第15話 海を見に
熱がなかなか下がらない。熱があるからだるくて寝てばかり。
熱の原因は? 私は一体どうしたら……。本当に、具合の悪い先生のことを、私はどうすれば良いのか分からない……。
そんな先生の傍らに迷惑だと知りつつ何度も近付く。食欲がないようなのでスポーツドリンクをこまめに摂ってもらうようにして、ゼリーとか、ペーストにした果物とかを部屋に……。
どうしたら元気になっていただけるのかな……。やっぱり一度病院に……。
悩みながら横になっている先生の顔を見てため息をついたらそのことに気付かれた。先生が言う。
「詩さん。明日は大丈夫な気がします。明日は起き上がって曲を書くつもりですから」
私のため? 私がこんな顔をしているから、それで申し訳なく思ってそう言ってくれているのかも……。病人に気を遣わせてしまうなんて……。でもとにかく心配で……。
「先生、どうかご無理はなさらず……。でも、先生が元気でいてくださったら私もうれしいです。いえ、元気でなくても…ここにいてくださるだけで十分ではあるのですが…それでも、やっぱり、先生には元気になっていただきたいので、もし……」
「詩さん」
「はい……」
「あなたといるとぼくはなぜか母を思い出すのです」
「先生の、優しかったお母様、ですよね?」
「はい。幼かった頃、ぼくが体調を崩すと母はいつもぼくをベッドに入れて心配して世話をしてくれました。母は優しかったです。そしてぼくのことを思っていてくれた。あれは決して枯れることのない深い愛です。そんな母の愛を、なぜか思い出すのです」
「そうなんですね……。私などでは先生のお母様には到底……」
「もうずっと誰かにこうして世話をしてもらうことなんかなかったのです。だから、あなたがここにいてくれてとてもありがたいし忘れかけていた懐かしい思い出が浮かんできました」
「親が子どもを心配するのはもちろん、そうですよね。先生はお母様にとって大切な子どもだったのですから」
「詩さん」
「はい」
「あなたもそうですよね」
「私ですか?」
「あなたも、あなたのお母様の大切な子どもだった」
「ええ、そうですね……。きっと…そうだったと思います……」
先生にそう言われて、母がたまに、私に、かわいいね、と言ってくれた時のことを思い出す。私をかわいい、と言う時の母はそういえば、幸せそうで愛情に溢れていた。私はあの頃、自分の容姿を褒められたのだと思っていたけれど、そういうことではなかったのだろうな、なんて今さら。まだ子どもだったから気が付かなかった。かわいいって、そういう意味ではなかったんだよね、お母さん?
もう……。そういう思い出がよみがえると…もうお母さんと二度と話ができないことを思い知らされて寂しくなる……。胸が苦しい……。
「詩さんのお母様はきっとうれしいに違いありません。自分の娘がこんなに立派で優しい人に成長している。それな何にも代え難い幸せだと思うのです。詩さん、あなたは本当に素晴らしい方ですから」
「ちょっと…そんなことを言われると……。母を思うとまだ…何だか悲しくて…寂しくて……」
「思い出させてしまってすみません。大丈夫ですか?」
「大丈夫です……。それよりも、いつかこの気持ちが和らいで泣かなくなる日が来るのでしょうか……」
「焦ることはないと思います。ぼくだって今でもまだ母のことを思いますから。そういうお気持ちはだから、無理して消そうとはせず、そっとしておくのが良いのではないでしょうか」
「はい……」
「詩さんのお母様はきっとそこにいます」
「……」
「あなたがこんなに素敵な人で、今ここにいる、そのことを喜んでいる。そのはずですから」
「先生……。そんなふうに言ってくださって…お優しいですよね。でも、それは先生の方こそ……。先生のお母様は、先生が時代も国も越えて多くの人から愛されていることを知ったらきっと喜びます」
「ぼくがそこまでの音楽家だったら、ですね」
「先生はそこまでの音楽家ですよ」
「でもね、詩さん」
「はい」
「母は、ぼくが出来の悪い自称音楽家だった子どもの頃のぼくのことだって、何もなくたって褒めて愛してくれていました」
「ああ……。母親って、そういうものですよね」
「確信を持っています。母はぼくに音楽がなくたって、父の言う通りの進路に進まなくたって、ぼくがどんなものだったとしても愛してくれていたのだろう、と。自分が何だって、どんな存在でいたって愛してくれる人がいるというのは大変心強く支えになるものです」
「そうですよね」
「だからぼくは今日までやってこられたし、だからこそ、母が亡くなった時には絶望に打ちひしがれたのです」
「そう、ですか……。私もきっと…同じような気持ちなのかもしれません……」
「でも、母がぼくを愛したことは変えようのない事実です。詩さん、あなたも同じではないですか?」
「はい……。そうだと思います。あの、先生……」
「はい」
「母親の愛って、海よりも深くて広いものですよね」
「そうでしょうね。海……。詩さんは海を見たことがありますか?」
「ええ、それはもちろん。だって海なんか、すぐ近くにありますよ」
「海がすぐ近くにあるのですか?」
「先生は、海を見たことは?」
「ないですね。噂には聞いたことがありますが」
「ないのですか……。ええと、それなら…行きませんか? 先生の体調が良い時に。海、ぜひ見に行きましょうよ。夏の海ってすごくいいんですよ。夏が終わる前にぜひ。きっと、ご経験がないのであれば一度ご覧になった方がいいと思います」
それで。良くなったり悪くなったりを繰り返す先生の体調が心配だったけれど、海を見ていただきたい。そんなの私のわがままなのかもしれないけれど……。ぜひ一緒に、ほんの一瞬でも海を。そう思ってどうにか行けそうな日のタイミングを見計らって、先生の調子が良さそうな日。どうにか強行することに。
夏から秋へと変化の途中の日々。もう秋なのかな、と思ったら夏が盛り返してきたらしくこの日に限ってなぜか猛暑。朝からうだる程に暑い。異常な暑さが体にこたえそう……。
暑すぎて、危険な暑さなので体調が不安定な先生のお身体に良くないかな、と心配だったけれど、行くなら今しかない。待っているだけではいつまで経っても行かれない。ほんの一瞬だけでもいい、先生に海を見せたいから。だから今日、行かなくちゃ。どうしても。
先生の体調を気にしつつ暑さ対策になるような物を少し準備して…それでもこの暑さには到底勝ち目がなさそうで心許なく心配だけど……。とにかくひと目だけでも海を……。
なるべく負担にならないように、と思って自宅にタクシーを呼ぶ。家のドアを開けるともうタクシーは待機していて家の前にいる。
「先生、今日はこの乗り物に乗ります。運転手付きですよ」
「ほう。あの、詩さん」
「はい」
「ずっと、街を行くこの乗り物を見てきましたが、ぼくはこれに初めて乗ります」
「そうですよね。あ、もし途中でご気分が悪くなるようなことがあれば仰ってくださいね」
「はい。今は大丈夫です」
タクシーに乗り込んで、内部をものめずらしそうに見回す先生。この世界で車に乗ったことがない人なんて、そちらの方が私はめずらしくてつい先生の様子をうかがってしまう。
今日はどうにか体調も大丈夫…かな……。せめてとにかく、先生の目に海をお見せできれば。
進み行く街の景色を子どものようなまっすぐな瞳で見ている先生。
「先生、海まで二十分くらいで着きますからね」
「この世界ではこれが馬の代わりなんですよね」
「私はこの世界しか知らないので…逆に馬ってすごいですよね」
「そうですか? 馬の動力は目に見えるので何の不思議もありませんが、この機械がどうして我々を乗せて進んでいるのかぼくにはよく分かりません。この乗り物がどうして動いているのか…どうやって考えれば良いのでしょうか」
「ガソリンとかガスとか、車のエネルギーには電気もありますね……。それが…どうやって車を動かしているのか……。そういえば私も車の機械的なことは全然分かりません。確かに……なぜ車が動くのか、どうしてこの箱が進んでいくのか…不思議ですよね」
「はい。とても不思議です。馬は生き物ですが、これは機械なんですよね」
「ええ、まあ…そうですね。先生も運転してみたいですか?」
「いや、ぼくは…いいです……」
「私も免許は持っているので運転できるんですよ」
「え、詩さんもこれを扱えるのですか?」
「はい。馬よりずっと簡単かと……」
「こちらの世界には馬はいないのですか?」
「馬はいますよ。でも私達の移動の基本は車なので、馬は競馬とかそれ用の場所での乗馬とか、そのくらいですかね。街中にはいないですね」
「それなら安心ですね」
「何が安心なんですか?」
「馬が暴走して事故になることがないですからね。馬は制御が利かなくなると本当に大変です」
「あ、しかしそれは…実はこの世界では車が暴走して事故になることがありますよ」
「え、機械が暴れるのですか?」
「いえ、機械を動かすのは人ですが、その人間が操作を間違えて大変なことになったり」
「この世界にもそういう事故があるんですね……」
「逆に先生の世界でもそういう…交通事故って言うんですかね……。そういうことがあるんですね」
「馬の暴走とか、馬車に轢かれる、とか、そういうことはありますね」
「そうなんですね……」
「近所の子どもが馬車に轢かれて亡くなりました。大変痛ましく…大人は子どもに道端で遊ばないよう、気を付けるように言いつけるのですが……」
「そういうのはつらいですよね……」
何とも不思議な会話のうちにタクシーは海に到着。車を降りて浜辺へ進み行く。向こうに広がる水平線。近くに住んでいるのに私も海を見るのは久しぶり。
「先生、見てください。見えますか? あれが海です」
「ああ……。これは……。すごいですね……」
先生は向こうに広がる海を見て一度眼鏡を外す。目を擦ってもう一度眼鏡をかけて、もう一度向こうを見る。
タクシーを降りた瞬間から日差しが私達を灼熱に陥れるから、私は汗ばみながら先生のことが心配になって海よりも先生のことばかりを見ている。潮の香りに包まれながら、とにかく暑いな、と……
「詩さん…これが…海なのですね?」
「はい。これが海です。先生、もう少し向こうへ行きましょう」
海の向こうまで青い空。暑すぎるけれど晴れていて良かった。水平線に入道雲。海日和。
先生の腕を引っ張って浜辺へ。砂浜は歩きづらい。
「詩さん、待って……。ここは、何ですか。歩けませんね……」
「ゆっくり行きましょう。砂って歩きづらいですよね」
「普通に進めないですね」
私達は進めない歩みになぜか楽しくなって気が付いたら手を繋いで歩いていた。私はなぜか楽しくて笑っていて、先生を見たら先生も笑っていて……
どうして笑っていたのか、何が楽しかったのかはよく分からないけれど、私はただひたすら幸せだった。先生と青空の下、潮風に吹かれて目の前に海が広がっていて、ただそれだけで幸せで。
とにかく暑い。先生に初めて出会ったあの日のことを思い出す。
先生の体調は平気かな、と常に頭の片隅に不安を抱えつつ少し歩いて堤防へ。
「先生、そこに掛けて少し休憩しません?」
「はい」
「海、ご覧になっていかがですか?」
「広いですね。何とも、上手く表現する言葉が思い浮かびません」
「あの、先生のご認識だと、地球は丸い…ですか?」
「え、何ですか?」
「先生のイメージされる地球って、丸いですか? それとも……」
「それ以外の考え方はもっと昔のことですね。この世界ではどういう認識なのですか?」
「同じです。私達も地球は丸いと思っています」
「もっと昔だと地球は平面だと考える人もいたようですね」
「そうですね。そこは私達、同じ認識なんですね」
先生は微笑んで私の頬を撫でた。
「ぼくはこの世界のことも、自分が元いた世界のことも全然分かりません。自分の人生のことさえ分からないんですよ」
「私も同じです……」
「あなたの世界とぼくの世界はあまりにも違う」
「そうですね……」
「しかし、ぼくがいた世界にもおそらくこういう海はあったのだと思います。ただぼくはそれを見たことがなかった。自分がいた世界のことだってぼくは何も知らないのです」
「私も…自分が今いるこの世界のことをよく知らずにいます……」
「でも詩さん。ここにはあなたがいる。それは事実だ」
「はい……。私は…ここにいます……」
「ぼくはもう、それで十分です」
「あの、私も…そうです……」
「あなたとぼくが出会ったことは、事実ですよね」
「そうだと思います。私は今、先生とここに一緒にいますから」
「詩さん、いろいろありがとう。ぼくはあなたがいなかったらどうなっていたことか」
「私も同じです。先生がいてくださるから私は…母との死別の悲しみにもどうにか……」
「あなたが悲しんでいることについてはぼくも心を痛めています」
先生は私の顔を見て気の毒そうな顔を見せる。眼鏡の奥の優しく誠実な瞳はやっぱり本物。先生の瞳にはいつも光があって、この人は本当に優しくて良い人で……。もし先生が私を愛してくださったらもっと……。いや、そんなことを望んだらだめ……。でも先生、もし先生が……
「詩さん」
「はい」
「ぼくが元いた世界とあなたのいるこの世界は全く別物です。でも、やっぱり一つの世界なのだと思うこともよくあります」
「例えばどんな…?」
「ぼくのいた世界にも見上げればいつも空がありました。ぼくを照らしている太陽はきっと、あの世界でぼくを照らしていた太陽と同じでしょう。夜空を照らす月だって、きっとぼくが見てきた月と同じものなのでしょう。星も風も、きっとぼくが感じてきたものと同じなんです。空を見上げるたびに、やはりこの世界は繋がっていて、ぼくが元いた世界とここはやはり、同じ世界なのかもしれない、と思うのです」
「変わらないものはまだありますよ」
「何ですか?」
「先生の音楽です。その時代に作った先生の音楽はこの世界でも広く、多くの人から愛されていますから」
「そうでしょうか。もしもそうなら…不思議です。本当なのかな……」
「本当ですよ」
「それなら、ぼくは本当にうれしいです。もう人生が終わるとしても、それさえ構わないほどに」
「そんなことはおっしゃらないでください……。あの、先生……」
「はい」
「大好きです」
「ああ、ありがとう。あなたがぼくの音楽を気に入ってくれて本当にうれしいです」
「あ、いえ…その、私が好きなのは……」
先生は海の向こうを見て眩しそう。この人の頭の中はどうなっているのだろう。音楽以外に、ほんの少しだけでも、私がそこに入ることができる余地は……
「それにしても海は不思議ですね。どんなに大きいのだろう。どこまで続いているでしょうね」
「本当ですよね」
「この水の中には魚がたくさんいますか?」
「いると思います」
「詩さん」
「はい」
「きれいですよね」
「え?」
「海。空も。こんなに広い」
「あ、そうですよね……」
「あんなに遠くまで続いている。向こうはどうなっていて何があるのだろう。幸せだなあ。ぼくは今、とても幸せですよ」
「先生がお幸せなら、よかったです」
「詩さんはどうですか? お母様を亡くされたばかりだから、きっとそんなことは考えられないとは思いますが」
「でも、幸せですよ。ここにいるから。ここにいて、先生もいらして一緒に海を見ている。私はもうそれで十分です」
先生は私を見て微笑んでから目線を水平線へ。満足そうな表情で言う。
「この景色は本当に素晴らしい。こんな世界があったなんて。ぼくは今度、この海についての音楽を作ろうかと思います」
「ああ、素晴らしいですね」
「詩さん。海にまつわる文学作品をご存知ですか?」
「海にまつわる文学作品……」
「ぼくは海のことをもっと知りたいです」
「探してみましょうか」
私がスマホを取り出そうとしたらその手を掴まれ止められた。
「詩さん」
「はい」
「今日はその板を見なくても良いです。こんなに広くて青い海を目の前にしているのに、澄んだ空の下でそんな小さな板を見なくても」
「ああ、言われてみれば確かにそうですね。では、それはあとで」
「詩さん」
「はい」
「ぼくはこの世界も悪くないと思っています」
「そう思われる理由がありますか?」
「ぼくが元いた世界には煩いごとがたくさんありました」
「どこの世界だって、きっとそうですよね」
「ぼくはそういうことが苦手で」
「それは先生のお心が澄んでいるから、ですよね」
「詩さんはそういうことがありませんか? 悩む日が全くない、というわけではないのでは?」
「私も先生と同じです。私もこの世の煩いごとは苦手です」
「ぼくはただ、音楽のそばにいたい」
「先生はそうするよう選ばれたお方なのだと思います。先生にしか作れない音楽がありますから。とても美しくて一人一人の心に響く音楽」
「よく思うことがあります」
「何ですか?」
「いつまでできるのか、と」
「いつまでだって。できる限りお手伝いします」
「あなたは素晴らしい方ですね。美しくて優しい。それに、立派にご自分の人生を生きて、仕事をしている。ぼくはあなたのことを尊敬しています」
「いえ、私なんかいつも…ずっと悩んでいますし、上手くいかないことばかりです。先生のような秀でた才能も何もなくて」
「あなたは素晴らしいですよ」
「ありがとうございます……」
「きっと、同じなのだと思います。人間の煩いごとなど……。どんな時代でも、どんな世界でも。あなたのいるこの世界とぼくがいた元の世界。そんな中でぼくはあなたに出会えた幸運に心から感謝しています。あなたの心は誰よりも、どんなものよりも澄みきっていてきれいです。時も場所も超えている。ぼくはこの世界には到底場違いの人間です。しかし、あなたのそういう心の美しさをここで受け取っています。詩さんの素晴らしさにあやかってぼくもいつまでもより多くの、より良い音楽を作り続けたいと思っているのですが……」
「私など……。でも私も…先生が違うところからいらして、今ここでこうして隣にいさせていただいていることをありがたく思っています。それで、ぜひ先生にはずっと作曲をしていただきたくて……。あの…ぜひ、そうしてください。先生はそうするべきです。私はそう思うので……」
「そうですね。ありがとう。しかし…ぼくは前から健康に不安を抱えていて…そういった健康上の悩みがなかったあの頃にはもう戻れない気がしています。もし…ぼくの人生にもう終わりが迫っているのだとしたら。元々いた世界でいつもそんなことを考えていました。そしてそれはいつだって誰にも理解されないことでした。その悩みが頭から消え去ったことがほんの一瞬だってなかった。いつも体の中に不安なことがあって、それがぼくの心を暗い世界に引き摺り込むのです……」
「あの、先生……」
「それがこの世界に突然やって来て、混乱してそんなことを一瞬忘れました。その一番の理由はあなたがいたから、だと思います」
「……」
「元の世界にもぼくを助けてくれる素晴らしい友人がいました。ぼくは彼らにいつも感謝していて、彼らはぼくの音楽を評価してくれて、ぼくの音楽を喜んでくれた。彼らは本当に大切な友人です。彼らのためならぼくは何でもしたでしょう。そして、この世界にはあなたがいた。今やあなたはぼくの命です。あなたには本当に感謝しています。どう表して良いのか分からないほどです」
「いえ……。私なんか……。先生の元の世界でのそういうお仲間がいるのは素晴らしいことです。先生がそういうご友人をお持ちなのは先生のお人柄によるところがあるからだと思います。私も先生の音楽をもっと理解できたら良かったのですが、私は…素人なので……」
「ぼくは自分の音楽を専門家向けに作っているわけではありません。あなたがぼくの音楽を良いと言ってくれた。好きだと言ってくださいましたよね。それで良いんです。ぼくはそういうことで良いんです。ぼくはそういう、あなたのような人のために音楽を作りたいと思っています」
「私は難しいところまでは理解しきれませんけど…理解できなくてすみません……。でも私、先生の音楽は本当に大好きです。先生の音楽は先生そのものですよね。優しくて、純粋で、人の心を動かす、そういう力を持った音楽だと思います」
「詩さん、ありがとう」
「先生、ぜひこれからも、多くの作品を作ってください。それでもし、健康上でご不安なことがあるのなら、この世界の医療に一度頼ってみませんか? 違う世界の違う医療だと新たな道が広がるかも。先生のご不安が多少でも軽くなるかもしれません」
「この世界の病院……。でしたら…まあ、それはいずれ、試してみましょうか……」
「私はぜひ病院に行っていただきたいのです」
先生は私に微笑みかけて何も答えない。歴史上、シューベルトは三十一歳で亡くなることになっている。もしこの世界で健康状態を回復させて長生きできるとしたら? でも、そうなるとして、先生を元の世界に戻さなくてはいけない? どうやって?
元の世界で長生きして、作品を残して……。そしたら、現代に先生の作品がもっと多く残ることになる? そしたら歴史が変わるとか…?
そんなの……。もう私の頭がついていけなくなっている。SF映画の世界になってきてる。これはもう私の脳の許容範囲を超えている。私はとにかく、先生がここにいてくださればそれでいい。なるべく長く。でも、先生は、元の世界に戻る必要があるのかどうか……。
「詩さん」
「はい」
「とても暑いですね」
「本当ですね。お体に障ると良くないので…そろそろ戻りましょうか。先生、海、いかがでしたか?」
「とても大きくて、表現のしようもありません。詩さん、海を見せてくれてありがとう。ぼくは幸せです」
「先生がそう言ってくださって良かったです。海なんか、いつでもまた見られます。また来ましょうよ」
「これをいつでも見られる、というのは…この世界は素晴らしいですね」
「日本は海に囲まれているんです。それで、ここは海に近い地域ですからね」
「海はいいですね。あの、向こうまで続く広大さ。そして寄せては返す波を見ていると悩みを忘れるのと同時に自分の小ささや人生の儚さを思います」
「先生。海の向こうには大きな夢があるんですよ」
「夢、ですか?」
「先生の世界はきっと、あの、ずっと向こうの、もっと先へ行ったところです」
「遠いですね」
「遠いですよね」
「詩さんにもいつか、ぼくのいた世界をお見せしたいものです」
「見たいです。先生の世界はどんなところですか?」
「きれいな森や湖、川があります。海の広さにはかなわないでしょう。だけど、美しい景色はぼくの周りにもあったんです」
「とても興味があります。自然の美しい景色はいいですよね」
「この町を散歩するのも好きです。でも、ぼくがいた地域にも良い場所がありました」
「なるほど。ぜひいつか見せてください」
「喜んで」
「では、暑いので今日はひとまず…行きましょうか」
また歩きづらい砂浜を、先生も私もそれを歩くのが下手だから、二人で手を取り合って進み行く。
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