【gemut】
process
「悪い、テキトーにくつろいでいてくれ!」
慌ただしくリビングに顔を覗かせたかと思うと、この家の家主、園山さんが血相を変えて言った。さっきまではボリュームネックパーカーにスエットパンツというラフな格好だったが、電話を受けて二階に上がった間に、スーツに着替えたらしい。
バタバタと音を立ててリビングに入ってきた園山さんをぽかんと見つめていた柾だったが、リビングを出て行こうとする園山さんを見て、はたと気付いたように呼び止めた。
「はあっ!? ちょ、園さん、チビは!?」
「あとで知耀に迎えに来させる!」
言うが早いか、プリュス鞄を乱暴に掴んで、園山さんがリビングを後にした。柾の抗議の声に答えるかのように、ドアクローザーに呼び戻されるように締まったドアの、力ない声が続く。そして車のドアが閉まる音が一つ。エンジン音が聞こえたかと思うとすぐに車が走り去った。おそらく路上で誰かが園山さんを待っていたんだろう。ずいぶん忙しそうな人だなと思っていたら、柾が深々と溜息をついた。
「自分が呼び寄せといて勝手だな、園さんは」
ソファにどっかりと腰かけて、さっき園山さんが淹れてくださったコーヒーを啜る。柾のいうとおり、僕たちは園山さんに呼ばれ、ここにいる。それなのにここに来て5分も経たないうちに、家主がいなくなってしまうなんて。
柾の言い分にもうなずけるがと思いながら、僕は目の前に置いてある紅茶が入ったティーカップに手を伸ばした。ジンジャーレモン独特の香りと味がする。少しぬるくなったそれを啜り、柾を見遣ると、柾はどこかやるせないような表情で首を回して、また息を吐いた。ハーフアップにするのに使っていた熊手クリップを外し、ガシガシと髪を乱す。ゆるいウェーブのかかったような、ローアンバー(やや緑寄りの黄褐色)の癖毛は、本人が面倒くさがって切りに行かないせいで、肩に届きそうなほど伸びている。それを熊手クリップでハーフアップにし直したあと、やるせないような顔をして、ソファの上で胡坐を掻いた。
「人の二倍、三倍動こうとする悪い癖が見え隠れし始めたぞ。だから断れっつったのに」
溜息混じりに柾が言う。園山さんと色違いのボリュームネックパーカーの袖に手を半分ほど隠すと、「全然ぬくもらねえ」と言いながら、コーヒーカップを両手で包むようにして持った。
「急な仕事だったみたいだし、仕方ないよ」
僕が言うと、柾はふんと鼻で笑った後、コーヒーを啜った。
「そうじゃない、あれは足元を見られているって言うんだ」
「え?」
「考えてもみろよ。大阪から出てきた22歳の若造が、長年トップを狙ってきた自分たちよりも先に独立しちゃったんだぞ。嫌がらせのひとつやふたつ、フツーにされんでしょ」
『大人ってめんどくさいのよ』と、なにかを知っているような口ぶりで言う。
園山さんが任された会社というのは、大阪に本社がある福祉系の大企業『シセローネ』の東京支社内にある。けれど東京支社とは違い、社長直々に任された部署らしい。東京支社の一部であり、社長はあくまでも本社の社長と同じなのだが、その会社、『Carpe-Diem』のエースが園山さんなのだと、柾は言う。僕はそのあたりのことがよくわからない。僕と三歳しか違わないのに、柾はこういったことになぜか詳しい。
「そういうものなの?」
「穂摘さんっていう本社のエースがいるんだけど、その人が独立する際に園さんを本社から引き抜いたんだ。穂摘さんは滅多なことがない限りへまなんかしないだろうけど、会社を任されたばかりで、仕事が立て込んでいたり、契約先とのやり取りが大変なんだろうね。いま迎えに来たのは穂摘さんじゃね? 園さん、まだこっちの地理に慣れてないし」
僕は「ふうん」と相槌を打つ。社会人はいろいろと大変なんだなと思っていると、柾が斜向かいのソファで眠っている男の子に一瞥を投げた。
「で、アレどうするよ?」
『柾斗くんこども嫌いなんだけど』と、困ったように柾が言う。柾はこどもが嫌いだと言っているが、その実面倒見がよく、言うほど嫌ってはいない。
柾が視線を向けているその男の子は、園山さんの一人息子の朔夜くんだ。幸いぐっすり眠っているようだから、特に害はないだろう。そう思うのに、柾はうんざりしたような顔を崩そうともせず、また首を横に振った。
「一人息子ほったらかして仕事行くとか、嫁が聞いたら泣くわ」
「あ、そういえば奥さんはなにしてる人なの?」
「嫁? 入院してるよ」
「え?」
「だからこの一週間、園さんは子育てしつつ会社回しつつ嫁の世話しつつのスーパーパパなのよ」
昔のオイタが過ぎるとこうなるのよと柾が笑う。僕が思わず苦笑を漏らすと、柾は少し意地の悪い顔で笑って、カップに残ったコーヒーを飲み下した。
柾が言うには、園山さんは一週間前に東京に引っ越してきたらしい。それまでは、ずっとバイトがてら働いていたシセローネ本社に勤めていたのだけれど、奥さんの病気の悪化が原因で、手術、療養が必要だということで、奥さんの実家がある東京に越してくることになったのだそうだ。
「園さんとは小学校が一緒だったのよ。偶然にも園さんの同級生で幼馴染の知耀さんの家がうちの実家のお隣さんで、園さんはよく知耀さんちに遊びに来ていたから、すぐ仲良くなってさ。まあ、中学は違ったけどね。園さん、俺と違って超秀才だし」
「‥‥ふうん」
自分だって、大阪の超有名進学校で、3年間の五教科の成績が五段階評価でほぼオール5だったくせにと、内心思う。
「なによ、その目?」
考えていたことが顔に出ていたのか、柾が不審そうに眉を顰めた。
「別に。なんの嫌味だと思っただけ」
「は? ‥‥ああ、僻んでんの? 数学さえなけりゃオール5だったのにね、俊平くん」
「ほっといて。中学の担任からいつも言われていたことを蒸し返されているようでムカつく」
「逆に俺は英語なんて消えろって思ってたね。つか、スペイン語って国連の公用語に指定されてるんだから、英語をメインにするっておかしくない? 中学とか高校で、国連で指定されている公用語の6つを選択させてくれればいいのに。そんなら俺、迷わずスペイン語選ぶわ」
言いながら、柾が肩を竦める。柾はお父さんがスペイン人と日本人のハーフで、お母さんがイタリア系スペイン人だから、実家での会話はほぼスペイン語だったらしい。そのおかげなのか、イタリア語、スペイン語、そしてなぜかドイツ語を巧みに操るのだ。それなのに英語が苦手というのが謎なのだけれど。
「お母さんのおかげでイタリア語とスペイン語をしゃべり熟せるのは解る。前から気になってたんだけど、なんでドイツ語まで分かるの?」
「ブンデスリーガみるから覚えちゃった。耳いいし、俺」
「‥‥じゃあプレミアリーグみて英語覚えろよ」
「やだ、めんどくさい。だったらお洒落にフランス語使いこなしたいわ」
ハハンと笑いながら、柾が言う。よく解らないポリシーを持っているらしい。僕はそれよりと話の軌道修正を図った。
「園山さんって、大学卒業して1年経ってないよね? 柾の3歳上なら、いま22歳でしょ?」
「そうよ。さっき、園さんは超秀才っつったろ。飛び級で卒業しちゃってるから、社会人2年目だと思う。元々本社でバイトがてらいろんなことを学んでいたし、飲み込みが早い器用な人だからね」
「それでも、独立するのにくっついてきたなんて、すごい大変なんじゃないの?」
「そりゃね。いろいろ大変だろうよ。でも穂摘さんのフォローがあるんだから、ヘマはしないと思うよ」
「将来が有望だから引き抜かれたのか」
僕がぽつりと言ったら、柾は一瞬間きょとんとした後、楽しそうに笑った。
「あはは、違う違う。園さんは奥さんのことがあって東京転勤を希望したんだけど、支社に空きがないし、みすみすほかの会社に園さんを渡すわけにもいかないからって上が悩んでいたらしいんだよね。そこで穂摘さんが、自分が独立するのに園さんを連れて行くのはどうかっていう提案をしたのが始まり。
園さんにしてみればラッキーだし、穂摘さんにしてみてもこれから有望なエースを探さなくて済むから手っ取り早いよね。そんで、今年度からめでたく子会社設立ってわけよ」
ふふんと自慢げに柾が言う。なんで自分のことでもないのに自慢げなのだろうか。柾に冷たい視線をぶつけ、ふうんとだけ返す。
「それも興信所情報?」
柾は知り合いの弁護士事務所兼興信所でバイトをしている。長いことそのバイトを続けているから、推理力は抜群だ。だから園山さんに関する情報もそうなのだと思った。そもそも社会人でもないのに会社のことに詳しすぎる。
「シセローネはうちの親の会社だからね。一応、変なやつが入社しないかどうか、身辺調査位はしてるのよ」
にやりと不敵な笑みを浮かべ、柾。口では実家のことなんてどうでもいいと言いながら、やることはやっているらしい。僕も人のことを言えた口ではないが、素直じゃないからそういう手に出るのだろう。
僕は柾と話しながら、ソファーで眠っている朔夜くんに視線をやった。よほど眠いのか、それとも図太い性格なのか、横で僕たちが話しているにも拘らず起きる気配がない。規則正しく動く肩を後目にハーブティーを啜り、僕は柾に気になっていたことを尋ねることにした。
「園山さん、どうして僕たちを呼んだのかな?」
柾はコーヒーカップをテーブルに置いた後、ちらりと朔夜くんに視線をやった。
「朔ちゃんの面倒を見てほしいのと、部屋の片付けを手伝ってほしかったんじゃね? 俺も詳しく聞いてないから知らないけど」
「‥‥人選ミスじゃない?」
「俊平くんのその足じゃ、なにもできないもんね」
悪い笑顔を浮かべながら、柾が僕の右足をガスガス蹴ってくる。
僕は去年の12月に事故に遭い、右足が悪い。3か月くらい前に漸く退院したばかりで、自分の身の回りのことを一人でやる程度で精いっぱいだ。兄・秀輔の強い意向により一人暮らしを全面禁止されてしまったので、退院してからは柾とルームシェアリングしている。だから柾に頭が上がらない。
柾はこういう性格だから、僕が気にしていることを歯に衣着せず言ってしまう。けれど、柾のその台詞の裏に隠された意味があることを知っている僕は、そこまで嫌な気分ではない。もしそれが柾以外の誰かの言葉だったとしたら、倦厭してしまうのだろうけれど。
「柾の汚い部屋を掃除したのは僕だよ」
左足で柾を蹴り返しながら言う。すると柾は両手を軽く広げた。
「ゴミ捨てに行ったのは俺だもの」
「自分の部屋から出たごみを捨てたくらいでいばるな」
「俊平くんが階段から転げ落ちたら困るから、手伝ってやったんじゃない」
言いながら、柾がまた僕の右足を軽く蹴った。
「それに俺は部屋が汚くたって、どこになにがあるかわかってるし」
「ピアス踏んでふた針縫ったのに?」
「あーら、誰のことかしら?」
アホな奴だと柾が言う。自分のことじゃないかと思ったけれど、そう突っ込んだところでごまかすだろうから、僕は敢えて言わなかった。
「そりゃそうと、朔坊連れていったん引き上げようぜ。どうせ園さん、夜になっても帰ってこないだろうし」
「でも、誰かに朔夜くん迎えに来させるって」
そこまで言ったとき、柾が僕の言葉を遮るように名前を呼んだ。
「よーく覚えておきなさいよ。知耀さんは来ない。なぜなら今日、俺がここにいることを知っているからだ」
まるでなにかの重大発表をするかのように仰々しく柾が言った。柾にとっては当たり前なのかもしれないが、僕にとっては言っている意味がよく分からない。だから? と冷たく尋ねると、柾は何食わぬ顔で言葉の通りでしょうよと、大袈裟に両手を広げた。まるでなにを言っているんだと言わんばかりの声色と表情だ。
なんとなく、察した。柾も、そして園山さんも、その知耀さんという人には敵わないのかもしれない。
「要するに、柾は知耀さんって人に頭が上がらないってことなんだね」
随分アバウトな注釈をつけたなと付け加えると、柾は苦い顔をして肩を竦めた後、おだまりと言いながら僕の頭を軽く叩いた。
園山さんの一人息子の朔夜くんは、誰に似たのか極度の人見知りで警戒心が強い――と、園山さんの家からの帰り道、柾が言った。以前出会った時に耳を劈くんじゃないかというほどのギャン泣きをされたらしく、それ以来軽くトラウマなのだそうだ。
初対面の人には懐かない。八割は泣くと、苦い顔で言っていた。だとすると、いま僕の横で大人しく絵本を食い入るように見ているのは、いったいなんなんだろうか?
あれから僕たちは朔夜くんを柾と僕がルームシェアリングしているアパートに連れて帰った。ソファーに寝かせておいたが、ぐっすりと眠っていて、目を覚まさなかった。柾がバイトに出かけた一時間後くらいに、朔夜くんが漸く目を覚ました。きょろきょろとあたりを見回して、見知らぬ場所だと思ったからなのか涙目になったが、僕の姿を見るなりこちらに寄ってきて、この有様だ。
園山さんの家から持ってきた子ども用ビスケットを無心に食べている姿を横目に見ながら、からからに乾いた洗濯物を畳んでいる。ときどき僕の様子を伺うようにこちらを眺めてくる以外、特に害がない。いつでも喉の渇きを癒せるようにとマグマグにリンゴジュースを入れて傍に置いているが、朔夜くんはそれを上手に手にし、一人で飲んでいる。僕の六歳年下の妹が小さかった時に較べるとはるかに大人しい。
まさか二歳児を連れ帰ることになるとは思わなかったから、今日の夕飯は柾の好きな霙鍋だ。二歳児に与えていいものなんだろうかとふと思う。かといって子供用ビスケットだけじゃ忍びない。どうしようかと考えていたら、玄関のドアが開く音がした。柾だ。柾はリビングに入ってきたあと、僕と朔夜くんを見て驚いたように目を見開いた。
「おかえり」
僕が声を掛けても無反応だ。しばらく僕と朔夜くんを注視していたが、やがて苦虫を噛み潰したような顔で熊手クリップを外し、留め癖を直すようにがしがしと髪を乱した。
「ただいま、調教師さん」
「なにそれ?」
柾はなにも言わず、両手を軽く広げた。調教をした覚えはない。そもそも僕はなにもしていない。そう突っ込んだら、物のたとえよと柾が面倒くさそうな声色で言った。Pコートを脱いでそれをソファの背もたれに掛けると、柾はこちらにやってきて、僕の横に腰を下ろした。
「奇跡だ」
「大袈裟だよ。僕はこの子にパパは夜になったら戻るって言っただけで、あとはなにもしていない」
そもそも僕には動物や子供を手なずける特殊能力なんてないと、柾の真似をして両手を広げながら言ってやる。柾は少々腑に落ちないような顔をしていたけれど、「子どもに好かれてもなんの得にもなりやしない」と、まるで自分に言い聞かせるかのように呟いた。
朔夜くんは大人しくていい子だ。少し引っ込み思案なところがあるようだけれど、賢い子だと思う。僕はこの3時間朔夜くんと二人きりだが、特別困ったことは一度もなかった。
「すげえわ。俺チョー苦労したし、若干トラウマなのに」
と、柾が朔夜くんに視線を送りながら言う。柾は背が高い。180センチ後半はある。僕でも見上げるのだ。朔夜くんくらい小さな子どもにしてみれば、怪獣レベルの恐ろしさがあるんじゃないかと内心思う。けれど柾が傷つくと面倒だから、怖かったんじゃないのかとは言わない。朔夜くんにとって園山さんはお父さんだからそう思わないかもしれないが、僕にしてみれば柾よりも園山さんの見た目の迫力のほうが衝撃的だった。強面というよりは、やんちゃっぽいとか不良っぽいという印象を受ける。けれど話してみるととても気さくで優しい人だ。
「虫の居所が悪かっただけなのかもしれないよ」
その証拠に今日は泣きそうにないと付け加える。事実、さっきから朔夜くんは柾に穴が開きそうなほどの勢いで注視しているものの、泣きそうな顔にはなっていない。むしろ興味津々といった感じで少しずつにじり寄ってきている。
「姪っ子は俺のこと大好きなんだけどねえ。‥‥ははーん、なるほど、そうか。女児にまでモテるなんて俺って罪だわ」
馬鹿じゃないのかと突っ込みを入れると同時に、冷たい視線を浴びせる。言わずもがな柾はモテる。背は高いし、男から見てもかっこいいし、おまけに声もいい。自分でセクシーなイケメンボイスと評するウィスパーボイスを武器に、言い寄ってくる女の子で遊んでいる印象しかない。柾を知っている人物が柾を一言で表すと、十人中全員が軽薄な遊び人だと言いそうなほど見るたびに違う女の子を連れている。それは事実だからなんとも思わないが、キープちゃん(あくまでも彼女ではないと本人が言い張る)を連れ込んであれこれ致すのはやめてほしい。
「朔坊男の子やしなあ。そりゃ俺というイケメンより俊平くんみたいなマスコットのほうが親近感が湧くよねえ」
柾の揶揄は無視して、「ごはん出来てるよ」と端的に言ってやる。僕が乗ってくると思ったのだろう。柾は「つまんなーい」とやや媚びたような声色で言いながらこちらに向かってきた。朔夜くんとほんの数十センチの距離に近付いたが、朔夜くんは泣きそうな気配すら見せない。それどころか柾をまじまじと見上げ、ぽかんと口を開けている。柾はそれを見下ろすと、朔夜くんの前にしゃがみこんだ。
「朔ちゃん、パパが戻るまでいい子にしててね」
言いながら朔夜くんの頭を撫でる。朔夜くんは怖がるどころか、子どもらしい笑顔を浮かべて、大きく頷いた。
「ちょっ、やだっ! なにこれっ!」
グウかわっと柾が膝に顔を埋めた。子どもが嫌いなんじゃなかったのかと突っ込みたくなるほど悶えている。朔夜くんはそのまま柾のパーカーの裾を握り、数回引っ張った。
「ママー、ごはん」
ほぼ同時に朔夜くんのおなかがぐうっと鳴く。僕と柾は思わず顔を見合わせた。
ママ? ごはん? 朔夜くんが発した言葉の意味が一瞬わからなかった。
「ママ‥‥って、言ったよな?」
僕へと振り返り、柾。聞き違いでなければそう言われたように思う。僕の耳が確かならば。
「ねえ、ママー」
朔夜くんの視線は明らかに僕に向いている。柾は僕と朔夜くんとを交互に眺めた後、口元を押さえて肩を震わせ始めた。
「ねえ、盛大に笑ってもらった方が却って傷つかないんだけど」
僕に気を遣ってなのかなんなのか、いつも笑い飛ばすくせに笑いを堪えるなんて、感じが悪い。柾はママと震える声で何度も呟きながら必死に笑いを堪えている。朔夜くんはきょとんとして首を傾げた。
2歳児とは親の顔を覚えているものじゃないだろうか。乳児でも親かそうでないかくらい区別がつくと思うのだけど。この子は天然なのか? それとも目が悪いのか? なんて、あらゆる可能性を考えてみる。けれど朔夜くんはとことこと軽い足音を立てて僕に近付いてくると、ニットソーの裾を数回引いた。
「ごはんはー?」
ついに柾が吹き出した。床に蹲っておなかを押さえて笑い転げている。ママじゃない。ママじゃないんだ。よっぽどそう言いたかったけれど、僕は弁解よりも朔夜くんのおなかを満たすことを優先した。
夕食を食べ終えたあと、朔夜くんはまたうとうとと眠り始めた。僕はそれをソファーに運んで、寒くないように毛布を掛けてやった。柾が言っていた朔夜くん像は一体なんなのかと言いたくなるほどおとなしい。ほぼ手がかからない。まさか僕が余計なことを言い出さないようにと口から出まかせだったのだろうかとすら思う。けれどそれは柾も同じだったようで、すやすやと眠る朔夜くんを眺めながら、ううんと唸った。
「朔坊も成長したんだろうか。俺との初対面では本気でギャン泣きしやがったくせに」
言いながら朔夜くんの頬をつつく。寝てるんだからとその手を払いのけると、柾はにいっと意地悪く目を細め、僕の腹を撫でた。
「あら、ママ。そんなに怒らないで」
「僕は遺伝子レベルで男です」
「ちみっこで女顔なのに? 駅でナンパされちゃうくらい可愛いのに?」
僕は柾に冷めた視線をぶつけ、柾から見たら誰もがチビだと尖り声で吐き捨てた。柾はいつもこうして全力でからかってくるから性質が悪い。
「佳乃さんとは似ても似つかないのにねえ。なんでママと勘違いしたんだろう?」
そう言った後、柾はああそうかと誰に言うともなくぼやいた。
「朔坊が生まれてから数える程度しか“ママ”を見たことがないからか」
柾が言うには、佳乃さんは朔夜くんを産んですぐに体調を崩し、そのときに少々特殊な病気が発覚したのだそうだ。その治療の為に入退院を繰り返していたから、数える程度しか朔夜くんと会ったことがない。その間朔夜くんをどうやって育てていたのかは柾も知らないらしい。それでママの顔を覚えていないのかと納得した僕を見て、ママになってあげなよと柾がしたり顔で言う。僕はそれを無視して、すやすやと眠る朔夜くんの頭を撫でた。
「僕になにかできること、ないかな?」
柾がちらりと僕を見た。
「ずっとうちにいるのも退屈だし、朔夜くんの面倒を見れる人がいたら、園山さんも困らないよね?」
「そりゃあね。園さんとこの両親はアメリカにいるし、佳乃さんとこのおかんは佳乃さんにつきっきりだから、朔坊の面倒を見れる人がいれば、そりゃあ園さんも大助かりだよ」
でも――、と柾が継ぐ。
「寝言は寝てから言いなさいよ。ちょっと歩いただけでも足がパンパンになるくせに、なにができる?」
「ごはん作るくらいならできるよ、いまだってやってる。作る量が少し増えるだけじゃない」
「相手は二歳児だぞ。今日はよくたって明日はギャン泣きするかもしれない。園さんがなんていうかもわからないし。
俺はお前の怖い怖いお兄様からお前を預かってんだから、無理なことはさせたくねえの。自分の能力を考えてから言えよな」
嫌そうな顔をそのままに立ち上がり、柾が肩を竦めた。「自分のこともようしきらんくせに人のことに口出すな」と、尖り声で、僕を責めるかのような口調で言う。柾のいうとおりだ。でも、釈然としない。なにもそこまで言わなくてもいいじゃないかと反論すると、柾はふんと鼻で笑って、口元を持ち上げた。
「なにがあってもぜーんぶ自己責任でっていうんなら、べつにかまわないけど。ただし、お兄様には自分で連絡しろ。あと、お前がそう言ったっていう血判状を作れ」
「け、血判状?」
「当たり前だろ、おまえの勝手で始めたものに関してまでお兄様にとやかく言われちゃ、柾斗くんの心臓壊れちゃうわ、怖すぎて」
ああ怖いと言いながら、柾が肩を抱いてわざと震えて見せた。その茶髪と無数のピアスが無責任さを助長させているのだと突っ込みたかったけれど、言うと前言撤回されそうだから、やめた。無責任そうな見た目とは裏腹に、意外も柾は真面目で律儀なところがある。基本的に面倒くさがりでいいかげんな性格だと思われがちで、実際にそういう面があるのはあるけれど、その実冷静に物を見ている節がある。物分りが良いというか、柔軟というか、とにかくいままで僕の周りにはいなかったタイプだし、僕も朔夜くんほどではないにしても人見知りだから、知り合って数日で名前で呼ぶ間柄になったのが珍しいくらいだ。
どうして僕と柾がルームシェアリングをしているのか。僕は勝手に気が合ったからだと思っている。ずっと昔から友達だったような感覚だし、幼馴染では近すぎて話せないことも、柾になら話すことができる。聞き上手でもあるし、基本的に面倒見がいいのだ。僕だってそんな柾に迷惑を掛けたいわけではない。血判状か。ぼそりと呟いて立ち上がる。僕はカウンター越しに手を伸ばし、包丁を持った。
「牛王宝印がないから普通の紙でもいい?」
包丁を片手に柾に尋ねる。柾はぎょっとしたように目を見開いた。
「ちょいちょいちょいっ! なにやっとんねん、あっぶな!」
僕が包丁の刃に指を添えているからだろうか。柾が急に狼狽えはじめた。
「血判状作れっていうから」
「冗談に決まっとるやろ! そもそも牛王宝印ってなんなん!? 知らんし!」
「血判状を作る為の誓紙」
正式なものはそうするんだと付け加える。柾は呆れかえったように大きな溜め息を吐いて、動物を追い払うときのようにしっしっと手を振った。
「ドアホかお前は」
ドアホの音を伸ばして強調する。
「ホンマにそんなことさせたらお兄様から俺が殺されるわ!」
ええからはよ包丁どけえと尖り声で柾が言う。そうか。冗談だったのか。僕は内心そう思いながら包丁を元々おいていた場所に戻した。この場合僕がすべきことは、兄を黙らせることだろう。正直気は進まないし、連絡すらしたくはないが、しょうがない。朔夜くんのためだ。じゃあ僕から週に連絡をするねと柾に告げると、柾は呆れかえったような顔で両手を大袈裟に広げ、どうぞご勝手にとやや投げやりな口調で言った。
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