かり、声を尖らせ、苛立ったように唸った。
「あのダボが! 先週から体調が悪かったくせして、無理をして仙台に出張に行って、そこで見事強靭なウイルスをゲットしてきやがった」
『信じられんわあのダボ』と呆れかえったように柾が言う。この状況を整理するに、園山さんがインフルエンザに罹ったということらしい。朔夜くんの癇癪は園山さんから無理やり引き離されたことに由来しているのだろう。僕がなるほどと苦笑すると、柾は肩を軽く竦め、大げさに両手を広げた。
「いっそそのまま入院でもしてくりゃよかったのに」
「インフルエンザで入院なんてできるわけないだろ」
僕が冷静に突っ込むと、柾はきちんとセットしていた髪を手ぐしで軽く崩してから、ふんと鼻で笑った。
「この状況がどういう状況なのかおわかりかね? 佳乃さんのおかんは園さんが病院に行けない分付きっ切りだし、おとんは仕事があるし、園さんの両親はアメリカにいるし。じゃあ誰が朔坊の面倒を見るっていうのか! フェルマーの大定理を証明するのとおんなしくらいの無理難題だ!」
徐々に柾の声が大きくなる。苛立っているのだろう。これは完全に押し付けられたパターンだ。珍しく感情をあらわにする柾を前に苦笑が漏れた。
だけどそのフェルマーの大定理とやらはすでに証明されているのではなかろうかと内心思う。すると柾はじろりと僕を睨んだ後で、「数学上の未解決問題のなかでも特に難問であるミレニアム懸賞問題を読み上げてやろうか? それとも双子素数の予想を延々耳元で言ってやろうか?」と、僕にとっては拷問に近いようなことを言い始めた。僕が柾が醸し出す緊迫感をまともに受け取っていないと思ったのだろう。僕は「柾の気持ちはよーく分かる」と、共感の意思を強調した。
「災難だったね」
柾は災難どころじゃないわと眉間に皺を寄せて、大袈裟に両手を広げた。
「信じられなくない!? 急に呼び出されたと思ったら、朔坊の面倒見ろとか! 泣きじゃくる幼児を親から引き離して連れ出さなきゃいけないんだ、宛ら人買いよ、人買い! それなのに園さんは悪乗りして『連れて行かないでくれー』とか咳をしながら時代劇に出てきそうな病弱じいさんよろしく騒ぐしさ! いっそ死ねばいいのに!」
その光景がリアルに浮かんでくる。園山さんならばやりそうだ。いつもの柾ならそれを楽しそうに話すだろうに、そうじゃないということはそのほかにも理由があるのだろう。
「なにか不都合でも?」
デート? と、敢えて聞いてみる。柾は難しい顔をそのままに首を横に振った。
「ぼく学生なの。日中学校なのよ。わかる? この意味わかる? ねえ?」
柾が学生で、意外にも真面目に通っていることは知っている。けれどそれと柾が怒っている理由に関連はないように思える。素直に首を横に振ったら、柾が大袈裟に溜め息を吐いた。
「俊平くんが朔坊の面倒を見なきゃならんということだよ、必然的にね」
「‥‥あ、そうか」
「そうかじゃねえよ!」
「大丈夫だよ、妹の面倒を見ていたことがあるし、僕結構子供好きだし」
「それはお前の膝になんら支障がなかった時の話だろうが」
言って、柾が僕の右膝を蹴った。遠慮がないのはいつものことだが、さすがにそれを言われると傷付く。
「女の子には優しいくせに、なんで僕にはデリカシーの欠片もないようなことばかり言うわけ?」
「エッチさせてくれないから」
「物理的に無理!」
馬鹿かと柾を詰る。
「子供の面倒くらい見れるよ。僕が怒るならまだしも、柾が怒る理由にはならない」
「怒るわ! そもそも園さんが俺の言うことを聞いて俊平を素直に借りてりゃこんなことにはならなかったんだ! なのに今更こっちを頼ってくるとか筋違いだし、それこそデリカシーの欠片もないセリフだってことに気付けよ!」
「え?」
「え? じゃねえよ!」
柾が苛立ったように声を荒らげる。僕の腕の中で朔夜くんがびくっと跳ねた。
「ねえ、なんの話?」
「あ゛っ!?」
「僕を借りるとか、いまさら頼ってくるとか」
話の脈絡について行けない。朔夜くんの背中を撫でて落ち着かせながら柾に尋ねると、柾はハッとしたように目を見開いた後、どこか気まずそうに眉を顰め、視線を逸らした。
「僕は柾が園山さんとどういう会話を交わしたのかを知らないんだから、柾がそこまで怒っている理由なんてわからないよ」
まるで抗議をするように言った。僕が鈍くて分からないだけだと言わんばかりの言い方だったが、そもそも会話の内容すらわからないのだ。その場にいたならまだしもそうではない。僕の言い分に対し、柾は深い溜息を吐いた後、ガシガシと頭を掻いた。
「前に俊平が朔坊の面倒を4日間も見たことがあったろ?」
「うん、あったね」
「だから俺が園さんに提案したことがあったの。朔坊の面倒を俊ちゃんに頼んで、フリーダムな気持ちで仕事をしたらどう? って。そしたら、園さんはお前の膝のことを気遣って、それは申し訳ないからって断りやがったんだよね。俺の厚意を無に帰した。
それなのに、今回、俺を直々に呼んだかと思ったら、朔夜くんの面倒を見てもらえませんかって、懇切丁寧にお願いしやがるわけですよ、あの野郎が」
なんだか言葉の使い方が間違っているような気がしたが、敢えて突っ込まない。そうなんだと相槌を打ったら、柾はまた大袈裟に両手を広げた。
「信じられる? この俺の厚意を無碍にしやがったくせに、下手に出てりゃ言うことを聞くと思って土下座しそうな勢いで言ってくんのよ、園さんも、穂摘さんも。最悪。最低。仇も情けも我が身から出るって言ってやった」
なるほどと納得すると同時に呆れてしまった。確かに僕は以前、朔夜くんの面倒を4日間見たことがある。けれどその間に柾は日に日にやつれていったし、最終日には不貞寝して起きてこないなんていう暴挙に出たくらいだ。園山さんの顔を見たくないと、そのあと暫く根に持っていたことを思い出した。園山さんの体調も大事だが、柾の体調も大事だ。自己管理がどうのこうのといつも言っているじゃないかと心の中で突っ込みを入れる。
「断ればよかったのに。素直に聞いておいて文句を言うのはフェアじゃない」
自分の体をベースに考えろよと諭すように柾に言う。すると柾は不満げに眉を顰めた後、大きな溜め息を吐いた。この行動で朔夜くんの面倒を見ると承諾した理由がいくつもあることを示している。それに気付いたが、既に言ってしまったあとだ。
「だってさあ‥‥。朔夜にインフルがうつったら、2週間も園さんが仕事を休む羽目になる。そうなったら、知耀さんも、園さんが引っ張ってきた檜木さんも、直属の上司の穂摘さんも困るわけさ。穂摘さんは園さんが体調を崩した責任を感じているみたいだし。そりゃ俺だって断りたかったけど、あんなお偉いさんに頭下げられちゃ、断りづらいっちゅーか、なんちゅーか‥‥」
しょうがないじゃんと、諦めを前面に押し出したようなやるせない声で言った。妥協したということは穂摘さんという人が柾の中で信頼に値する人なんだろう。面倒くさそうなオーラをそのままに、前髪を掻き上げた。これは柾が困っているときによくやる癖だ。
「だから連れてきたの。なんなら俺が学校休んででも」
「それはいいよ。なんとか見てみるし、それでも無理そうならちゃんというから」
柾のことだ。本当に一週間でも学校を休みそうな気がして、牽制する。さすがに柾を一週間も休ませるわけにはいかない。柾はまた面倒くさそうに溜め息を吐いた。
「俊平なら絶対そう言うと思った。足が痛かったら絶対すぐに言えよ。無理は禁物。学校が終わったらすぐ戻ってきて、代わるから」
「朔夜くんが泣かなかったらね」
朔夜くんはすっかり泣き止んで、僕のシャツにしがみついている。柾はそれを横目に見て、心底嫌そうな顔をした。柾と子守を変わった瞬間に泣きだしそうだなと思う。それはおそらく柾も同じなのだろう。お兄様に報告しておこうとぼやくように言って、携帯を取り出した。
僕が柾とルームシェアリングをしている間、体調や環境に変化があれば兄に報告することを約束している。たぶん柾が成人したらその報告義務は消えるのだと推測している。柾が僕の面倒を見ると了承してくれたとはいえ、兄の性格上、未成年の柾にそこまでさせるのは申し訳ないと思う気持ちが強いのだろう。事実、柾は三食まともなものを食わせてくれたら家賃もいらないと言ってくれたのだが、兄は毎月決まった額を柾の口座に振り込んでいるらしい。
「一人で家のこと、仕事、嫁の世話、子育てをできるわけがないから、俊平貸してやろうかって言ったのに断るから悪いんだよ。身の程を知れっていうのよ、あのバーカ。いくら体が強くて丈夫でも生身の人間なんだから、オーバーワークすりゃガタも来るっつの」
マジ馬鹿とぼやいた後、柾は携帯の画面を眺めた後、僕を呼んだ。
返事をしたが、まだ携帯の画面を眺めている。そうかと思うと、柾はどこか楽しそうに口元を持ち上げて、顔を上げた。
「俊平、園さんがインフルに打ち克ったら、朔夜の保育士になれ」
「えっ!?」
「だたし、暫くは園さんがここに朔夜を連れてきて面倒見るっていうスタンスは崩さない。おまえがリハビリ頑張って、一人で遠出できるようになったら園さんところの家政夫も込みで。なんなら園さんにここで夕飯食ってもらってもいいわ。きっちり料金取るけど」
「取るのかよ」
「あたりまえよ。俊平くんのごはんがタダで食べられる特権は俺だけにあるんだから」
にんまりと笑って柾が言う。さっきのメールは園山さんだったのだろうか。僕が携帯を覗き込もうとしたら、さっとポケットに隠された。
「エッチ。俺の携帯見ないで。モラハラよ」
「相手誰? 秀だったの?」
「内緒ー。俊平くんが大人になったら教えてあげる」
楽しそうに言ったあと、柾がソファーに横たわった。こんな表情は久しぶりに見た気がする。悪戯をたくらんでいるかのような、自分の作戦が成功したときのような顔だ。別にいいけどと柾から距離を置こうとしたら、柾は「足腰気をつけろよ」と言いながら、僕の右足を蹴った。
***
翌日僕が目を覚ました時、柾が僕に抱き着いて眠っていた。さほど細くはないけれどしっかりと筋肉の付いた腕が僕の体を掻き懐くようにしている。僕はびっしょりと寝汗を掻いてしまっているのに気付いた。
柾が僕に抱き着いていたせいなんじゃないかと思い、柾を蹴る。そうしたら柾が唸った。
「おはよう」
寝入りばなだったのか、それとも目を閉じていただけだったのか。柾の声が聞こえて驚いた僕をよそに、柾は少しほっとしたような顔をして、片方の手で僕の頭を叩いた。
「もうちょっと寝な。ごはん作んなくていいから」
言って、柾が僕を抱き枕にしたまま眠ろうとする。ああ、またか。僕はふうっと溜め息を吐いた。
「ごめんね」
柾はなにも言わない。
「うるさかった?」
「もう慣れた」
いいから寝ろと、柾が僕の口を塞ぐ。僕は柾の手を押しのけて、少しだけ体を起こした。
「暑い」
「着替えてくれば? まだ5時」
さりげなく柾が時間を言う。5時と言われて、僕はガシガシと頭を掻いた。
不定期に夢を見る。あの事故の時の夢だ。夢の内容ははっきりとは覚えていない。けれど周りにいる大人たちに様々なことを言われ、押しつぶされそうになっている自分がいる。その傍らには血まみれになった千種がいて、手を伸ばしても届かない。どうしようもない。そんな状況でもがいている。あれから一年以上経過している。それなのに、未だに繰り返されるこの夢にうんざりした。
「寝たらまた夢を見そうだから、いい」
柾の腕を避け、起き上がろうとした。けれどすぐに柾に引き倒される。ぼすんとベッドが音を立てた。
「ちょっと。着替えに行きたいんだけど」
「ダメ。眠いの」
「はっ? それは柾だろ?」
「いいから寝ろよ。睡眠不足ですみたいなクマ作ったまま病院に行くつもりか?」
柾は僕の上から退く気配を見せない。暑いともう一度ぼやくと、柾はがばっと起き上がって、ハンガーに掛けっぱなしにしていた僕のパジャマを取りにいった。僕はベッドの上で上半身を起こし、柾の行動を眺める。柾はパジャマとシャツを手に戻ってくると、ベッドに上がってきた。
「俊ちゃん、バンザイ」
「は?」
言われたとおり、両手を上げる。柾は僕のパジャマとシャツの裾を掴んだ後、勢いよく脱がせた。
「ちょっ!?」
「はい、着替え」
雑だな。どうせなら最後までやってくれればいいのにと内心思う。僕は柾からシャツとパジャマを受け取り、素直にそれを着た。僕が着替え終えたのを見計らって、柾がまた僕をベッドに押し倒す。そしてさっきまでのように抱き着いてきた。
「柾」
柾は返事をしない。
「たぶん、もう大丈夫」
そう言ってみたが、柾は離れない。それどころかより強く抱きつかれた。柾なりに心配してくれているのだろう。あれからかなりの時が経過しているのに、未だにこんな夢を見る。自分がうなされている間、なにを口走っているのかはわからない。柾はなにも教えてくれないからだ。
ベッド脇にあるベビーサークルの中にいる朔夜くんはまだすうすうと寝息を立てている。起きていないということは、僕はそれほど騒がなかったのだろうか。色々と考えていたが、柾の体温が心地よくて、だんだんと眠くなってくるのに気付いた。
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