第14話 夏の終わり
先生の体調と私の精神がシンクロする。先生が体調不良で寝ていると私の気分も暗くなる。先生の体調が良くないのはもしかしてこの世界の食べ物が合わないからなのかも。私はつい、自分が作り慣れている自分の得意な料理ばかりを用意していた。食材も味付けも何もかもこちらに合わせてもらうばかりだったから。先生はそんなことは一言も言っていないけれど、密かにそれもストレスだったかな……。
前に先生は「グラーシュが好き」だとおっしゃっていた。先生のために作ってみようかな。食をお口に合うものに変えてみたら体調も少しは……。グラーシュのレシピは……
「詩さん」
「あ、先生……」
「またスマホを見ているんですね」
「はい…その……。つい……」
「この世界の人達は皆さんいつもそれを見つめている。本当に不思議ですね。ところで、ぼくは今日は体調が良いので今から散歩に行こうと思います。詩さんも一緒に外を歩きませんか?」
「そうなんですか。良かったです。それなら私も。ぜひ行きましょう」
先生はこの近所を散歩するのが好きなようで、一人でふらっと出かけてしまうこともあれば、私に声を掛けてくれることもある。
今日は体調が良い、と聞いてほっとする。顔色もいつもより良さそう。先生のああいう雰囲気、久しぶり。ああ、良かった。本当に。
急いで身支度をして先生に付いていく。
まだまだ明るいけれど、向こうの空から日暮れの気配がほんの少しだけ感じられる。
「先生、体調はいかがですか?」
「今日は幾分かましですね」
「それなら良かったです。でももし、健康の問題でお悩みでしたら病院に行きたいですか? この世界の医者の意見を聞いてみる、とか……」
「ぼくは元の世界でずっと医者に相談していましたよ。医者の知り合いもいて」
「そうなんですか……」
「詩さんは、健康上の悩みはありますか?」
「私は特に……。そういうことを考えることがないくらい…私は元気だけが取り柄で……」
「それは最高の特質ですね。うらやましいです。何をするにもまずは健康的なエネルギーが必要ですから」
「先生は…健康上のお悩みが……」
「とても暗い気持ちになりますね。死はどの人間にとっても共通の苦悩ですが……。ぼくもあなたのような素晴らしい健康的な体を持っていたら良かったと思います」
「あの、病院に行きませんか?」
「医者にも死は治せません。まともな薬ももらえず治療が失敗に終わることもある。これはぼくの経験から言えることですが」
「あの……」
「はい」
「先生は…今ここで、生きていらっしゃいますよね?」
「どうしたんですか、詩さん」
「先生は、この世界の人間ではないのかどうか、と…時々分からなくなって……」
「そんなこと……。ぼくだって知りたいです。気が付いたらあの道端にいた。そしてあなたが現れた。ここは一体どこなのでしょう。それが分からないから、ぼくは今は自分が誰なのかもよく分かりません」
「……」
私は何も言えない。言葉を探してふと見上げれば金色に輝く夕方の太陽。まぶしい……。
「それなのにあなたはぼくにとても親切ですね。ぼくの居所を、あらゆる物事を整えてくれて、優しい心遣いを示してくださっている。ぼくはあなたがいなければここで生きてはいなかったでしょう」
「……」
「ぼくは、ここにいると自分が何であるのか、誰であるのかさえ分からなくなってしまう。しかし変わらないこともあって、自分はどこにいても音楽を作っている。ぼくの人生は音楽なんです。それは変わらない。これしかないんです。たとえこの、不思議なあなたがいるこの世界にいるとしても、どこにいるとしても、です。そしてこの世界にはもう一つ、ささやかな幸せがあります」
「ささやかな幸せって…何ですか…?」
「それはあなたです。あなたはぼくに多くの幸せをくれました。時代や世界が違っても人の優しさは変わらない。ぼくはあなたに大きな親愛の情を持っています。こんなに良くしてもらって、ぼくは感謝を表しきれないし申し訳なく思うほどです。詩さん、ありがとう。あなたは本当に素晴らしい方です。あなたほどすてきな女性にぼくは出会ったことがない。あなたがこの世界にいるというのは、何よりも美しいことです」
日が落ち始めている。夕暮れに鳴くセミの声がやけに耳について、夏だな、と思ったその後。夕方だから、かな。涼しい風が吹いてきて私達の間を通り過ぎる。その一瞬で何となく季節の移ろいを感じる。夏が去ろうとしているのかも。
「先生……」
「はい、詩さん」
「先生の交響曲は…どうして未完成なんですか?」
「どうしてだと思いますか?」
「私には全然わかりません……」
「特に深い理由はないんです。ぼくはもう、次の曲を書かないといけなくなったから」
「そうなんですか……」
空の向こうを見つめる先生。まぶしそうに目を細めている。遠くの空が、向こうの夕焼け空が美しい。
「詩さんもそういうことがありませんか? どんな物事でも構いませんが、まだ途中だったのかもしれないけれど、まあ、いいか、と思ってそのままにして他の、次のことをし始めてしまうとそちらに気を取られて途中にしていた物事にもう戻れなくなってしまう。そんな経験がないでしょうか」
「ああ、ええ、ありますね。私なんかそんなのいつものことで……」
「ぼくもあの時はそんな感じだったので、だからあの交響曲は、四楽章まで書けなかったのです」
「そうなんですね」
「その先の楽章の途中まで書いたんですよ。スケルツォを。でも、気が付いたらもう他の曲に集中していて、気が付いたらもう戻ることはなくなっていた」
「そういう感覚は分かる気がします。先生ほどの作曲家でもそういうものなのですか?」
「ぼくの頭の中にある曲を書けるのはぼく一人で、その音楽を記録するのにはどうしたって手と時間が足りません。頭の中の音楽を何かしらの方法で瞬時に記録できたらいいのですが、そうもいきませんからね。ぼくはあの曲に取り組んでいる途中で他の曲を思いついてそれを書き留め始めたらそれが止まらなくなって、集中力の比重はその曲に移っていった」
「そうなんですね。お弟子さんなんかはいなかったのですか?」
「ぼくは弟子を取るほどの音楽家ではありません。誰かに教えるとか、そういうことではなく、自分の作曲をしたかったので。そうは言っても、弟子と言うのかどうなのか…まあ、一人くらいは…いましたけどね」
「そうなんですね」
少しずつ暗くなる道を、私達はどこに向かって歩いているのだろう……。ゆっくり、二人並んでまっすぐ進んでいる。
「しかし弟子がいたとしても基本的に楽譜を書くのはぼく自身です。ぼくの頭の中の音楽を取り出せるのはぼく以外にはいないので。それで、あの交響曲は途中のままで気が付いたらもう他の曲を書いていて」
「なるほど」
「ぼくはこの前、自分の曲がこのような、ぼくの全く知らない世界でも演奏されていることを知って大変光栄だと思いました。しかもここはぼくから見ると未来なんですよね」
「そういうことになるのだと思います」
「あんなに大層な演奏会があるのなら、四楽章まできちんと書いて完成させればよかった。未完成だなんて何だか不名誉ですよね。途中までの交響曲をああして演奏してもらえることを、あんなに大きな舞台を…ぼくはあの作品を書いている時、想像していなかったのかもしれません。なんて、そんなことを演奏会の最中に思っていました」
「そうだったのですね。でも、その作品が途中なのに、それでもこの時代、この地でも演奏されましたね。あの会場だけではありません。本当に世界中で先生の多くの作品が演奏されています。他の曲もたくさん。テレビにも映画にも登場しますし、先生、あの日の会場の拍手を憶えていますか? きっとあの日の聴衆は指揮者や演奏者に拍手を送っていたのでしょうが、その先に先生がいらっしゃいます。あの素敵な音楽の源は先生で、その音に皆心が動いたのだと思います。だからあの時の拍手は何よりも誰よりも先生に向けられたものです。時代も場所も超えて人の心に直接触れることができる、そんなお仕事は他にはありません。先生、いかがですか? ご自分のお仕事の成果をご覧になったご感想は」
「この世界は訳が分からないことばかりですが、ここに来て良かったです。あの日あの演奏会を訪れたのは本当に光栄なことでした。ぼくの音楽を愛してくれる方に改めて感謝を伝えたいです。あの交響曲は未完成ですけどね」
「私はもうあれで十分素敵だと思ったのですが…交響曲が第四楽章までないといけないなんて決まりがあるのですか?」
「まあ、それは一応決まりでしょうね。常識と言うか。交響曲なら普通は第四楽章まで書かないと。基本はそういうものです。それが欠けているのだから作品としては何もできていないも同然です」
「そういうものなんですか?」
「そういうものなんですよ」
「難しいんですね、音楽って」
「そうやって難しく考えると楽しくないですよね。ぼくなんかだから、ルールを破っている」
「ルールなんて破るものですよ」
「詩さん。何だかベートーヴェンみたいな発言ですね」
「え、そうですか?」
「ぼくには何だかそう感じられました」
先生が笑う。そうすると、私はうれしい。先生の笑顔は私にその百倍の喜びを起こす。
「先生はベートーヴェンがお好きなんですよね?」
「好きです。好きと言うか、ずっと尊敬しています」
「そうなんですね」
「つい最近です。ベートーヴェンが亡くなったのは。あ、ぼくの世界では、の話ですけどね。偶然知人の伝手があったのでぼくは彼の晩年、病床の彼を一度見舞に行きました」
「え、そうなんですか? 先生はベートーヴェンと接触したことがある……」
「ええ。ぼくは彼をずっと尊敬していたんです。子どもの頃からね。最後に会えて良かったのかもしれませんが、まだまだもっと彼の音楽を聴きたいですね。あんな音楽が書けるって、やっぱりすごいことですよ」
「そうなんですか……。いや、そう…ですよね……。私には…よく分からないかもしれませんが……」
「だからね、あの時、演奏会でぼくの曲とベートーヴェンの曲が並んで演奏されていたのがとてもうれしくて」
「先生だってすごいんですから」
「ベートーヴェンは大人気です。有名だし皆知っている。あ、ぼくがいた世界では、の話ですが。しかし、ここでもあなたは彼のことをよく知っているんですよね。それならやっぱり、ベートーヴェンは偉大です。そしてあんなに大きな波を起こしているのです。その大きな波が、ここがどれだけの未来なのかぼくにはよく分かりませんが、これだけ変化した世界に於いてもそれが続いている」
「それは先生だって同じことですよね。先生の作品が今も私達を感動させていますよ」
「だけどぼくはあのような、ベートーヴェンが成し得たような成功を掴んだ感触がいまだに一切ありません。あの演奏会での拍手の盛大さもぼくの作品はベートーヴェンよりも下でしたから」
「そんなことないですよ、先生の曲だってすごく大きく温かい拍手をもらっていたじゃないですか」
「ベートーヴェンの才能と成功にはどうしたって敵いません」
「いいえ、先生。作曲家シューベルトだって成功者です」
「ぼくは自分の人生がそんなふうに成功したと実感したことがほとんどないのです。そのことにいつも絶望します。自分の音楽で身を立てることもできない。だけど結局ぼくは曲を作るしかなくて」
「先生の作品はずっと残ります。ここは先生から見たら遙か先の未来です。そんな世界で今も、きっとこの先ももちろん、先生の音楽は愛されます。多くの人がいいと思ってそれが長い時間を経ても受け継がれているんですよ。だから私も…先生からご覧になったら私も未来の人間でしょうが、私のような者でさえ先生とその音楽を知っているんです。だから先生は音楽家として大成功しているんです。本当に」
「そうだとしたら、うれしいことですね」
穏やかな微笑みを浮かべる先生は遠くを眺めて大きく息を吐く。
「詩さん」
「はい」
「もし…もしもぼくがいなくなったとして……」
「何ですか、そのお話……」
「一応、のこととして言わせてください。ぼくの言葉と思いはぼくの音楽に込められています。だからどうか、この先もぼくの音楽を……」
「先生……。いなくなるだなんて、不安になります。そんなことをおっしゃらないでください」
「そうですね……。ぼくはあなたを不安にさせるつもりなど……。ぼくはただ…あなたにはいつも平穏の中にいてほしいと思っています。あなたの悲しみをぼくは引き受けるつもりです。そしていつもあなたの幸せを願っています。でもね、詩さん。ぼくは突然ここにやって来ました。そして最近は体調も不安定なのです。いつ何があるのか分かりません」
そんな胸が苦しくなるようなことを穏やかに言われても……。
その言葉にどんな返事を返せばいいのか分からなくて暗く美しく変化していく空を見上げたら景色が歪む。
先生が私のそんな表情を視界に含めたことに気が付いて、でも、どうしたらいいのか、何と言えば良いのか分からなくて……。もう、空なんか見上げていられない。
私は黙ったまま視線を下に落とすことしかできなくて……
「などと言って、詩さん。不安にさせてしまったのならすみません。ぼくはあなたがいないとここでは生きられません。ご迷惑をお掛けしたくはありませんが、どうか、まだあともう少し、ぼくをあなたのところに置いていただけますか?」
「もちろんです。ずっといてください」
「でも、先のことなんか、誰にも分かりませんよね」
「はい……。それは、そうですけど……」
「あなたにご迷惑をお掛けするわけにはいかない」
「迷惑なんて一つもありません。私は先生にいていただかないと」
「詩さん。ぼくの思いと言葉はぼくの音楽の中にあります。それだけはどうか、覚えておいてください」
「分かりました。あの、先生……」
「はい、詩さん」
何だか、先生が消えていなくなってしまうような不安に駆られて…先生を見つめる。優しい先生がいなくなってしまったら私は……
「先生……」
「どうされました?」
「お手を拝借しても……」
「手をつなぎますか?」
先生に手を取られる。つないだ手からは確かに温もりを感じる。暑いから。お互いに汗ばんで湿った手の平の感触。どうしたってこれは現実で、私はどうにもならないほどに先生のことが好きで、募るその思いを抑えたり誤魔化したりすることなんか、もうできない。先生の、ピアノが達者な厚みのある温かい手を感じる。
こんなのもう、耐えられないのに……。
先生、私のことを、好きになってくださいませんか。
いつも思っていることをつい、口に出しそうになる。
愛しているとお伝えしても…良いでしょうか……。
私は先生のことが大好きなんです。なんなら私が先生の時代に行って結婚とか……
「詩さん」
「はい」
「ぼくに良くしてくださって本当にありがとうございます」
「いえ、私なんか…大したことが何もできず……」
「ここに来て、ぼくは自分がまるで皇帝になったような気分を味わいました」
「皇帝、ですか?」
「毎晩温かい食事が提供されて、いい香りのする浴室が整えられる。寝床も快適だしピアノもある。どこもかしこも清潔な居住が提供され、あなたはぼくを尊敬の念をもって扱ってくださる。詩さん、もうお疲れではないですか?」
「いえ、全然。疲れなんて……」
だって、私は先生のことが好きだから。先生のためなら私は何でもできるのです。もっといろいろなことをさせてください。この先もどうか……
「ぼくはあなたのことを本当に尊敬します。あなたは素晴らしい女性です」
「いえ、全然そんなことは……」
「ぼくはあなたの悲しみを癒したいと思っているし、ぼくはもし、自分の世界にあなたがいたら、きっとあなたと人生を共にしたいと思ったのだと思います。あなたのためならぼくはもしかしたら音楽よりも……」
「先生……。これからも…どうか、ここで…ずっと……」
夏の終わりを告げるセミの声が聞こえて日が暮れていく。辺りはもう暗い。
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