第10話 夏祭り

 本当はもっと雰囲気のあるお祭りを見せてあげられたら良かったのかもしれないけれど、地元のお祭で行けそうなもの、となるとタイミング的にもこれしかなくて……。隣の地区の自治会主催の小さな夏祭り。でも一応、雰囲気だけは味わえるかもしれないし……。


 早番勤務を終えて急いで帰宅。

 先生にも浴衣を用意してみた。着付けをお手伝いして完成したそのお姿がなかなか素敵で、私はもうこれだけで楽しくなっていて。先生といられるのなら私は何をしなくたって楽しいのだけど。

「先生、お似合いです。とても素敵に見えます」

「そうですか。ありがとうございます。これはとても面白い衣装ですね」

「面白いですか?」

「ええ。形も着方も興味深いですね。ぼくは慣れていないので…何だか変な感じがしますが……。皆さんはこれで踊ったりするのですか?」

「はい。あ、でも、先生の世界であったようなダンスとは全然違うものだと思いますが。ダンスはお得意ですか?」

「いいえ、全然。ぼくは滅多に踊ったりはしませんでした」

「今日は良ければ踊ってみますか?」

「いえ、ぼくはそういうものは一切……」

「分かりました。大丈夫です。雰囲気だけ楽しみましょう。私も支度をしてきますので、少しお待ちいただけますか?」

 浴衣は保育園の行事で着るので私にとってはそこまで特別ではないけれど、仕事ではない用事で先生と二人、浴衣で夏祭りに行くなんて、うれしくてすごく楽しみで、私は心が弾んでいる。

 浴衣を着て髪を整える。

 いつもこの浴衣を着る時にはセットで着けていた髪飾り。そういえばこれ、随分前にお母さんにもらったものだったんだよね……。って…またこういう気持ち……。

 身近な人が亡くなるって、こういうことなんだよね……。いないことがまだ信じられないのにふとした瞬間にそれを思い知らされる。髪飾りに、使いかけの洗剤に、お母さんが使っていた食器、服、書きかけのメモ。お母さんが買ったのに食べないまま向こうの世界に行ってしまったからそのままになっているお菓子とか。向こうの世界? 何、向こうの世界って……。こことそこは、つながってるんだよね? お母さん……。一旦戻って来てみたら? お母さんだって…私に会いたいでしょ……。戻って来てよ。もう会えないなんて訳がわからなくて、声が聞けないなんて寂しい……。お母さん、お母さん……。

 急に死んでしまうなんて…ひどい……。私を一人にしないでよ……

 安心できる自分の一番の味方、いつも心配してくれるお母さんがもういないなんて。

 お母さんという存在が持っている影響の大きさ。だって人はお母さんがいないと生きられなくて、大人になれなくて……。

 お母さん……。私はまだ大人になっていないかもしれないの。だから…戻ってきてくれないかな……。お願い……。

 なんて言って…私はもう大人なんだよね…? それなのにまだこんな気持ちになるなんて。でも、いつまで経っても、お母さんはお母さん。

 いつも不意に寂しさに襲われる。普段、平気だと思っていても突然沈む。そして泣いてしまう。こんなの……つらい……。そしてもう時間を戻すことができない……。私、ずっとこうなの? お母さんがいなくなる前の世界に戻りたい……。

 お母さんに関係あるものは早く処分すればいいのかな……。でも…たった二人の家族だったし…まだそんなこと……。全然できるはずもなくて……。

 あ…先生、待ってるかな……。早く行かなくちゃ……。

 髪飾りを留めて鏡を見る。これから先生に楽しんでいただくのだから、悲しい顔をしていたら良くない。先生がこのタイミングでこの家にいてくれて本当にありがたいなって思う。だって一人だったら私……

 髪飾りの角度を見ながら鏡に映った自分を見つめると泣き顔の自分の後ろにお母さんがいるような気がした。

 いつまでも悲しんでいなくていいから。楽しんでいらっしゃい。かわいくなった。私のかわいい娘、詩ちゃん。浴衣がよく似合うのね。大丈夫。何も心配いらないんだから。

「うん……。あのね、お母さん……。私、シューベルトと一緒にいるの……」

 なんてつぶやいても、私だって訳が分からないのに、お母さんにそれが理解できるはずはない、か……。

 だけど私、そんな作曲家大先生のことが好きなの……。どうしよう、お母さん……。

 なんて、意味が分からないことをお母さんに言ってもね……


「先生、すみません、お待たせしてしまって」

 先生は私の支度に時間がかかるので飽きたのか、それとも何か思い浮かぶことがあったからなのか、ピアノを弾いていた。

 浴衣でピアノを弾くシューベルト。何だかとってもシュール。

「ああ、詩さん。とてもお綺麗ですね。女性の浴衣というのは、とても美しいんですね」

「そうですか?」

「詩さん。全てがお美しいです。ぼくは今、とても感動しています」

「先生、褒め過ぎです。先生も浴衣、とてもお似合いで素敵に見えますよ」

「しかし女性には敵わないでしょう。その着物の生地と言い、柄と言い、大変上質のものですか? それに、その髪に花を付けているのもいいですね」

「ありがとうございます。では先生、参りましょうか」

 

 二人して浴衣を着て夏祭りの会場へ。下駄の音に風情があるな、なんて思うのは日本人だけ、かな……。先生にも下駄を用意したけれど、こんなものでは歩き続けられない、と早々に言われたので先生はいつもの歩きやすいサンダルに履き替えていただいた。


 暗くなりつつある会場への道。そこまでの通りに吊るされた提灯がほのかに私達を照らしていていい雰囲気。

「詩さん、この道はとてもきれいですね。あの街灯はまた随分とめずらしい形ですね」

「ああ、あれは提灯っていうんですよ。昔は夜道を歩く時に手に持って足元を照らしたりもしたみたいです」

「ぼくの世界にも似たようなものがあります。でもあんなに明るくはない」

「今は電気ですからね。昔は蝋燭とかだったのですかね。その頃はこの国の提灯もあんなに明るくはなかったかもしれません」

「また電気なんですね。電気は本当にすごいものだと思います」

「そうですね。私なんかもう電気が無かったら暮らせません」

「明るいのがいいですね。本当にいいと思います。夜というのは暗いものだと思っていました。ぼくがいた世界ではぼく以外の人間も皆、そういうものだと諦めていたのにここでは夜も電気があるから昼のように明るい。ぼくはいつも、作曲をするにしても暗くなると続けられなくて、ろうそくの明かりで作曲を続けるのですが、そのろうそく代を工面するのもまた大変で」

「ろうそくの明かりだと大変そうですね」

「電気の明かりには驚愕するばかりです」

「そうですよね……。では先生は基本的には明るい時間に作曲をして、夜は暗くなったら眠る、という感じだったのですか?」

「はい。しかしぼくはそれでも夜に作曲をしたかったのでろうそくの明かりを使うこともありました。ただ、ろうそく代を工面するのにも一苦労で…それが買えない時は友人に相談したりしました。よく友人に助けてもらうんです」

「そういうことに理解のあるご友人がいらっしゃったのですか?」

「ぼくは友人に恵まれました。本当に幸せなことです。ぼくには親友がいるんですよ」

「親友。そう言えるご友人がいるというのは本当に素晴らしいですね」

「はい。彼は本当にぼくの力になってくれて、ぼくを励まして気遣って、心配してくれます」

 親友についてうれしそうに語る先生の様子から、本当にお互い信頼し合っている親友なのだということがよく伝わってきてうらやましいな、と思う。先生はそんな親友をとても大切にしていることがよく分かる。その話しぶりからそのご友人からとてもかわいがられていることも伝わる。いい友達。お互いがお互いを信頼し合って支え合い味方でいる。

「ではそのご友人は先生の味方、ということですよね」

「そうなんです。彼らがぼくの人生にいるのは幸いでした。きっと詩さんが暮らすこちらの世界も同じだと思います。この世の中で生きていくというのはとてもつらいものです。苦しくて煩わしくて。人生を置くこの世界は基本的には灰色なのだとぼくは常々思っています。おそらくあなたがいるここも。そんな世界にぼくはいつも悩んでいますが、ぼくにはああいう友人がいるからぼくもどうにかそこにいられるんです。味方。そうですね。自分の味方がいるだけで大変心強く力になるものです。作曲の筆が進まない時、彼らからの手紙を読み返すと実際、それは力になります」

「そうなんですね。先生はそのお友達に支えられているんですね」

「まさにそうです。ぼくは曲を書くこと以上の能力はありません。それを売りに行ったり誰かに媚を売って自分の音楽を披露したりするようなことが苦手なのです。彼らはそういうことが苦手なぼくの手伝いをしてくれることもあります」

 なんか、先生のお話。いろいろすごく分かるような気がする。親友、自分の味方がいれば強くいられる。それはそうだろうな。

 それに、世の中の煩わしさも、やっぱりどこの世界でも同じなんだ。先生ほどの才能があるとしても。そして先生の気質。音楽一筋でやっていきたい先生にとってそういうことが悩みになる、ということは容易に理解できる。

 時には不本意なことを受け入れたり、自分の意志とは違うことをしたり。そんなことは先生のお人柄だとできないんだろうなって。教科書に載るほどの作曲家がそんなことに悩まされていた……。黙っていたって曲を作ってとオファーがきてひたすら作曲をしていたわけではなかったんだ……。

「先生……」

「はい?」

「先生にとっても人生って大変なんですか?」

「大変ですね。ぼくにはいろんな悩みがありました。ぼくはいろんなことが下手だから」

「そうなんですね……。先生ほどのお方でも……」

「ぼくなんかいろんなことが上手くできないんですよ。人生と折り合いをつけること自体が上手くなくて。でも、音楽家としてやっていくにはそういうことができないと生活できません。でもぼくは、そういうことができないんですよね……」

「分かります……」

「ヨーゼフがね、あ、親友の名前はヨーゼフといいます。彼がいろんなことをしてくれたんですよ。仲間を集めて曲を披露する場を作ってくれたり」

「そうなんですね」

「彼が開いてくれる宴、シューベルティアーデと言いますが」

「あ、なんか、内輪の飲み会みたいな?」

「ええと、まあ、そういう感じ、ですかね……。そこにいろんな人が集まってきて、いろんな知り合いができました。ぼくの音楽を気に入ってくれる人も。いい人が多かったですね」

「そうなんですね」

「その宴にいつも救われていました。新曲の発表の場です。彼に会いたいなあ。ヨーゼフ……。ぼくがこんな不思議な世界に来たことを話したら、彼は信じると思いますか?」

「どうでしょうね。先生が見た夢なのでは、なんて言われるのでしょうか」

「詩さん」

「はい」

「この世界ではあなたが支えです。ぼくはあなたがいなかったら、ここでこうして存在してはいられませんから」

「いえ、そんなことは……」

「ぼくは…どうしてこの世界に来たのだろう……」

「どうして…でしょうね……」

 どうしてこの世界に来たのか。それは誰にも分からない。私だってそもそもどうして自分がここにいるのかなんて明確に答えられないし、どうしてお母さんを失って一人で生きていかないといけなくなったのかも分からない。


「あ、何か見えてきましたね」

「露店ですね。食べ物も売っているんですよ。良ければ何か食べてみませんか? それか、金魚すくいでもしてみます?」

「金魚すくい?」

「小さな魚をすくうゲームです」

「それは難しそうですね」

「薄い紙を張ったもので魚をすくうのですが、その道具が壊れやすいんですよ」

「では、丈夫な道具を用意したらいかがですか?」

「ああ…それはごもっとも……。でも、それだと金魚すくいの意味がなくて、ですね……」

 何はともあれ、見て、体験していただく方が話が早いだろう、と思っていくつも並んでいる露店に近付いていくとなかなかの盛況。まずは二人で金魚すくいを試してみることに。

 とは言っても…私もこれがまた……。最強に下手で……。全然お手本を見せられないのだけれど。

「先生、いいですか。この道具は水に濡れると簡単に破れてしまいます。なので、これが破れる前に魚をここに入れる必要があって…とりあえず私が先にやってみますね。見ていてください」

 と言って、何のコツも知らないから私がやってすぐさま失敗。ただの下手…何の模範にもならない。だめな例を見せても仕方がないのにこの程度のことしかできない……。

 向こうに上手な人がいる。ああいうふうにやるんだ……。私はこちらの世界の人間なのにこれに関しては全然だめ。

「先生、すみません。私は全然だめでした……。下手過ぎて…お手本にならなくてごめんなさい。本当は向こうの人みたいに金魚をここに入れていくんです。あの方はものすごく上手いですね。ああいう感じで魚をここに集めてみてください」

「ああ、なるほど。魚の動きを読むのですね。分かりました。では。やってみますね」

 ポイをそっと水槽に浸して金魚を…すくおうとしたらその力加減が強すぎたようで、先生も収穫はなし。

「ああ、先生も…残念でしたね。私達は収穫ゼロです」

「こんなの絶対に無理ですよ。向こうの方は違う道具を使っているのでは? 自分で丈夫な道具を持参されたからあんなに魚を獲得しているのではないのですか」

「まさか。これはただの遊びですし、だけどたまにものすごくうまい人がいるんですよ。何かしらのコツがあるのでしょうね」

「へえ。信じられないですね」

 まあ、どうせこんなものかな、と参加賞の金魚を一匹ずつ小さな袋に入れてもらってここから立ち去る。

「詩さん」

「はい」

「この魚はあとで食べるのですか?」

「え、いえ、まさか。これは食べ物ではありません。水槽に入れて観賞用、ですかね」

「なるほど、そうなのですか」

「せっかく来たので何か食べますか? 気になる食べ物とか、何かありますか?」

「あ、ぼくはあれを見てみてもいいですか?」

「どれですか?」

 先生はかき氷に近付いていく。へえ、かき氷に興味があるんだ。一人ですたすた氷の方へ歩いて行ってしまう先生。

 削り出される氷の粒をじっと見つめてそれから振り返って私を見る。

「詩さん。詩さんはこの食べ物を食べたことがありますか?」

「あ、はい。もちろん。かき氷なら何度も食べたことがあります。先生、召し上がりますか?」

「そうですね。ぼくはあの黄色のものを味わってみたいです」

「あ、レモン味ですね。分かりました。そしたら買いましょう」

 先生がかき氷なんかを食べたがるのは何だか不思議だな、なんて思いながら、先生のリクエストのレモン味と、私はメロン味を選んで購入。

「では先生、これが先生の分です。どうぞ。どこかに座って食べますか」

「はい」

「あ、向こうに座るところがあります。行きましょう」

 浴衣で金魚とかき氷を持って夏の夜の熱風に吹かれている、不思議な時間。先生がここにいる不思議。

 私は密かに楽しくて幸せだな、と思う。先生がいてくださると、どこへ行かなくたって、ただそこにいるだけでうれしいのだけれど、一緒にお祭りに来られて楽しいなって。

 うれしかったり悲しかったり、幸せだったり寂しかったり、私の心は先生とお母さんの間を行ったり来たりして忙しい。


 露店を遠目に見るような場所に腰掛けてかき氷を食べようとしたら先生が言う。

「これ、子どもの頃を思い出して急に懐かしくなったんです」

「え、先生が子どもの頃からこういう、かき氷ってありました?」

「こういうものとは全然違ったんですけど、ぼくの秘密の思い出です」

「秘密の思い出?」

「ぼくは十一歳で王立の寄宿制神学校に入りました。さっきお話した親友ともその学校で出会ったんです」

「へえ、そしたらそのご友人とは随分と長いお付き合いなんですね」

「そうなりますね。あそこで彼と出会えたのは本当に幸運でした」

「そうですか」

「はい。それで、そこは寄宿学校なので当然、生徒は学校のルールに従って共同生活を送ります。寝食も学業も礼拝も音楽のレッスンも」

「はい」

「そして生徒は外出は禁止されているんです。勝手に外には出られません。管理上の問題もいろいろとありますから当然のことなのですが」

「そうなんですね」

「だけどね、ぼくだけ特別だったんですよ」

「特別、と言いますと?」

「ぼくだけ外で特別に音楽のレッスンを受けることが許されたんです。これは規則ばかりのあの学校では本当に異例のことでした。寮生活の中で寄宿舎を出て外出するなんて本来はあり得ないことなんです」

「そうでしょうね。それは私にも分かります」

「ただ、ぼくは他の子どもと比べても多少音楽の素質があったらしいのです。ぼくはだから、それで先生のレッスンを受けるために週に何度か寄宿舎を出て先生の自宅を訪ねるため、外出を許可されました。あの学校のルールがぼくのために曲げられたんです。全く不思議なものです」

「ああ、なるほど。不思議と言うか…さすが、先生はやはり子どもの頃からそういう、音楽的に特別なものを持っていらっしゃったのですね」

「それはどうなのかよく分かりませんが、子どもの頃は同じ年齢の子と比較すると確かにぼくはそういった能力には多少優れていたのかもしれません。少なくとも、他のどの子どもよりもぼくの頭の中は音楽で一杯だった」

「そうなんですか。やっぱり子どもの頃から……」

「一番はじめ、楽器は家族から教わりました。ヴァイオリンとかピアノとか」

「ああ、なるほど」

「ピアノなんか、ぼくは始めて三日で兄を追い越しましたよ」

「三日で!」

「いや、三日は言い過ぎかな」

 思い出話を語りながらくすりと笑っている先生の隣にいられて…私、幸せだな……。何だっていい。何の話だって構わなくて、先生の存在を感じながら、先生の心地良い温かい声を聞いていたい。ずっと、このまま……

「三日は言い過ぎました。でもね、ぼくは末っ子でしたがすぐに家族全員を追い越したんです」

「さすがですね」

「家族でアンサンブルをして遊ぶことがあったのですが、ぼくは家族がそれぞれ間違えた音を出すのが気になって。誰かが間違えるたびにいちいちそれを指摘して、最後には皆にうんざりされる」

「家族アンサンブルで遊ぶなんて、とても素敵なご家族なんですね」

「いえ、ただの庶民の遊びですよ」

「いえ。ちょっと想像するだけでなんて優雅な光景なのだろうって思います」

「父がそういうふうに家族を導いたから、でしょうね。ぼくの家族は皆そうして音楽を楽しんでいました。父も兄も楽器を演奏します。ヴァイオリンにチェロにヴィオラ。ぼくはすぐに、ああ、ほらそこ間違えてるよ、なんていちいち家族に言うものだから」

「かわいらしいですね。それに、指摘するほどの能力があった、というのがすごいです」

「ぼくは生まれつき耳が良かったんです。だから家族で音楽を楽しむときには殊更生意気でしたね」

「すごくいいお話、いいご家族ですね」

「もしもぼくの世界にもスマホやタブレットがあったらきっとぼくらはそんなことはしていなかったと思います。ぼくは子ども時代にあの道具があったらどれだけ勉強できたのか、と思いますよ。あんなに多くの音楽を聴くことができるなんて」

「そうですね。しかし、それが問題だったりも……。それよりご家族で実際に楽器を使ってアンサンブルを楽しむのもすごく魅力的です」

「我々にはそれしかなかったですから」

「想像するととても美しい家族の時間に思えます」

「まあ、楽しかったのでしょうね。ぼくの家には音楽があって、それは良かったかな、とは思います」

「先生は作曲は子どもの頃からされていたのですか?」

「はい。ぼくにとってそれはごく自然なことでした。当時の寮生活でも曲を作っていましたし。他の人が普通に物事を考えるのと同じような感じだと思います。頭の中に言葉があふれていればそれは詩や物語になるでしょう。ぼくの場合は音楽です。子どもの頃からいつも自然に心の中で音楽が生まれていたのです。ぼくの言葉は音楽です。常にあふれ出る音を、きちんと書き留めて形にするようになったのはいくつくらいからだったのかな……。自分でも記憶にないですね」

「先生が初めて作曲された作品というのは?」

「どの作品が、というのはぼくにもよく分かりません。それはきっと物心がつく前から常に生まれていて、書ききれなかったものは消えていく。どの時点のどの作品が初めてのものなのかを明確に指し示すことは難しいですね」

「なるほど、すごいですね。先生はそしたら、自分は職業を作曲家にしよう、と決める前にもうすでに自然にそうなるよう運命と才能に導かれていたのですね」

「ぼくにはこれしかできません。そして、これしかしたくないんです」

「そうするべきですね。先生だったらそうするべきです」

「しかし、それで生きていくというのもまた大変なもので」

「そうですか。そうですよね……」

「ぼくはそれで結局生活が思うようにできていませんから、良くないのでしょうね」

「良くないことなんか……。ええと、その…芸術家って……大変ですよね……」

 先生は私を見て諦めたような、それでもまだ優しい笑みをこぼす。仕方がないことがあるのに、まだ諦めきれない。そんな表情。先生はたまにこういう悩みがあるような、何となく暗い影を落としたような顔をすることがある。悩み、苦悩、憂鬱……。人生に、悩んでいらっしゃる…?

 私はそんな究極の芸術に生きる人の感覚が全然分からないので何も言えずにいる。でも心の中では「先生は歴史に名を残す大作曲家なのだから自信を持ってください」と思うけれど、私なんかに自信を持つように言われたところでどうにもならないし、先生ほどの方にしてみたらそんなの不愉快なだけかもしれないし……。

 どうしたら先生に、ご自分が素晴らしい音楽家で未来は多くの人から絶大な尊敬を受けていることを分かっていただけるのだろう……。

「詩さん」

「はい」

「ぼくの音楽を知っている、と以前言ってくださいましたよね?」

「はい。言いました」

「詩さんはぼくの音楽を良いと言ってくださいましたよね?」

「はい、言いました。本当にそう思っていますし、先生にお会いする前から先生の音楽で知っている曲があって、好きだなって……」

「そしたら、ぼくはやっぱり作曲して良かったです。もう、それだけで」

「その……」

「未来の異国であなたがぼくの音楽を聴いて良いと言ってくださった。そんなことがあるのだろうか。何だかよく分からなくなりますね」

「はい……」

「ぼくはとてもうれしいのです」

「私だけではないんですよ。もっと世界中の人が先生の音楽を愛しています」

「ありがとう。もしそうなら幸せなことです。未来にも自分の音楽が知られているなんて、本当に素晴らしいことです」

「あの……」

 私を見て、それから遠くに浮かぶ露店の明かりに目をやる先生の表情からはさっきまでの陰鬱さが消えてただ清々したようなすっきりした笑顔になっている。

「悩んだってどうにもならないこともありますよね」

「はい……」

 一つ大きくため息をついてから先生はいつもの穏やかで静かな話し方を続ける。

「それでね、子どもの頃はあの厳しいコンヴィクトの規則に例外を作るほどの才能があると教師達が認めてくれたのでしょうね。異例でしたがぼくだけ外出が許され、教師の家を訪ねて勉強をさせてもらっていました。音楽のことならぼくは何だって吸収したかった。特にあの頃の情熱は自分で思い返しても凄まじいものがあったような気がします。あの年齢の人間が持つ情熱は大変熱いものだと思いませんか?」

「はい、そうですよね……」

「それで、いい先生がそこにいたのです。ぼくの尊敬する師匠、サリエリというのですが、ぼくの才能を見つけてその情熱を育ててぼくを満たしてくれました」

「サリエリ……。私、その方を知っているかも……。もしかしてサリエリってあの、モーツァルトを殺した……」

「え? 何ですか?」

「サリエリって…モーツァルトを嫉妬心から殺害したとか……」

「まさか。師匠がそんなことをするはずありません。詩さんが思っているサリエリやモーツァルトはきっと人違いですね。ぼくの師匠は決してそんなことはしません。そんなことができる人ではないですから」

「先生は、その…サリエリとかモーツァルトとかをご存知なんですか?」

「詩さんのおっしゃっているサリエリとかモーツァルトがぼくの思い浮かべる人物と同一なのかどうかはわかりませんが、ぼくの師匠のサリエリはぼくに音楽の基礎を入れてくれた尊敬する師です。若い頃から今でもずっと尊敬している大変素晴らしい方です。モーツァルトの音楽もぼくは大好きですよ」

「ちなみに、サリエリとモーツァルトって、どんな関係ですか?」

「そんなに関係はないと思います。彼らはそもそも職場が違うので。師匠は宮廷楽長でした。モーツァルトはもっと自由に活動する音楽家でしたね。あ、しかし彼らはもちろん共に仕事をすることもあったようですが」

「そうなんですか……。なんか、サリエリはモーツァルトをライバルとして恨んで毒殺した、みたいなイメージがあって」

「詩さん。それはやめましょう。そんな事実は一切ありません。それよりむしろ、師匠サリエリはモーツァルトを評価していました。彼の作品を気に入っていましたから」

「そうなんですね。と言うか、先生がサリエリの生徒だったってすごいことですね」

「あの方は本当にいい教師でした。他の生徒にとってもいい先生だったのだと思います。コンヴィクトに入るための試験官がまずあの先生でした。ぼくの能力を評価してくださったし先生のご自宅のレッスンでもきちんといろんなことを教えてくださいました。あの方はイタリアから来ているのです。イタリアのオペラを、その芸術をぼくに仕込もうとしてくれていて。ぼくは今でもあの方を尊敬してとても感謝しているんです」

「そうなんですね。先生がそうおっしゃるのならそうなのですね。私はイメージを改めます」

「ぜひそうしていただきたいです。それで、師匠は音楽家として尊敬されるべきなのはもちろんですが、人間的にも慈悲深く情に厚くてとても良い方だったのですよ」

「そうなんですか」

「うちは貧しい家庭でした。だからぼくはあの学校に入学が許されてそこで音楽を学べて、その上あの師匠の追加のレッスンも無償で受けることができてとても幸運だったのです」

「それは先生の才能によるものだったのでしょう」

「それはどうなのかわかりません。ただ、師匠のようないい先生の下で学ぶことができて良かったです。本当に、幸運でした。師匠ご自身が孤児だったからなのかどうか……。先生はぼくのような貧しい家庭出身の子どもにはとりわけ優しい眼差しを向けていた気がします」

「先生がそういうふうに思っているところが、実際の先生とお師匠様のお人柄を示しているのでしょうね。いいお話が聞けて私もうれしいです」

「はい。あの方はいい人間です。師匠の気になるところは、言葉があまり上手くなかったところくらいです。あの人はイタリアから来たんですよね。だからぼくらの言葉が時々通じなかったし先生の話し方は不自然なこともありました。あと、やはりイタリア第一、というお考えをお持ちだったので、なんと言うか、そこの趣味がごく一部合わないと言うか…ぼくの好きな音楽を理解しきってはくれなかったようですが」

「そうなんですか」

「ぼくがドイツ語の歌を書いていたのを知って、一体何をしているのか、といつまでも理解できなかったようです。時にはぼくの方向性をイタリアオペラに矯正しようとしたりも。でも、とにかくいい先生でした。ぼくがあの神学校の生徒だった頃、ぼくが特例で寮を出て師匠のご自宅を訪ねてレッスンを受けた後、ぼくはまた寮に戻らないといけません。先生はぼくを送る、と言っていつも寮まで一緒に歩いてくださったのですが、その途中でアイスクリームをご馳走してくださることがあったのです。それが特別な気分でうれしくて」

「ああ、それはすてきな思い出ですね」

「いえ、おそらく、師匠が食べたかっただけのことだったのかもしれませんが」

「サリエリさん…が?」

「そうです。師匠はそういうものがお好きだったのですよ」

「アイスクリームを?」

「アイスクリームに限ったことではないのかもしれません。あの方は甘い味がするものが非常にお好きでしたから」

「ああ、なるほど」

「だからぼくはその恩恵を受けた、というわけです」

「それはなかなかラッキーでしたね。でもそれってそもそもは、先生が特別音楽の才能があったから外出してまでレッスンを受けに行くことになって、だからそれで勝ち得た先生の才能による報酬、ということになるのではないですか?」

「ああ、そこまでのことを考えていませんでした。言われてみればそうなのかもしれません」

「そうですよ。先生は特別だったから」

「詩さんの考え方はすてきですね」

「そうですか?」

「はい」

「ちなみに、そのアイスクリームはどんな味でした?」

「特別でしたよ。甘くて、冷たくて、酸味があって。それを師匠と二人で。あの時間を思い出すと懐かしくて不思議な気持ちになりますね」

「なるほど。それで、このかき氷と似ていましたか?」

「いえ。もう少し近いものかと思っていたのですが…思った以上に、全く…その、全然別物ですね」

「ああ……。それは…残念……」

「しかし、これはこれでとてもいいものですよね」

 すっかり溶けてただの色水になった甘い汁を一気に飲み干して微笑む先生。こんな未来の異国に送り込まれて訳が分からないはずなのに、先生がこんなふうに穏やかに微笑みとっても優しいのはなぜだろう。

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