第16話 神への賛美と詩への想い

 海からの帰り道。タクシーを呼ぼうかどうしようかと思いながら、先生の体調は大丈夫かな、と心配しながらそのままタクシーを拾えそうな道まで進んでいく。

 二人で大して景色も良くない普通の道を歩きながら、この暑さで先生の体調がさらに悪化してしまったら、と私はずっと心配で……。

「詩さん」

「はい」

「あれは教会ですか?」

「ああ、そうですね。教会です」

「この世界にも教会が?」

「それはもちろん。先生の世界のようにみんながキリスト教徒というわけではありませんがここにも信者はいますから」

「あの教会…近くに行って見てみてもいいですか?」

 私は近所に住んでいるのにこの教会の中には入ったことがなくて、ただいつも通りかかってただ「教会がある」と思っていただけだった。先生は故郷の景色を思い出したのだろうか、興味がある様子でそこへ近付いて行く。

 先生と二人で教会の敷地へ。さらに進んで教会建物の扉を開けると鍵は掛けられていなかったのでそのまま入って中に進む。

 へえ、中はこういうふうになっているんだ。この建物の内部はちゃんとした教会になっているのか。知らなかった。話を聞く人のための席があって、前には祭壇。十字架。キリストの苦しんでいる像……。オルガンもある。

 十字を切ってゆっくり進み行く先生について私も進む。

 その時、祭壇の近くに人がいることに気が付く。あ、勝手に入り込んでまずかったかな、と焦ってよく見るとどうやらこの教会の神父さん。「こんにちは」と挨拶された。

「こんにちは。この近所に住んでいる者です。ええと、知り合いが泊まりに来ていまして…その、この方は子どもの頃にオルガンを学んでいたキリスト教徒の方で……」

 神父さんは微笑んで「オルガンを弾きますか?」と言ってくださった。

 先生を見ると表情で「ぜひ」と言っていたので「ぜひお願いします」とお願いした。

 神父さんは先生に向かって手招きをする。静かな神父さんに静かに近付いていく先生。その後ろにくっついて私も続く。

 さあどうぞ、と神父さんからオルガンに案内してもらいそのまま席に着く先生。先生が位置に着いたのを見ると神父さんはさっきから作業中だったらしい祭壇の方へと歩いて行ってしまった。

 教会のオルガンなんてこんな間近で初めて見た。鍵盤が段になっていて足元にも木でできた長い足鍵盤。いくつもボタンがあって、操作の仕方が全然分からない。

「きれいなオルガンですね」

「そうですね。先生はオルガンが弾けますか?」

「子どもの頃に習いました。音楽教育の一環ですね。地元の教会で、あの時ぼくはいくつだったのかな……」

「そんな子どもの頃からオルガンを弾いていたなんてすごいですね」

「懐かしい思い出です」

「今日は何を弾きますか?」

「楽譜もないし、即興演奏をしましょうか。詩さん、聴いていてください」

「わかりました」

 両手を擦り合わせて段になったオルガンの鍵盤を見つめて数秒。目を閉じて下を向いたすぐ後、先生はおもむろに鍵盤の一つを押す。教会全体に響き渡るオルガンの一音。それから先生の手はいくつもの音を選んでハーモニーを作る。対位法。重なり合うそれぞれの旋律。安定した音の重なりは時に不安定になり、墜落する前に持ち直す。

 不思議な響きが教会中に、私の体の奥まで広がる。右手が奏でる旋律と左手の奏でる旋律にゆっくり動く足鍵盤の重厚な底を支える太い音の流れ。

 教会だからなのか、神聖な響きに心が揺れる。オルガンの音ってすごい。

 これが即興演奏? どこかに楽譜があるのでは、と思うほどに完成された厳かな音楽。厳かな中に明るさがあって思わず天井を見つめる。天使でもいるんじゃないかなって。

 まばゆい光と舞い踊る天使がここにいる。神を賛美しているような美しい曲。これが即興演奏……。先生、やっぱり天才だ。


 演奏はほんの二分ほどだったのだと思う。曲の最後の音を長く伸ばし切って弾き終えた先生が私を見て言う。

「いかがでしたか?」

「はい……。もう…何も言えません……。素晴らしいですね。きれいだったし、光が見えた気がします」

「すてきな感想をいただけて光栄です。今のはね、我ながらよくできたんです、なんて」

「とても…素晴らしく完成されていて……。今のは本当に即興なんですか? すごいですね。とてもきれいで感動的でした」

「即興は楽です。だって練習しなくていいんですからね。深く考える前に音にしているし」

「しかしそれにしても……」

「簡単なんですよ。ほんの二小節ほどの動機を頭の中に思い浮かべます。そんなのいくらでも浮かびますから何の苦労もありません。あとはそれを心のままに適当に展開していくだけです。和声や対位法はぼくの体の中に入っていますから自然に進めばいいだけです。でも、今のは思ったよりよくできました。詩さんに今、この瞬間のぼくの音楽を聴いていただけて良かった」

「聴かせていただけて本当に良かったです。うれしかったです。いい曲でしたね。ありがとうございます」

「なんて簡単に言っていますが今の曲は神への感謝とあなたへの想いを音に載せたんです」

「神への感謝と、私への想い?」

「それを詩さんがどう思ったのかを訊くのは今はやめておきます」

「ええと、その……。私への想いって……」

「あなたはとても清く澄んだ方です」

「あの……」

「即興の困るところは、もう二度と同じ曲を再現できないというところなんですよね」

「ああ……」

「でも、この動機を楽譜に落とせるかもしれない……。今使った動機をぼくはまだ頭の中に残しています」

「そうなんですね……」

「詩さん」

「はい」

「早く帰りましょう。今のこの曲を楽譜にしておきたくなりました。ぼくの、あなたへの想いです」

「そしたら…そうですね。先生、体調は?」

「大丈夫です」

「では、今すぐに帰りましょう」

「早くしないと頭からこぼれてしまう。急ぎましょう。ぼくは今、不思議と体調がとても良いんです」

「良かったです。それでは急ぎましょう」

 まだ祭壇の近くにいた神父さんにお礼を言って私達は小走りに日の暮れるいつもの町を自宅に向けて急いで帰って行く。

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