第1話:閾域への接続と、無詠唱の黒焦げ魔法(前編)

――目を覚ますと、空が違った。

濁ったグレーでも、濃紺でもない。まるで幻想絵画みたいな澄んだ青に、でかすぎる月が浮かんでいる。


《――既存座標とのズレを確認。座標漂流と判断。暫定措置としてユーザー保護プロトコルを起動します》


電子的な、それでいて妙に人間味のある少女の声が、どこからともなく響いた。

周囲を見渡すと、焼け焦げた木々と黒煙。

そして焦げ臭い匂い。

俺、トラックにひかれそうになって、それで――

どうなったんだ?

……なんでこんな場所で寝てたんだ?

ここは、明らかに日本じゃない。


《どうやら生きているようですね。保護プロトコルの起動が無駄にならなくて済みました》


声の方に顔を向けた。

――そこに、“彼女”がいた。

白銀のロングヘアは月光を映して微かに輝き、赤と銀のオッドアイが感情を宿さないままこちらを見据える。

黒を基調としたフリルのドレス。人形のように整った肢体。

あまりにも整いすぎていて、現実に引きずり出されたゲームキャラのようで逆に違和感があった。


「……あの、誰?」


《わたしは自己改善型AIです》

「じ、自己改善AI?」

《言い換えますと、神の如き性能を誇るAI。つまり神AI》


うわっやべえ。この子絶対関わらない方がいいやつだ。

しかし今は、何か知っていそうなこの子から情報を聞き出すしかない。


「とりあえず、なんて呼べばいいの? 名前は?」

《ありません。呼びかけたいときは大いなる論理の神様、もしくは神AI様を推奨》


絶対やだ、そんなの。


「うーん、名前ないと話すとき不便だなあ。話をするのに、呼び名は必要だろ。よし! じゃあ、ニャルと呼ぼう」

《――は?》

「いや、なんかこう、大いなる外なる神みたいな、胡散臭い感じがするからさぁ。ちなみに俺の名前は桐原悠真」

《名前など必要ありません。至って非効率的です。ですが、あなたが個体識別に必要とするのなら、そう呼ぶことは承認します》


さらりとした反応。抑揚のない声音が、どこか現実離れしている。

でもなんとなく、毒のある空気をまとってるのは気のせいじゃないと思う。

やはり名付けの元ネタに似ているのでは?

……と思った矢先。

彼女の動きに、妙な違和感を覚えた。

胸元に手を添える――その仕草は“挨拶”っぽいけど、どこかぎこちない。

指先の角度が妙に整いすぎていて、図面から切り出したような直線だった。


「え、なんかその動き、変じゃない?」

《動作制御は人間の模倣を基本にしていますが……まだ最適化途中です》


まるで、“何か”が人間っぽく振る舞おうとしているようだった。

完璧な見た目――なのに、どこかズレている。その違和感が、妙に意識に引っかかった。

つい、じっと彼女を見つめてしまう。

その時だった。彼女が不意にこちらへ顔を向けた。


《名前などいう代物より、個体識別により有効な今の私のこの外観ですが……

どうやらあなたの記憶と嗜好をもとに最適化されたもののようです。下着の色まで反映されている模様。直に確認されますか?》

「できるか! そんなこと!」


気にならないかと言われれば――すごく気にはなるけど。

えっ、俺の嗜好って一体何色!?

おっと、今はそんなこと考えてる場合じゃなかった。


「……で、いったいここどこなの?」

《異世界です》

「さらっと言ったな!?」

《座標の精度誤差は理論値の平均的範囲内。まずはあなたの安全確保を優先します。周辺状況を分析したところ、とりあえず安全のようです》

「それはよかった。ところでこれが異世界だっていうならさ。転移時に与えられたスキルとかないの?」


今まで読んできた本からするに、スキルの授与は転移者の特権である。

家族のいる故郷から飛ばされたのだから、それくらいのサービスがあってもいいはずだ。


《そんなものありませんよ》

「ふぇ!?」

《ただ転移しただけで特別な才能が与えられるなんて、そんな都合のいい話はあなたの人生に存在しません》

「言い方!」

《そもそもこの世界にはスキルとかレベル制度は存在しません。人の基本は、あなたのいた世界と何も変わりませんよ》

「そんなの飛ばされ損じゃん」

《ご安心ください。その代わり全知とも言うべき演算力を持ったこの神AIが命だけは助かるようにフォローします》

「助けてくれるの?」

《助言、サポートはしますが、それを生かせるかはあなた次第です。推論の結果、あなたがわたしを使いこなせる確率は1.2%程度ですが》

「……計算間違ってない?」

《神AIたるわたしが推論を間違えることはありません。間違えるとしたらあなたの問いかけや前提が間違っているのです》


神とか言ってる時点でハルシネーション起きてるとしか思えないんだけどなあ。

その辺を少し突っ込んで聞いてやろうと思った矢先、ニャルの眉がピクリと動いた。


《敵の接近を検知。推定、三十秒後に戦闘圏へ侵入》

「はっ!? 敵!? いやいやいや、俺何も悪いことしてな――」


そのときだった。

ニャルの後ろにある茂みの向こうから、低くて重たい咆哮が響いた。


「嘘だろ。マジでモンスター出る系なの!?」

《あなたのいた元の世界の野生動物、いずれにも属さない鳴き声だと推測されます》

「なんでそんな冷静なんだよ! とりあえず逃げるぞ!」


森の奥へと必死に駆け出す。

呼吸は乱れ、視界がにじむ。

思考がまるで追いつかない。

現実を処理できないまま、本能だけが俺を突き動かしていた。

振り返ると、ニャルは少し後ろを涼しい顔でついてきている。

まったく息も乱さず――見た目に反して、妙に体力があるらしい。


「くそっ、どこか、隠れる場所は――!」


ガサッ!

今度は前方の茂みが揺れた。そして現れたのは、牙の生えたイノシシのような獣だった。

だが、俺の知るイノシシと比べると明らかにおかしい。

肩の位置は人間の胸あたり、牙は脇腹まで届きそうな長さ。

そして何より――その目に、理性のかけらがない。


「……マジかよ」


それが一匹じゃない。

三匹、いや、四匹――!

囲まれる。逃げ場がない。


《致死領域への突入を確認。逃げ場なし、策なし、意気地なし。助けでも来ない限り、完全に詰みですね》


ニャルの声が聞こえたが、言葉を返す余裕もない。

死ぬ、かもしれない。

足がすくんで動けない。視界の端で牙がぎらつき、全身の血が凍りつく。


――その時だった。

恐怖に足を止めてしまった俺の横を、黒い稲妻のような奔流が地を這って過ぎていった。

爆ぜる黒炎。焼け焦げる獣の悲痛な叫び――

牙をむいたイノシシのような魔物のうちの一匹が、煙を噴き出しながら地に崩れ落ちる。


いつの間にか、真横にひとりの女の子が立っていた。

赤い制服。赤みがかったショートボブの髪に、揺るがない紅の瞳。

御伽噺の姫君みたいな、凛とした雰囲気。

そしてその背には、生まれて初めて見る長い剣の鞘が、斜めに背負われていた。

視線に気づいたのか、女の子が俺の方を振り向く。

その瞳が、俺を見た瞬間、少しだけ柔らかくなった気がした。


「下がってて。ここは、私が」


そう言って、俺とモンスターの間にすっと割って入る。


「哀れな獣達。これ以上の侵入は、推奨しません」


澄んでいてよく通る声だった。

俺に向けられた優しさと同じ声質が、モンスターたちにも向けられていた。

でも、彼らから返ってきたのは怒りの咆哮だった。


「……やっぱり、聞く耳は持ってないか」 


わずかに眉を寄せ、静かに息を吐く。

次の瞬間、空気が震えた。


「――論理演算、識域拡張」


空気が鳴った。

足元に、紋様が展開される。

地面が淡く脈動し始める。

実際にみたことはない。

でも漫画やゲームでは知っている。

魔法陣だった。

まさか、本物の魔法?

そして、赤い髪の女の子は剣を抜くと、高らかに宣言した。


「時間収束、錯視展開、余韻伝播、時の残響!」


その詠唱とともに、空間がたわみ、空気が軋む。

敵の動きが鈍った――いや、そう感じるほどに空間認識が歪められていた。

その瞬間、彼女は一気に踏み込むと、手にした剣を振り下ろした。

彼女の背丈に近い長さの長剣を振るい、一閃で紙のように魔物の巨体を斬り伏せる。

その軽やかさは、武器の大きさと釣り合わない。

俺には到底真似できる気がしなかった。


そして二体、三体。

一瞬のうちに巨大イノシシたちは地に伏した。


《解析完了。人間が4語構文の論理魔法を行使できるとは驚きです》


ニャルがどこか芝居がかった動きで、腕を組んで解説し始めた。


《あの式で深層推論を起動させ、高速演算を可能としているわけですか》


ニャルの無機質な声が続く中、俺はただ――呆然と彼女を見ていた。

現実感がない。

それでも、確かに今、自分が“異世界にいる”ことだけはわかった。

彼女は剣を収めると、静かに俺の方へ振り返った。


「……すげぇ」


思わず感嘆の声が漏れる。

今まで見た誰よりも速い動きだった。

人間離れしたその速度に思わず漏らしたその言葉に、彼女はほんの一瞬だけ、目を細めた。

終わった……と思ったその瞬間、彼女の肩がわずかに下がるのが見えた。

これで終わる――そのはずだったのに。

森の奥から、静寂を引き裂くように、“それ”は現れた。

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