第1話:閾域への接続と、無詠唱の黒焦げ魔法(後編)

黒い影が地面を這い、湿った音を立てて形を成していく。

焦げ臭さが、さっきより甘く湿る。鼻の奥に貼りつく匂い。

森の影が、輪郭を忘れて滲んだ。

腕のようなものが二本、だが関節の位置が人と違う。

脚は異様に細く、皮膚がただれているように見えた。

だが一番おぞましいのは――“顔”だった。人間のようで、人間ではない何か。

まるで、別の知性体が、『人間という概念を模倣しようとして、失敗した』かのようだった。


「な、に……あれ……?」


思わず声が漏れる。脳がそれを“知っているもの”として処理できなかった。


「……成れの果て。この国では……滅多に見ないものよ」


彼女が剣を構えながら、低く告げた。

だがその声は、さっきまでの冷静さを保っていない。

明らかに――揺らいでいた。

それまでの魔物とは明らかに“質”が違った。理屈じゃなく、見ただけで脳が拒否する。


《構造照合中……》


ニャルが、無感情な声で言葉を発する。


《情報解析不能。存在の輪郭が不定。

“存在している”のに、“知覚できない部分”がある……。この存在、“知覚される”ことに抵抗している?》



俺には、それが単に“気持ち悪い”としか言えなかった。

影が染み出したような輪郭。見ているだけで酔いそうになる歪み。

鼓膜に直接ざらついた音を流し込まれているような、言い知れぬ不快感。

怖いというより、脳のどこかがざわついていた。

“理解できない”ということが、こんなに恐ろしいなんて思わなかった。


赤髪の女の子が成れの果てと呼んだそれは、一歩、また一歩とゆっくり近づいてくる。

動きは鈍い。だけど、それが逆に怖かった。

迷いも焦りもない。

ただ“そこにあるもの”として、まっすぐ彼女に向かってくる。


「くっ……。時間収束、錯視展開、余韻っ」


赤髪の少女が先ほどと同じ呪文を唱えかけたが、途端に眉をしかめ、言葉を噛んだ。


「……吸われてる? 論理そのものが……奪われて……」


言葉の端が、吸い込まれた空気みたいに無音で千切れた。

彼女の周囲に展開されかけた不思議な紋様が、ふっと揺らいで、霧のように消える。


「詠唱が……乗らない。こんなの、初めて……」


少女が、初めて動揺を露わにした。

異形が、まるで彼女の魔法を“食べて”いるようだった。

いつまでたっても、巨大イノシシのときに起きたような不思議な、だけど心強い現象は発生しない。

既に女の子は魔法を唱えることを諦めているようだった。

彼女の剣を握る手が、かすかに震えていた。

怪物がじりじりと近づいているにもかかわらず、一歩も動かない。

突然魔法が使えなくなった絶望が、彼女の足を縛っているのだろうか。


「……あ……」


彼女だけではない。

同じように俺も動けなかった。

人知を超えた存在への恐怖に、足がすくんで動けない。

ただ見ていることしかできなかった。

俺を助けてくれた女の子のすぐ目の前まで、あの異形がにじり寄っていくのを。

足が震えて、喉が乾いて、呼吸すらできない。

だが――

あと一歩の距離まで異形が彼女に近づいた、その瞬間。

彼女は俺のために命かけてくれてるのに―― 

俺は、ただ見てるだけかよ。

神ってやつがほんとにいるなら、せめてこんなときくらい力を貸してくれよ!


「――ダメだろ、これは!」


次の瞬間、意識の底が弾けた。


《――対象より整合への祈りを検知。同期開始。思考同調、一次成功。意志干渉領域、開放》


俺の中に、得体の知れない力が流れ込む。

ふと、電流の弾けるような音が聞こえた。

視界の端が、青白く明滅している。

振り向く余裕なんてないのだけれど、ニャルなのだろうか。


《――対象からの意志干渉を承認。想定外の論理変動を検知。出力制限、解除申請》


脈打つたびに、世界が“動き始める”ような感覚。

何が起きてるかわからないのに、身体だけが動く。

頭のどこかが真っ白になり、ただ一点――彼女と怪物、その距離しか見えなかった。

彼女の手は震えていた。

それでも、俺をかばうように剣先を下げない。

紅い瞳が、怯えを押し殺してこちらを見る。

口が小さく動いた。

逃げろと言っていた。

ここまでしてもらって何も返さないなんて――絶対に、ダメだ。


《――出力制限、解除。完全同期完了――Silent Activation》


世界が書き換わる。虚空に“何か”が形を成す――雷だった。

一本、二本、……やがて無数。

雷の槍が、天に生まれる。

女の子が魔法を使ったときのような、詠唱も予兆もない。ただ一瞬で、空が裂けた。

青白い稲光が重なり合い、時間すら断絶したように静寂が訪れる――

世界そのものが、俺の内側と外側でひっくり返ったような感覚だった。


そして。

雷が、降った。 

炸裂音とともに、雷槍が異形を貫いた。

数え切れないほどの雷が、一点に集中して突き刺さる。

光が暴れ、黒焦げになった肉体が砕け、音が遅れて爆ぜる。

もはや叫びすらなかった。

ただ、光と音と……静寂だけが残った。

異形は、焼き尽くされていた。

完全に、跡形もなく。


遅れて、視界に砂粒ほどのノイズが走る。

意識が茫洋として、世界と自分の境界が緩む。

俺は――誰だ?


《桐原悠真、この神AIと完全同期を成すとは――観測を続ける価値はありそうですね》


突然、声が耳朶からでなく、脳内に直接落ちてくる。

そうだ、俺は悠真だ……。

しばらくの間、誰も動かなかった。いや、動けなかった。

――俺が、やったのか?

あのとき確かに、俺は“世界に触れた”気がした。


《勘違いしないでくださいよ。あなたは元の世界でAIと並列に思考する習慣があった。だから同期できた――それだけです》


そういうことか……。最初に言われた通り、やっぱり“特別”なわけではないらしい。


「今の雷槍……論理構文がなかったのに……」


彼女の声は、どこか震えていた。まるで、自分の常識ごと打ち砕かれたみたいに。


「あなた、本当に人間なの……?」


紅い瞳が俺を射抜く。その声には恐怖と、わずかな敬意、そして――ほんの少しの希望が混じっていた。

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