第13話 体調不良
それ以来、先生は体調不良を繰り返すようになってしまった。頭痛とめまい。消化器も不調だから食事はいらない、とか。
連日の異常な暑さのせいなのか、それともほとんど引きこもって楽譜を書き続ける生活が良くないのか。そうではなく、異国の未来に放り出されたことによる不適応が体の症状として出ている? または、この世界の水や食べ物が合わない、とか?
原因もよく分からないし、私は先生のことが心配だったから病院へ行った方が、と思ってから気が付く。先生、健康保険に入っているのかな……。入っているわけがない、よね…? だってそもそも……。
先生が話していることが事実だとしたら、先生は過去の異国の街からここにやって来た。当然ここに戸籍なんかなくて、だから当然健康保険証も身分証も持ってはいないのだろうし…だけど現在、ここに確かに存在していてその体の調子が良くないのだとしたら……。
病院に……。だけど無保険……。
この私達の状況でそんな現実的なこと……。
病院に行くとして、病院にはそれをどうやって説明すれば?
過去の人です、と言う? この人はタイムトラベルをしているところなのでこの時代には戸籍がなくて健康保険にも入っていません。なんて…そんなことを言ったら私が何かを疑われるに違いない……。
ただの旅行者という設定に…するとしたってパスポートもないだろうし旅行保険だって時代が違うのだから掛けようがない。
考えないようにしていたことだけど、現実的なことを考えるべき時? ずっとこういう、考えたくない、気が付きたくないことからは目を逸らしていたのだけれど……
スマホで「シューベルト」を検索してみる。
三十一歳で亡くなった、と書いてある。三十一歳? 若い……。そして…先生はこの前、ご自身のご年齢を三十一歳だと言っていた……。
ここにいる先生は…何? 幻…?
だけどそもそも、私が見ていたのは…はじめからそういうものだったのかも……。だってシューベルトがここにいるなんて、そんなことあるわけがない。
そして一番初めに出会った時の違和感に舞い戻る。シューベルトがここにいるわけないんだから。
でも…そんなはずはない。先生が幻であるはずなんかない。
だって、抱き締められた時の身体の感じ。あの温もりが、ぎゅっと圧をかけられた時のあの感じが現実でないはずはないのだから。
先生が私に言ってくれた優しい言葉。いつも浮かべている穏やかな微笑み。この時代の景色を見て、食べ物を見て、電気や見たことがなかったものを体験して静かに驚いていた先生のあの姿が、幻であるはずなんかない。
だって私は実際それらに自分の悲しみ和らげられて今ここにいる。
不安な私の予感を知っているのかどうなのか、先生の体調は日毎に変化する。良かったり悪かったり。
調子が良ければ作曲をしている。食事も一緒に食べられるしお酒を飲んだりもしている。一方、調子が悪い日はずっとベッドにいる。
日中私は仕事なのでいつもひたすら心配しながら、だけど同棲している人の体調が悪いから休む、なんて職場には言えないのではらはらしたまま一日を過ごして急いで帰って先生の様子を確認する。
だけど、結局何もしてあげられない。具合が悪い人の手助けをほんの少しできるとしても、私はただそれをするだけ。体調を良くしてあげることはできなくて、横になっているだけの先生をだた見ているだけ。
どうしたら元気になるのだろう……。悪い病気だったらやっぱり病院に行っていただいた方が……。
ただ悩むことしかできない。でも悩んでいても……。何かしなくちゃ。やっぱり医者へ……。だけど健康保険はどうしよう。結局いつもそこで堂々巡り。
だけどもうどうせそんなもの……。もう、医療費なんか自費でいいよね。お母さんが掛けてくれていたわずかばかりの、ほんの数百万円だけど保険金が入る予定だから。それがあれば先生に何かしらの異常が見つかって治療をする必要があったとしても、それを自費で受けるとしたって…どうにかできるのでは。
どうにもならないとしても…先生のためなら何だって。私が何とかする。だってあんなふうに具合の悪そうな姿を黙って見続けているだけなんて私はそのことの方が耐えられないし、先生の体調不良が悪化して万が一何かがあったら困るから……。
とにかくそれが不安で……。
仕事を終えて帰宅。先生のいる部屋のドアをノックする。今日の体調はいかがかな……。寝ているのかどうか……。
「先生、お加減いかがですか。入ってもいいですか?」
「詩さんですか。どうぞ」
「失礼します。仕事を終えて帰ってきました。今日のお身体の具合はいかがですか」
「何とも……。めまいがして起き上がれなくて…すみません、今日は一日中気分が良くなくて寝ていました」
「そうですか……」
「でも、曲の構想が頭の中にはあるんです」
「ああ、なるほど。そうなんですね。でもどうか、ご無理なさらず」
「はい。ありがとう」
「熱はどうですか?」
先生の額に手をやって、私はこの人のことが愛おしくて仕方がないのに、この状況……。これからどうしよう、と思う。
「詩さん」
「はい」
「親切にしてくれてありがとう」
「いえ、本当は一日中看病して差し上げたいのですが、留守にしてしまってすみません」
「いいえ。詩さんにお仕事があるのは承知しています。ぼくはこうして寝床を用意していただいているだけで本当に感謝しているのです。詩さんも…もっとご自分のために休んだ方がいいですよ」
「はい……。私は全然……。大丈夫です……」
先生は体調不良なのに私にいつも通りの笑顔を見せようとしてくださる。
「ええと…先生、何か召しあがりますか?」
「ぼくは今日は何も食べられません。食事は大丈夫です」
「そうですか? でも、何か少しは召し上がったほうがいいかも……」
「ありがとう。今は大丈夫です。また、明日に……」
「分かりました。お水をお持ちしますね。水分は摂ったほうがいいと思います。他の飲み物がいいですか?」
「何だって構いません。ありがとうございます」
「先生」
「はい」
「ここで私、少し先生にお話しをしたらお体に障りますか? お話ししても良いでしょうか」
「どうぞ。大丈夫です。何かお話しされたいことがありますか?」
「私は先生のことが心配なんです。だから…病院に行ってみませんか? お金のことは心配いりません。私がどうにかしますから」
「いえ、病院はいいです。大丈夫ですから。明日になったら調子が戻るかもしれない」
「でも……」
「詩さん」
「はい」
「ぼくは、出て行った方が良いでしょう。ぼくはあなたに多大なご迷惑をお掛けしているから」
「いいえ、そんなことをおっしゃらないでください。そのお身体ではどこにも行けませんよね? それに…とにかくここにいてください。私は先生にここにいていただきたいのです」
先生は私を見てどこかなぜか諦めたような表情。体調が良くなくて気持ちが落ち込んでいるような。
「あなたには本当に感謝しています。あなたはぼくの天使です」
「いえ。先生……。あの…私の母はある日突然、何となく体調が悪い、と言って仕事を休んだんです。それで、それが全然回復しなくて…病院に行った時にはもう手遅れで…そのまま入院しました……。それで……。その…もう、家に帰って来られなかったんです……」
「ああ、それは何とも……。大変お気の毒なことです」
「具合が悪くなってからほんの数日の出来事でした。だから…私はまだそのことが信じられないんです。そんなふうに突然人が死んでしまうことがあるなんて……。だから…怖いんです……。だから…先生も……」
「ぼくはまだ大丈夫だと思います。いつどうなるのかは分かりませんが……。ご心配をお掛けしてしまって申し訳ないです」
「いえ……。私は…母が亡くなったことがまだ信じられないんです。母がまだどこかにいるような気がしているんです……」
「分かる気がします。どこかにいるような気がする、というその感覚。ぼくも自分の母が亡くなった時はそうでした。ぼくはその時寮にいて母の傍にいなかった。詩さん、まだとてもおつらいのですよね」
「はい……。だから先生も…悪い病気だったら…そんな想像をすると不安になるんです……」
「なるほど。そうですか。そうですね……」
「だから、そうなっては困るので先生どうか、医者に行きましょう」
「医者にはあまり、行きたくないんですよね……」
「だけどお身体が……。先生、大丈夫ですか?」
「ご心配いただきありがとう。ぼくは、大丈夫です」
「何か召しあがってみては?」
「すみません、今日はちょっと、食べられないので……」
「わかりました。無理をするのは…やめましょう……」
横たわる先生を後にドアを閉めて言いようのない不安に襲われる。先生を失うのが怖いし、もし仮に先生のお身体に緊急事態が訪れるとしたら……。もしそんなことになったら私はどうすれば良いのだろう。どうしたら先生を回復させられるのか……。
もしかして…先生にご自身の未完成交響曲を聴いていただいたのが良くなかった? だって先生の調子が悪くなったのはあれ以来だから。
体調を崩してから先生はほとんどベッドにいる。ほぼ寝たままで食事もあまりとらない。このままでは良くない。本当に、どうにかして病院へ。
そう思いながらも私は仕事に行くしかなくて、ただひたすら心配で先生に元気になってほしくて……。
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