第8話:識域の答え、そして忠義の誓い(中編)
訓練を終え、汗を拭いながら帰ろうとしたときだった。
昇降口の影から、ひょいっと顔を出したのは――鈴音だった。
「……ゆーゆー、良かった。生きてたんだね」
「お前なあ」
思わず苦笑が漏れる。
「俺のこと殺す気だったのかよ」
「違うよ! ただつい本気を出しちゃったからさ……」
いつもの軽い調子じゃない。声は小さく、どこか迷いを帯びていた。
「本気だったのか、あの時」
鈴音が、俺に対して本気を出した……。
この前のように心が折れたわけではないとはいえ、惨敗したのは多少なりともショックはある。
だけどその言葉ですっと心が軽くなった気がした。
「ねえ、ゆーゆー……。まだ……賭けは続いてるんだよね?」
不意を突かれた。
あの鈴音が、こんな風に確かめるなんて――意外で、妙に胸がざわつく。
「……どうしたんだよ、いきなり」
「いいから答えてよ」
視線を外し、口元をわずかに噛む。
そうか、鈴音。
怖いんだな、元の世界に戻るのが。
だから俺は、ためらわずに言った。
「当たり前だろ。本番は三日後だ」
一瞬、鈴音の肩から力が抜けた。
ぱちぱちと瞬きをした後、彼女はにんまりと笑みを作る。
それはいつものふざけた顔なのに――わずかに安堵の色が滲んでいた。
「……ふふっ、だよね」
鈴音は笑った。
だけどそれはいつもの勝ち気な笑顔じゃなくて、少しだけ勝ち気のほどけた笑みだった。
「いまさら終わりって言ってもボクの手は握れないからね。あーあ、試合の時に素直に言ってれば、このキレイで柔らかい手を握れたんだけど……惜しいことしたね!」
「別に握りたくなんてないし!」
わざと強がる調子で言う鈴音に、俺も強がって答える。
「またまた意地張っちゃって~。んじゃああと3日頑張ってねー。期待しないで待ってるから」
そう言い残し、鈴音は踵を返す。
背を向けながら、手をひらひらと振る仕草はいつもと変わらない。
でも――その歩調は、ほんの少しだけ軽やかに見えた。
鈴音の背中が昇降口の向こうに消えるまで、俺はその場に立ち尽くしていた。
「……あいつ、やっぱり」
本気を出してくれた。
そしてそれを怖がっていた。
それを誤魔化して笑うのが――今の鈴音なんだろう。
胸の奥に、負けた悔しさとは別のざわつきが残る。
強がりの裏に隠されたほんの一瞬の素顔。
差し出された手を取らなかった俺は、あいつへの責任がある。
「三日後……絶対に」
小さく呟いた声は、自分自身への誓いのように響いた。
昇降口を出ると、夕暮れの赤が校庭を照らしていた。
静かな風が吹き抜ける中、誰かがこちらを見ている気配に気づく。
振り返ると――影の中に楓の姿があった。
彼女は口を開かず、ただじっと俺を見つめていた。
その瞳は、何かを測るように揺れている。
「楓……」
声をかけようとした瞬間、楓はすっと目を伏せ、背を向けて歩き去った。
取り残された俺の胸に、鈴音とはまた別の不安が広がっていく。
「……なんなんだよ、ほんと」
「はぁ~! なかなかどうして、先輩も意外と罪な先輩ですねえ」
突然、ひょいっと影から希望が姿を現した。
いつも突然現れるな、こいつ。
「希望? なんか用があった?」
「いやあ、先輩が天羽さんにボロ雑巾にされたって聞いて、膝抱えて泣いてるんじゃないかなーって」
「泣いてないし!」
気は失ってたけど……。
そういえば、空気とか気恥ずかしさでずっと聞けなかったことがある。
話すならすでに恥をかいてる今がいいタイミングだろう。
「希望……、最初にさ。お前、俺を助けてくれただろ。なんでそんなことしてくれたんだ?」
希望は、あっけらかんとした顔で答えた。
「はぁ? そんなの当たり前でしょ。目の前で死にかけてる人がいたら助けるものです。ノブレス・オブリージュ!」
「……当たり前、ね」
王族だから助けるのが当然の責務ってか?
特権を持つ人間がそう行動できるのがどれほどすごいことなのか、それぐらいは俺にだってわかる。
あの時希望があの場にいなかったら、俺は転移した意味もなく結局死んでいたかもしれない。
希望が、俺の死の運命を変えた?
……まさかな。
そんなことを考えていると、希望がにやりと笑って、わざとらしく俺を指差した。
「ていうかさ、先輩だって同じだったじゃん」
「俺が?」
「なんにもできないのにわたしのこと助けようとしてくれたでしょ」
「……思いはしたけど、結局動けてないし」
「そうだけど……多分なんだけど、先輩がわたしを助けようと思ってくれなかったら、無詠唱は起きなかったんじゃないかな」
「そう、なのか?」
論理魔法について学んだ今、無詠唱の原理は推測がついている。
ニャルが魔法の行使に必要な論理演算を全て肩代わりしてくれたのだ。
しかしなぜ発動したのか。それがわらからない。
「人間って無意識に動くこともあるけどさ。理性や本能を超えるにはまず意志が必要じゃない? ことをなそうとする意志。何かを変えるのに、最低限必要な条件」
希望の声は、いつもの軽さと違って、ほんの少しの真剣さが混じっているように聞こえた。
「だからね、あんまり自分がたいしたことないって思わないほうがいいんじゃない? 自信のない男の子はモテませんよ?」
そう言って、希望はからからと笑った。
「お前なぁ」
ただでさえ酷い目にあってんだからとどめさせないでくれる?
希望は笑いながら、俺を追い抜いて歩き出した。
「ま、せいぜいがんばってね、先輩。一生懸命お願いすれば、助けてくれるかもよ?」
「お願いってか誰にだよ」
ほんとに意味のわかんないやつだな。
「まあわたしは助けませんけどね。甘やかすのは先輩のためにならないんで!」
お前らが一体いつ俺を甘やかしてくれたんだよ!
ほんとにさあ。
いつものような希望の励ましなのかからかってるだけなのかわからない言葉の数々。
でも、不思議と足取りは軽くなっていた。
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