第11話 悲しみに寄り添う
先生をこの家にお招きして何日経ったのだろう。まだ数日しか経っていないはずなのに、もう長い時間を共に過ごしているような感覚があって、でも私達が一緒にいるのはまだほんの数日。
普段はほとんどずっと部屋にこもって曲を作っているらしい先生。私は仕事と家事。
私は密かに先生のことが好きだけど一つ屋根の下にいても家族でも恋人でもないし、食事以外は別行動なので意外と一緒にいる時間は短い。
一度だけ先生にピアノを教えてもらった。演奏の技術も音楽知識も先生は当然のことながら相当なものをお持ちだけれど、だからこそ、なのか…ピアノを教えている時の先生の様子で何となく分かった。先生は私なんかにピアノを教えているよりも自分で演奏したり作曲している方が快適みたい。大作曲家の生徒にしてもらうには私には実力がなさ過ぎるし……。先生はそのお人柄で優しく忍耐強く丁寧に教えてくださるのだけれど、私の出来の悪さ……。先生の期待に全然応えられなくて恥ずかしいしいろいろとつらく感じてしまって…だからそれ以来レッスンを頼めないまま。
ただ、先生は居候の立場を気にして何かほんの少しでも貢献しようと気を遣って私のレッスンをする、と申し出てくださったので…そのお気持ちに応えるためにはまた私の方からレッスンをお願いした方がいいのかな……。
だけど私にしてみれば先生のそんな気遣いは無用。居候とか何とか、そんなこと。先生にはずっと好きなことをしていていただきたいと思う。
そもそも私は保育園のピアノの課題をこなすのが精一杯程度の腕前。ここからどんなにがんばったとしても先生のような高い芸術的レベルには到底辿り着けるわけもないのだし。
どうか先生のしたいと思っていることに先生のお時間の全てを使ってください。私は心の底からそう思っている。
先生はたまに私に向かって人生や家族についてちょっと苦しそうな表情を見せながら話すことがある。そんな言葉の中で先生の元いた世界でのいろんな苦悩を聞いたから。
音楽に集中したいのになかなか思うようにいかない。
分かるような気はする。
どこにいたって生きていくのは大変。人生はつらいもので、どこもここもそれは同じなのだろうな、と思う。
そんな話になると、時代も国も違うけれど、結局は同じことなのだろうな、と私もそのことに本当に強く共感する。
そして先生はこんなところに来てしまったせいで親友にも家族にも会えずにいる。寂しいかもしれないし窮屈かもしれない。いつまでここにいるのかとうんざりしているのかもしれない。
私が先生を閉じ込めている…? もちろん先生のお好きなように外に出てもらって構わないけれど…でも外に出ると言っても……。仕事をしていただく、とか? だけど仕事なんて…どんな仕事を…?
過去からやって来たシューベルトです!と言って売り出す? 先生の音楽は素晴らしいけれど…そんなの…色物扱いになってしまったら……。
そもそも誰も先生が本物のシューベルトだとか…そんなことは誰も信じないだろうし、ただの色物にしか取ってもらえないかもしれない。そんなこと……。真面目な先生がそんな扱いを受けるのは私が嫌。音楽が分かる人なら本物だって分かってくれるものなのかな……。
一番現実的なのはやっぱり、ピアノの先生でもしてもらって…と言っても、先生本人がどこの誰だか分からないのに生徒を取ってピアノを教えるなんて。そんなことは先生も望まないだろうし……。
それにちょっとだけ……。先生は私だけの先生でいてほしいかな、なんて。
もう…どうにもできない現実を考えるのはやめようっと……。
私は先生がここにいてくだされば良くて、ずっと今みたいな生活ができれば、もうそれだけでいいから。
でも、先生はこの生活をどう思っているのかな……。
私は、先生が同じ屋根の下にいてくださって、その存在に本当に助けられていて、ただそれだけで私の心は救われている。だから、これ以上のことなんか何も望まない。どうかずっとこのまま……。
二人分の家事は大変なのかもしれない。けれど今は先生のためにいろいろお世話させてもらえることがうれしくて楽しいし一人でいるよりも百万倍いい。
先生の身の回りを整えて食事を用意して、二人で快適に生活できるようにする。ささやかな生活の動作一つ一つが幸せだということがこんな心満たされることだなんて知らなかった。
私一人だったらきっと、お母さんがいなくなった虚しさで私は何もできなかったと思う。先生が私の張り合いと気力に源になってくれている。
先生がいてくださるから食事を作る。家事をする。仕事にやる気を出すことができるのも、先生との生活のため。
先生のおかげで私、生き生きしていると思う。先生のためなら何だって。先生が家に来てくれて良かったなって。
さて、今日も食事の支度。
お母さんがいた頃は実家住まいの環境にどっぷり甘えていたけれど、料理だけは子どもの頃から日常的に教わっていて、とは言ってもごく普通の料理ばかりだけれど…とりあえず食事作りの基本ができて良かった、なんて今さらまたお母さんを思い出す。ありがとうって、ふと思うけどもう伝えられない。
親孝行したい時には、なんだね……。お母さん……。
いなくなってから気が付くなんて、本当に親不孝だよね、私……。お母さん、料理の仕方を教えてくれてありがとう……。
女の子だからってわけじゃないのよ。誰だって料理くらいできないとだめ。でも、料理が好きな女の子は得することが多いから。好きな男の子ができたらおいしいものを食べさせて喜ばせてあげて。一緒においしいものを食べたら二人とも幸せでしょ? 詩、いい? うちの肉じゃがはこう。詩も覚えておくのよ。味付けはまず砂糖ね、それから……
「詩さん。あの、詩さん?」
「え、あ……。はい。先生……」
「どうされました?」
「いえ、何でも……」
「お怪我、されました?」
「いえ、大丈夫です……」
「手ですか?」
「怪我はしていません。大丈夫……」
「しかし……」
気が付いたら私、あの頃のお母さんのことを思い出して包丁を見ながら泣いていた。そんな私を見て戸惑う先生。
「詩さん……。大丈夫ですか?」
「すみません……。心配をお掛けするのも申し訳ないので正直に言いますね。料理を母から教わった時のことを思い出したら寂しくなってしまって……。料理はほとんど母から教わりました。だからなのか…あの時の母の声が聞こえた気がしたんです。でも、母はもういないんだなって…そう思ったら寂しくなって……」
「そうですか……。それは悲しいですよね。そのお気持ちが分かると言っては不愉快かもしれませんが、ぼくもあなたのお気持ちが分かるような気がします」
「すみません……」
先生が私に近付いてくる。そして抱き締められた。最初の日と同じ。でももう先生からろうそくやほこりの匂いはしない。
涙が乾かないまま先生の胸の中で、私はこれを望んでいたのかな、なんて一瞬思い浮かんで、自分の心の中の邪さにため息をついてそれを消そうとするのだけれど……。
優しいけれどぎゅっと圧を感じる強さでその優しい仕草に心が丸ごと包まれる。先生の体温を感じると、好き、と思う。私はこの人のことが好きで、こんなに近くにいるともう、気持ちが抑えられなくなってしまう。本当に優しくて思いやりのある人。これ以上優しくされると、もう……
「すみません、先生。あの…ありがとうございます……。ええと…その…お食事、あともう少しだけお待ちいただけますか?」
「ぼくも手伝いますか?」
「いえ……」
「詩さんも今日は休んだらいかがですか?」
「え?」
「ぼくはここに来てずっと不思議に思っていました。毎日そんなにきちんと食事をご用意してくださるのはぼくが客人だからですか? もう少し家庭的に、とでも言いますか……何と申すべきかな……。ぼくはただ、あなたに無理をしないでいただきたい、と思うのです。ぼくのことなんか、どうか気にしないで。どうか、無理をしないでください。ぼくは今日は食事なんかいりません」
「心配してくださってありがとうございます。でも大丈夫です。無理なんかしていませんから」
「だけどあなたは悲しみの中にいるのに仕事をして、ぼくの世話をしている。心も体もお辛いでしょう。だから食事のことなんかはもう、いいですよ」
「先生のお世話だなんて。先生はもう大人です。私だってどうせ食事をしますし……」
「詩さん。ぼくは今日は晩の食事は結構です。無理はしないでください。お願いします。少しお休みになりますか?」
「いえ、私は全然…平気ですよ。すぐに料理、作りますから……」
「しかし」
「そしたら先生」
「はい」
「お散歩に行きませんか?」
「散歩ですか?」
「はい。気晴らしに。それで、居酒屋にでも行きましょうよ。そこで晩ご飯にしましょう」
「酒場ですか」
「はい。お嫌ですか?」
「いえ、ぜひ行きましょう。夏の夕方の散歩なんて大変素敵です。この世界の酒場にも興味があります」
「そしたら私ちょっと、支度をしてきますから」
先生と夏の夕暮れ空の下、二人で並んで歩き出す。
先生もここに来て数日経って、こちらの世界の夏服にも違和感がなくなってきた。今日はオレンジ色のシャツを着ている。意外とオレンジが似合うシューベルト。あの時代の作曲家って皆、暗い色の服ばかりを着ているイメージ。こんな色味のイメージはないよね、なんて自分だけの大作曲家先生が隣にいるようで一人で内心ちょっと喜びつつ、私はサンダルに暗い色のワンピース。
私は先生の隣にいるだけでいい。いまだにこの人が一体何なのか全く分からないけれど、それでも先生がいてくれて良かったし助かっているし、だからもうそれだけでいい。本当に。
だけどもし……。私が先生に好きです、と言ったらどうなるのだろう。もちろん今はそんなこと言えないけれど、私はもう私の心を騙し続けられない。私は先生のことが好き。
「先生」
「はい」
「先生はご結婚されているんですか?」
「どう思いますか?」
「未知ですね。全然分からないです。先生の元の世界には奥様がいらっしゃるのでしょうか」
「ぼくに妻はいないんです。結婚、していないんですよ。いい歳なのにね」
「先生はおいくつでいらっしゃるんですか?」
「ぼくは三十一歳です」
「ああ、まだまだこれからですよね」
「いえ。結婚して家族を養うべき…それが常識なのは分かってはいます。もう、子どもを育てていないといけない年齢ですよね」
「常識なんて……」
「過去にね、結婚したかった女性がいたんですよ」
「え、そうなんですか。その方とは…?」
「ぼくがだらしないから結婚できませんでした」
「そんなことは……。だらしないというのは……」
「結婚するなら彼女を、家族を養わないといけないですよね。そうすると、そのために働かないといけない」
「そうですね」
「でもね、ぼくはそういうことができない性質なんですよ」
「音楽は?」
「音楽では養えません」
「養えませんか?」
「全然だめですね。たまに作った曲の報酬がまとまって入ってくることはあります。だけどぼくは有名でもないし自分の音楽を売る才能が全く無くて経済的に全くだめです」
「先生ほどの才能があってもそういうものなのですか?」
「ぼくはそれほどではありません。自分では音楽家だと思っていますが全然稼げないのです。書いた曲を売る方法もよく分からなくて」
「そういうものなんですか……。だけど先生の音楽は先の未来にずっと残っていくんですよ」
「そうかな……」
寂しそうに遠くを見つめる先生。
隣にいると、そこにある存在を感じるごとに、思いがあふれていく。先生、私のことを……好きになりませんか? 私を…好きになってくださいませんか。
でも、先生はまだその結婚できなかった彼女を思い続けているのですか?
秘めた想いは日に日に大きくなって、このままずっと先生のそばにいるとそんな気持ちがいつか、無意識にそのまま言葉として口に出してしまいそうで……。でも、それを口にしたらきっとこのささやかな幸せが消えてしまう。今の私には、思いを伝えることよりも先生にただここにいていただきたい。それだけで…いい…はず……。
「あのね、詩さん」
「はい」
「ぼくは生きるのが下手な人間なのです」
「そんなことは……」
「彼女は、ぼくがだらしないから他の男と結婚しました」
「そうですか……。いえ、先生がだらしないからだなんて、そんなことはないと思います。だけど…それは残念でしたね……。先生、その方のことがまだ好きですか?」
「そんなこと……。ぼくにもよく分かりませんね……」
きっと、先生はまだ彼女のことが好きなんだろうな。先生の瞳の奥の寂しそうな光がそう言っている。まだ一途に思い続けているのかもしれない。先生はそういう人だから。
「ごめんなさい、そんなことを聞いてしまって」
「いえ、全然構いません。だけどぼくは家庭を持つよりも音楽を取ったんです。彼女は何年か待っていてくれました。ぼくが彼女にふさわしい結婚相手になるのを待っていてくれたんですよ」
「そうでしたか。ということは、向こうも先生のことを……」
「おそらくそうですね。彼女とは気持ちを打ち明けあったことがありました。でも、ぼくは彼女が望むような、世間一般で認められるような人間になることができなかった」
「そんなことは……」
「うちは教師の家庭で、彼女はパン屋の娘だったんです。ぼくらが相思相愛だったとしてもそもそも身分が違ったので最初から、ね」
「あの…教師とパン屋って、身分が違うんですか?」
「違いますね。教師はパン屋よりも下です。彼女と結婚するのであればぼくは相当の職に就く必要があったのですが、ぼくは音楽以外のことをしたくはなかったのです。父は教師になれとうるさいしぼくらはそのせいで仲たがいをしたこともありました。だけどぼくには何があったって誰に何を言われたって他のことなんかできないのです」
「分かります。先生はもちろん、一番は音楽でしょう。私にだってそれは分かります。しかし…一つ質問ですが、教師って素晴らしい仕事なのに、その…身分が下なんですか?」
「そうですよ。確かに教師は素晴らしい仕事ではあります。尊敬を受けることも時にはあります。しかし収入は少ないし、全体を見れば下の方の仕事ですね。そうすると教会の許可だって下りません」
「教会の許可?」
「誰かと結婚をするのなら教会に許可をもらわないと」
「え、教会の許可がないと結婚できないんですか?」
「それはそうです。だって、きちんと生活していかなくては。子を設け増やしていくことを考えれば当然。頼りない相手だったら親だってその結婚を認めないでしょうし、教区に、神に認められなかったらその先どうやって生きていきますか?」
「そうなんですね……」
「それに、神より前にお互いの親を納得させる必要もあります」
「彼女さんのお父様も反対なさったのですか?」
「生活能力のない男となんか結婚させないでしょう。ぼくの音楽での収入は不安定です。彼女の親が心配するのは当然。それはぼくにも分かります」
「そうですか……。だけど…そうなのでしょうか……」
「ぼくみたいな音楽だけで生きようとする人間の不安定さはどこの誰から見たって結婚相手には相応しくはない」
「……」
「詩さんは?」
「私ですか?」
「お一人でお住まいだったようですが、誰か、そういう方がいらっしゃらるのでしょうか」
「全然です。いい歳なのに」
「あなたはとても素敵だから、きっといい妻になるし、いい母になるのだとぼくは思います」
「いえ、全然…そんなことは……」
先生は私を見て微笑んで、私の長所を一つずつ言葉にしてくれる。料理ができる。親切。きれい好き。美しい容姿を持っている。何よりも、澄み切った心を持っている。こんなにすてきな人はどこを探してもいないだろう。
なんて、お世辞だろうけれど、真面目で誠実な口調で話す先生に「それはお世辞でしょう」という返事もできない。そんな褒め言葉をいくつも言われたらなんて答えていいのか分からない。
先生はいつもの優しい笑みをこちらに向ける。それを見るたびに私の心は穏やかになり、そこに寄りかかりたくなる。
先生、手をつないでもいいですか、と言いそうになったところで先生が空を見上げて私に言う。
「あ、見て、詩さん。なんてきれいな夕暮れだろう。ああ、うれしいな。こんなに美しいものがぼくの目に入ってくるなんて。空がきれいだと幸せな気分になります。それは、この世界でも、ぼくが元いた世界でも同じですね。きれいだなあ。こんなにうれしいことがあるだろうか」
信じられないくらい美しいオレンジが向こうの空に広がっていて、いつもの町のどうということのない場所なのに、その色がすべての物事を感動的に映している。明日は晴れ、かな。
空を見てうれしそうな先生を見ていたら、なぜだか苦しくなる。何を見ても、母のことを思ってしまう。
「あ、詩さん……。大丈夫ですか?」
「はい。空、きれいですね……」
「詩さん……。お母様を亡くして、さぞお辛いでしょう」
「……」
「ぼくは、何もしてあげられなくて……。ただ、あなたの悲しみに胸を痛めています」
先生は私の手を取り私を見つめる。
「あ…先生……。大丈夫です……。でも、私……」
「ぼくはあなたの苦しみや悲しみを和らげてあげたいと思っています」
私は先生のことが好きだから…このまま、なんて……。だけど、先生は私に対してそういう気持ちは持っていない。だから…そういうことをするわけにはいかない。
「詩さん、ちょっとそこに座りませんか?」
「はい」
暮れていく街中のどうと言うことのない公園のベンチ。美しい夕暮空の下、私達二人だけ。母が亡くなった悲しみと先生が隣にいる幸せとが拮抗している。けれどここにいる生身の人間の力の方が強い。悲しみよりもここにいられる喜び。その中で母が最期に病で苦しんでいた姿を思い出す。心の中はひどい土砂降りなのに強い陽の光が射している。
先生は私の手をつかんで二人の手を先生の膝に乗せる。
「詩さん。難しいと思いますが、焦らないで。きっと、その悲しみは……」
「はい……。あの、先生」
「はい」
「いえ、何でも……」
先生は微笑んで私を見ている。知らない世界にやって来ていろいろと大変なのに私を慰めるなんて、そんな気を遣わせてはいけない。私だってそれは分かっているはずなのに。
「あの……。先生のお母様のことをお話してくださいませんか?」
「ぼくの母のことですか?」
「はい……」
「分かりました。そうですね……。ぼくの母は…とても優しい人でした。優しくてぼくら子ども達のことをいつも思っていて、働き者で。母のことを思い出すと何とも言えない気持ちになります。悲しいのと懐かしいのと…それに温かい気持ちにもなりますね。母の一番素晴らしかったところは彼女が持っていた愛情です。愛の深い人だったから、ぼくら子ども達は幸せだったのだと思います」
「素敵なお母様。先生の思い出はとても美しいですね」
「そうですか?」
「はい」
「ぼくは末っ子です。男の子ばかりの家庭で、母はいつも忙しそうでした」
「ご兄弟は何人ですか?」
「母はたくさん子を産みました。でも亡くなった子も多くて……。きょうだいは兄が四人、姉が一人です」
「子沢山…なんですね……。ごきょうだい……。お母様も…それは大変でしたね」
「母は大変だったと思います。ぼくは末っ子だったからいつも母の近くにいて、母はいつも忙しかったはずなのにいつだって優しかったです。愛情深くて、ぼくはずっと母のことが大好きでした」
「かわいらしいですね」
「普段はこんな話はしないんですけどね」
「あ、すみません……。そういうことを聞こうとしてしまって……」
「いえ、たまにはこんな話も、いいかもしれませんね」
「あの、先生のお母様は……」
「ずいぶん前に亡くなりました。母が亡くなった時は…ぼくはもう、とても悲しくて……。今だってまだ、そのことを思うと悲しくなります」
「そうですよね……」
「ぼくはもっと自分の愛情や感謝を母に伝えるべきでした。母の亡骸を前に、ぼくはあの時、ひどい後悔に襲われたんです。母の声をもう一度聞きたい、と思ったら涙が止まらなくて……。あの時…ぼくは本当に全てのことに絶望していました。もう、そこから先の人生なんかもうやっていけない。そう思いました。母に自分の気持ちを一つも伝えられないまま、きちんとさよならの挨拶もできないまま……。何の感謝もできず親孝行をすることもなく…ぼくらの関係は死によって分断されたんです。もう一度、母に会いたいなあ……」
先生の気持ちなのか、自分の気持ちなのか、心の中に嵐がやって来て、その突風に抗うことができなくて私は泣いていた。
私も同じ気持ちだから。母に気持ちを一つも伝えられず、きちんとさよならの挨拶もできないうちに、無理やり別れさせられた。もう母に会えなくて、もうその声を聞けなくて、何も伝えられなくなってしまった。楽しかったささやかな二人の生活を送ることがもう二度とできないなんて。親孝行を一つもしていないのに。
先生は私が泣いていることを知りながら何も言わず私の手を取ってただそこにいる。そこにある先生の厚みのある温かい手のひらが私の指をぎゅっとつかむ。これが先生の私に対する慰めなのだろうな、と思う。
「だから、あなたの悲しみが分かると言っては失礼かもしれませんが、ぼくはあなたの気持ちが分かる気がするのです」
「同じ思いをされているのなら、そう言ってくださるのは慰めにもなりますし、本当にありがたいです」
「人は大抵、別れの時が来たとしてもその時までそのことに気が付かないものです。だから多くの場合、多くの人がきちんと別れの言葉を言えずに後悔を残す。誰しも、人生がどの瞬間に消えるのかを知らないから。まさかその日だとは思わないものです」
「……」
「だから残された者は心に傷を負います。しかしそれは、その人が自分にとって大切な人だったからです。詩さんの痛み、それこそ、お母様に対するあなたの愛なのではないでしょうか」
「はい……」
「ぼくは母が亡くなった時、本当につらくて、その後もしばらく、いえ今だって、それは心に傷を残しています。でも、ぼくはそれはそのままで良いと思っています」
「あの、先生のお母様はいつ頃……」
「母が亡くなったのはぼくが十五歳の時です」
「そんな年齢では……。それは…さぞ…おつらかったでしょう」
「ええ。ぼくはその当時コンヴィクトにいました。寄宿制の神学校の寮ですね」
「そうなんですね」
「亡くなった母を見た時はすごく悲しくて」
「そうですよね……」
「優しかったお母さん。思い出すなあ……」
夕焼けを見上げながら穏やかな表情の先生。十五歳の時にお母さんがいなくなってしまうなんて、しかもそんなに優しくて大好きで、きっと一番大切な心の拠り所だったはずの人がそうなってしまうなんて……。何と言ったらいいのかわからない……。
そんな悲しいことを思い出させてしまって申し訳なかったな、と思いながら、でも自分のつらくて苦しい思いが先生の若い頃の経験を聞くことでかなり和らげられていて、やっぱり先生の存在に救われている、と思う。
この人は人の気持ちが分かる本当に優しい人。きっと先生のお母様がとても優しい人で、そういう仕草で彼を育ててきたから先生はこんなに優しくて思いやりのある温かい性格の大人になったのだろう、と思う。
時代や世界が違うとしても人の心は変わらない。今も昔も、人は喜びや悲しみを繰り返して生きている。
「ぼくらも同じなのかもしれませんね。自分がこの世を去る時、自分の思いを伝えきれないまま、後悔を残しながら天に召されるのかもしれない、なんて」
「はい……。そうかもしれません……」
「だからぼくは音楽を残したいのかもしれません。ぼくの言葉は全てぼくの音楽に込められています。だからもし、詩さんがおっしゃるように、ここが未来のぼくが知っているのとは全く違う世界だとして、それでもぼくの音楽がまだここに残されて伝えられているのだとしたら。そしてそのぼくの言葉を読み取ろうとしてくれる人がいるのだとしたら。それはどんなことよりもぼくにとってうれしく光栄なことです」
「そうですね。たくさんいるはずです。先生の音楽が今もこうして残されているのは、そういう人がどの時代にもいたからです。そういう人がいたのは先生の音楽が人を惹きつけるからです」
シューベルト……。音楽家の顔をしている……。やっぱりこの人は……
「もしもそうなら、本当にうれしいことです。もしもそれが事実なら、ぼくはもう死んでもいい」
「いえ、そんなことをおっしゃらないでください」
「だけどそれならば、もしも本当にそうなら、ぼくはもっとさらに曲を書く必要がある、とも思います。報われないことばかりだと思っていつもつらいのですが、この世界が事実ならば」
「事実です。先生……」
私を見て微笑む大作曲先生。つないだままの手の温もりを感じながら訊いてみる。
「先生は…人生って大変だと思いますか?」
「思いますね。ぼくはいつも悩んでいます」
「やっぱり、どこの誰にだって、そういうものなんですよね」
「やっぱり?」
「先生はシューベルトなのに」
「そうです。ぼくはシューベルトです。詩さん、どうしました? ぼくを笑わせようとしているのですか?」
「いえ、先生の人生は成功します」
「あなたにそれが分かるのですか?」
「わかりますよ」
先生は笑って空を見上げる。
「どうやったら、成功するのかな。どうすればいいのか分からないんですよ」
「先生、今度演奏会に行きませんか?」
「演奏会?」
「先生の作曲した音楽が演奏されるコンサートです」
「ここにそんな演奏会があるのですか?」
「はい。先生の音楽は場所も時代も超えてずっと愛されるのです。たくさんの人が先生の音楽を好きなんです。だから。先生の作曲した音楽が演奏される演奏会へ行きましょう」
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